結果として2回観ることになったこの映画。1回目は、夫のランニング友達に誘われて、金曜の夜9時半から観ることになった。


朝型の私は案の定、睡魔に負けてしまった。意識が飛んだのは10分間ほどだろうか。そしてその10分は致命的で、何のことやらさっぱり分からなくなってしまった。分からなくなったストーリーはさらに眠気を誘い、また睡魔に負けるという最悪の結果となった。


このままでは終われないと思い、昨日リベンジを果たす。


ストーリーは始まりこそインパクトがあるけれど、その後はたんたんと進んでいく。登場人物の表情や動き、景色や音楽など、この映画で最後となる宮崎駿の世界観をじっくり味わおうとした。


2回目だし、とにかく丁寧に観てみる。この映画、事前リサーチで賛否両論があることは知っていた。自分はどっちに転ぶか、できれば賛の方に転びたい。でも、残念ながらそうはならなかった。


とにかく点と点が繋がらず。いろいろ散らかっているのを全く片付けられないもどかしさ。浮かんだ疑問の答えはどこにも見つからず。モヤモヤしたままストーリーは最後まで進んでいった。そしていつの間にか終わっていた。


そして何より、肝心のアオサギが可愛くない。どうして禿げた赤鼻でかおじさんにしたのか。これはやっぱり致命的だったと思う。アオサギだけでなく、どのキャラクターも何となく無機質で、心に響くことはなかった。


そんなことをいろいろ思っていたら、この映画を作る過程で、宮崎駿がもう偉大過ぎて、だから遠慮して、誰も何も言えなかったんだろうとか。高齢化社会の中にある日本独特の組織のことを考えてしまったり。あぁもう、そういうことではないのにね。


この映画からの学びを見つけるとすれば、思春期はとても不安定で、一つ踏み間違えると取り返しのつかないことになってしまうこと。そうならないように大人たちは必死で支えようとしてくれること。自分の思春期は何事もなかったと思うのは、自分だけが気付かなかっただけで、周囲が引っ張ってくれて守ってくれたからこそ、何とか踏み外さず済んだということ。そんなとこだろうか。


映画タイトルの答えなんて、到底見つかるわけもなく。そういう意味でも、日本版の映画タイトルでは無理がある。アメリカ版のタイトル「Boy and the heron」→「思春期の少年と、その友達のアオサギの話」で十分な映画だったように思う。