投手 
Sランク 国内新人選手Sランク投手リスト
出身地 中国・四国 
成長タイプ 普通 
衰えタイプ 遅め 

初期値論評

代名詞になるシュート含めて意外と控え目な初期値。

新人であることを考慮すれば

球速と守備力が高めで球種が豊富なのがポイント高いか

また昭和のエースなので回復CでスタミナSというので

短いローテでもそこそこやっていけるので記録更新も視野に。


ゲーム中の活躍

(データ収集がお粗末な時に取っていたので情報が足りないですがご了承ください)

入団5年目にはご覧の通りの能力値。

制球がAに近いBなのが唯一の不満点か。

しかし変化球のレベルが全て高くピンチ守備力もA。

なによりも球威が国内選手では珍しいSになるのは◎。

これで成長のピークではないのが恐ろしい。


成長のピークが31歳のはずなのだが球威の衰えが見られる。しかしピンチと変化球はさらに上がっているので投手としての完成度は上がっていっている。

 

成績の画像を取り始めた27年目以降の成績。

右投手ながら防御率が2点と安定した投球。確かこのデータでも横浜は弱かったのだがその中でも孤軍奮闘状態だった平松。衰えが始まっているというのに何をやっているのか…

 

まぁしかしそんな平松も衰えが顕著になってくるとやはり並の右投手の成績に。何よりもピンチがCなのが痛い。

 

恐らく最晩年。もう一軍投手としての活躍は期待できないものになってしまった。まぁ40近くで投げられる奴なんてそうそういないので文句もないのだが…

そんなこんなで引退。

最初の頃は一軍でそんな投げなかったので実働15年くらいであろうか。5年目から一軍の先発エースとして右投げとしてはかなりの安定感を誇っていた。通算ではチーム事情も相まって150超えていればいい程度だが防御率はかなり低いはず。

今回あまりデータを取ることを真剣に考えていなかったときに出てきた選手なので写真を見せることができなかったが、それでも使える選手だというのはわかるくらいの活躍は示してくれたはず。

 

もう一度新人で出てきた際は追記しますのでその日をお待ちください。

 

実際の活躍
平松政次 日本プロ野球記録 様

 

1970年代に大活躍した

大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)

名投手。

 

高校時代から有名な選手で甲子園優勝も経験した。この時の対戦相手に阪神で活躍した藤田平がいた。またこのころからのライバルでヤクルトの大エース松岡弘、荒れ球を持つ剛速球として期待されていたが黒い霧事件で追放された森安敏明が同時代で活躍しておりこの世代は岡山三羽ガラスと呼ばれるほどであった。1965年の第一回ドラフト会議で中日に4位指名を受けるが入団を拒否しその後日本石油に入社しエースとして大活躍。1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団を保留し翌年まで日本石油に所属していた。1967年に都市対抗で優勝しその二日後に大洋に入団したがこの時の説得に秋山登(大洋の大エース)と土井敦(秋山と同高校に所属しそのまま共に大洋に入団した捕手)が平松のもとに訪れたという。

 

1年目は途中入団だったので3勝。

2年目はジンクスにはまったのか5勝12敗防4.28でありこの時「俺の現役は3.4年で終わりだな」と覚悟したというエピソードもある。←なんでそんな奴が200勝するんですかね…

 

しかしその2年目の終わりのキャンプで雨天練習の際、体育館で練習していた時に

当時の有名な巧打者近藤和彦、近藤昭仁たちに

こんなボールしか投げられないのかww」と笑われたので性格が短気だった平松は激おこぷんぷん丸になり、それまでお遊び程度でまともに投げたことのなかったシュートを投げた。この時投げたシュートは6球のみだったがそのシュートは右打者の胸元で急速に変化し煽った近藤和彦は腰を抜かした。ダサすぎる

これを一軍選手が首脳陣に報告し3年目から平松の大活躍が始まった。

 

3年目の1969年は14勝12敗防2.56という好成績。

4年目は25勝19敗防1.95で最多勝と沢村賞を獲得。

1969年から12年連続で二桁勝利と決してお世辞にも強いとはいえない大洋では異次元ともいえる活躍を見せた。1983年には200勝を達成し名球会にも入ったが現役の晩年はガラスのエースと呼ばれるほど風とケガに悩まされたといわれている。

 

結局1984年に引退。当時名をはせた名投手は大体巨人キラーと呼ばれていたのだが(星野仙一、松岡弘など)平松も例にもれず、それどころか対巨人戦の勝利数は金田正一に次ぎ第二位の51勝。通算勝利数の201の1/4以上を巨人からもぎ取った大エースであった。

 

その後の野球人生は解説者としてのキャリアがほとんど。

こういう名選手は古巣の球団の監督やコーチを務めてめでたく晩節を汚すコーチとしてのキャリアを残すのだが平松は古巣も他球団の首脳を一切経験することはなかった。

 

平松といえばカミソリシュートと呼ばれるくらい有名なシュートを投げていた。それを武器に活躍し巨人の伝説的選手長嶋茂雄は平松を大の苦手にしており200勝記念パーティでも

「寝ても覚めても平松のシュートが頭から離れなかった」とコメントされるほどであったが、当の本人は

「アマチュアの時みたいにシュートとカーブだけで勝ちたかった」とコメントを残している。なんて贅沢な…

 

また先述しているが短気で気が強い性格をしていた。そのエピソードとして

・先輩のエラーに切れて砂を蹴っ飛ばす

・試合で炎上しコーチの説教にブチギレ、ベンチの扇風機を叩き壊す。なおこの扇風機は金属製であった

・ミスをした周囲に起こるので「みんな懸命にやった結果なのだから変なプレーをしてもお前が助けろ」と説教を受けるが「俺は勝ちたいんだ!変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と反論した。

 

まぁコーチをやったら大変だろうと少しはうかがい知れるものである。

 

ヤクルトに所属し大活躍したエース松岡弘とは同じチームになることはなかったが同じ出身地で同じ学年で同じエースであり非常に長い間ライバルでい続けたのもあり友人の関係でもあるらしい。

 

平松を調べていて面白いと思ったのが松岡弘との比較である。

長い現役を務めてAクラス経験を4回ほど経験したが優勝経験もなく大体が4位か5位というあまりチームとしての栄光に恵まれなかったのが平松であるが、1960年に大洋は三原マジックで日本一を経験したのも含めても2リーグ制から平松が入団するまでの18年間でAクラスを経験したのが4回くらいしかないのでチーム内でそこまで強い勝利に対する意識がなかったことが平松自身にはもどかしい感じではなかったのであろうか。しかしライバルである松岡弘は同じクソ雑魚であったヤクルトに所属しておきながら日本一は経験している。しかしながら200勝はできなかった。

松岡はヤクルトでコーチ経験があったりもするので共通点は多い二人だが真逆の点もあったりするのがこういうライバル関係の比較なのである。最近の選手は他球団の選手同士でも仲がいいのでこういうライバル関係みたいな間柄がなかなかないが昔はかなり殺伐としていた環境もあったのだろう。そういうのも昭和の野球の魅力なのではないだろうかと考えるブログ主でありました。


私的評価
安定 A 普通/遅めという勝ち組成長タイプ。
貢献度 A 恵まれた成長タイプを持ちながら能力も高い
コスパ C 能力相応の値段。右でこれだけならむしろ安いか


総合評価 A

右投手でありながらもその球威と豊富かつ強力な変化球で相手をきりきり舞いさせる投球は圧巻の一言。このゲームの強い選手の法則にあまり当てはまらないにもかかわらずこれだけの防御率を上げられるのはそうそう多くない。また成長タイプが普通/遅めというこのゲームの強キャラにあてはまるのが良い。なかなか取り上げられない投手だが国内新人ではなかなか見かけることのない球威Sの直球で素晴らしい成績を修めることのできる超優良投手であろう。