国内新人選手の場合【投手】


Sランク 投手 【国内新人投手Sランクリスト】
出身地 関東 
成長衰えタイプ 普通 普通
初期値評価

変化球含めて基礎能力はある程度完成されている即戦力ルーキー。ピンチが低めではあるもののBランク選手の成長ピーク張りの能力を最初から持っているのはかなり強い。しかも左腕なので一年目から戦力次第ではローテーションを任せられる。回復もCなのでリリーフでも大丈夫

 

全盛期評価

全く文句のない成長内容。

制球、ピンチが共にAで球速も154km、球威もBとすべての能力が優秀と言えるレベル。変化球もカーブ、スクリューという強力な球種がA相当に成長。直球でも変化球でも抑えられる投手に。ピンチがSに行ってくれれば一つの不満もないのだが、左腕の補正もあるので全く問題なし。

 

成長遍歴【初期値→全盛期→衰えピーク→引退】

ゲーム中の成績【キャリアハイと特筆すべき成績と通算成績】

防2.44 23勝 3敗 199奪三振 225回1/3 勝率.885

29試合登板出場先発

キャリアハイがこんな感じ工藤公康に比べ四球が多いが

被安打が少ない。

 

選手の前半は同リーグ他チームで活躍していたので、中々成績が上がらなかったがプレイチームに(マリーンズ)移籍してからはスペックどうりの活躍を見せてくれた。通算成績のいずれも優秀な成績でありタイトル獲得もある。

 

私的評価【投手】
役割適性 先発 4人 5人ローテでも大丈夫
奪三振 B タイトル取れる程度には能力高し
変化球 A カーブとスクリューという優秀な球種を持つ
安定性 B 左腕と高い制球とピンチでローテの柱になれる
完成の速さ B 1年目から一軍。3年目からはどこでもローテに
活躍期間 B 大卒普通/普通だが即戦力なのでそこそこ長め


総合評価 A 

左腕という本作最大のアドバンテージを持ちながら

基礎能力も優秀なので、通算で安定した成績を残せる

優秀な投手。江川ほどではないが即戦力でもあるので

日本一を目指すような状況下でも戦力になりえる

完成度の速さと衰えの速さ自体は並の選手なので

活躍期間も長い。通算でも安定しているが

一つのシーズン成績もリーグ全体からすれば傑出した成績を残せるので物足りない活躍を全盛期ですることは

そこまでないはず。あらゆる面を考えても

取らない理由がない素晴らしいエースである。

やきゅつく2003選手リスト一覧

 

【実際の活躍】

中学生時代から有名な選手であり強豪私立からスカウトが来ていたが、それを断り公立校に進学し塾通いをしていた。本人は文武両道を目指していたらしい。結局甲子園に行くことはなかった。

 

高校卒業後は亜細亜大学に進学。

チームメイトに同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいた。

東都大学リーグでも優秀な成績を修め、1986年にドラフト会議で読売ジャイアンツ、近鉄バファローズ、横浜大洋ホエールズの三球団から競合指名を受ける。

結果近鉄バファローズに入団。

 

1年目から投手陣の柱として大活躍をし素晴らしい成績を残す。防2.88 15勝12敗201奪三振と普通であれば文句なんて出ない成績であったが同期入団で日本ハムの新人エースであった西崎幸広も15勝7敗防2.89という成績であったために意見が二分されるかのように見えたが、結局は新人王を獲得。

若き両雄はトレンディエースと呼ばれ一世を風靡。当時人気なんぞクソみたいなパリーグの選手が女性に人気が出るという。別の世界線の話のような空気が生まれた(良いことだよ?)

 

2年目以降も優秀な成績を修め、キャリアハイ(個人的)は1987年(2年目)。防2.61 14勝12敗 181奪三振。

1988年も防2.71 19勝8敗 183奪三振 と入団して3年でもう不動のエースになっていた。

 

しかし1990年に一変してしまう。

原因としてはルール変更によって厳格化されたボークの判定と西武首脳陣の【口撃】によって成績が下降。

それに加えてクイックの練習のし過ぎで左肘の靱帯を損傷。それだけなら治療すれば治ったのだが本人曰く「野茂英雄の入団に焦ってしまった」ことにより状態が悪化。

それでも当時近鉄の監督の仰木彬は阿波野に全幅の信頼を持ち続け91年まで3年連続開幕投手を務めさせ

仰木政権最後の試合でも先発を任せた。

また92年にはリリーフを兼務させた。

(昭和の監督は先発リリーフをエースが両方やるという思想)

それでも成績は上がらずに、仰木の後任監督であった鈴木啓示とも馬が合わず、1994年に香田勲男とトレードで

読売ジャイアンツに移籍。

 

1995年からは中継ぎ投手として再起を決意するものの未勝利に終わった。別にヌッスしてないからマシだとは思うが。

要するにそこまで登板機会がなかったということである。

1997年に永池恭男との交換トレードで横浜ベイスターズに。

 

※ヌッス…先発の勝ちを消しながら自分が勝利投手になる

 

横浜時代は近鉄所属時の投手コーチ権藤博が監督を務めており、権藤も阿波野を当時から信頼していたので積極的に中継ぎ起用。防4.67ながらも50試合に登板しチームに貢献。権藤再生工場などと呼ばれる一因を担った。チームも日本一に輝く。しかしこれが最後の輝きになり2000年に戦力外通告を受けて引退を発表した。

 

プロ野球が始まって長いが

ドラフトで競合指名を受けた全球団に在籍し

現役時代に在籍した球団で日本シリーズに出場し

ドラフト指名された全球団で日本シリーズに出たのは

阿波野秀幸ただひとりのみである。

という面白い記録を持つことになった。

 

巨人はともかく、近鉄と横浜で日本シリーズに出場し

横浜では日本一達成(38年ぶり)を

チームの一員として体験するという

極めてまれな幸運の持ち主といえるのではないか

 

引退以降は主に巨人でコーチを務める期間が長いがアマチュアでも指導者経験があるという。

今では中日の一軍投手コーチを務めて2019年のチーム投手成績を大きく改善させるという結果を残しコーチとしての活躍もこれから期待される。

 

 

ブログ主自身現役を知らず、調べてわかったことのほうが圧倒的に多いがコーチとして権藤イズムを継承し名投手コーチと呼ばれるように頑張っていただきたいと思う私でした。

 

それでは