正確に言うと2度目なのであろうけれど,福建省辺りから船がアラビア海の方まで往復していた。インドからはローマの北まで商人たちが行き来していたことを示すクリシュナ像がイタリアで見つかっている。一度目は確かに船の案内であったが細部までは解説がなかった。今夜,人民網版で映像を観てこれがインド洋を渡って地中海まで中国の商人をイタリアまで運んだ船であることを知った。その船は映像Malay Origin.Dari Mana?で観ていた図(海路を含めて)と同じ。

 

 問題はインド大陸と海路で中国がどのように繋がっていたのかを解くカギが福船にはあるかのかどうか,ということである。つまり,インド南部のタミル語が如何にして日本に伝わったかという謎を解くのにこの福船が役に立つのである。というのも多くの研究者ないし探求者が日本とインドとは7,000kmも離れているのでタミル語が日本に伝わるはずはないという立場をとっているからである。私はミャンマ-から大陸つまり雲南省から揚子江(長江)に至る道を仮想していたのでインド-日本の道は2つあるのではないのかと考えていた。その理由はネズミの移動である。ネズミは米や食料と共に人間と移動する。したがって斎藤成也東大教授がCUSとMUSという種類のネズミの移動を論じていた(ミャンマー,雲南省経路と海上の道)。しかし言語とは結びつけていなかった。すなわちタミル語が南インドからに日本に伝わる経路について見解を公表されていなかった。

 もちろんタミル語(ドラヴィダ語の一部)渡来説は日本で有力ではないので斎藤教授は日本語インド由来説を採らなかったのであろう。しかしコメの原産地が雲南地方であるという説があったので学問研究上,多少はあってしかるべきだったろう。それはさておき,7,000kmの距離移動はこの福船の存在によって解決・証明されたと言ってもいいだろう。

 :久しぶりにスマホの写真が更新された。私のスマホが壊れたような状態になっていたので彼女を始め皆さんも写真を更新しなかったようだ。もちろん私のスマホはファウェイ社が自動的に調整して使えるようにしてくれたものと理解している。それにしてもファウェイ畏るべし。なお写真の彼女は歌手であり,アルバムを残している。”Tambalut Ku”で検索して彼女を応援してほしい。古語ドスン語で唄っている。

 

 インドの友人の一人に「日本語の祖先はドラヴィダ語だ」と挑発したことがある。しかし彼女は肌の色が違うと反論した。つまり,7,000kmの距離を乗り越えて古代のインド人が日本へ行くはずがないと考えていたのである。肌の色は赤道に近ければ黒くなることは明らかで赤道から遠ざかるすなわち北へ行けば白くなることも明らかであるから肌の色は米や日本語の伝来に関係しない。最近のYouTube解説にも言うように7,000kmが問題であり,この距離をどう克服するかが残った問題である。その克服が「複船」であろう。マラッカ海峡は波が高く風が強いという。その強風に強いのが福船であると解説している。

 船の造りは現代タンカーの造りに似ていている。したがって後は,食料の問題だけであろうが,港をたくさん経由していけば貿易風を利用して福建省から地中海まで行くが可能である。もちろんスエズ運河は古代になかったから乗り換えたと思われるが,インド洋やアラビア海そして南シナ海を渡って福建省を往復することが容易でないとしてもできる。可能である。したがって南インドのドラヴィダ語が日本に到達する可能性は高い。

 

 マレーシアのマレー系中国人に出身地を問うと「中国ではない」という。「福建省か」と尋ねるべきなのであろうけれど,悔やいことにそう「尋ねたことはない」。しかしここで疑問がある。「福船」は宋・元の話しではないのか?確かに紀元前の話ではない。しかし,中国の僧が7世紀ごろナ-ランダやスリランカなどを訪問して海路で中国大陸に,つまり唐の都に帰った実例がある。すなわち海上の道は繋がった。名も知らぬ遠き島より流れ寄るヤシの実一つ・・・。

 

 喜望峰から  カリカット・ミャンマーそしてマラッカ海峡へ。

 

 

仮説:

 イネの道は次のとおりである:南インドからミャンマ-沿岸の諸都市とマラッカ海峡を通って南シナ海に入りカンボジアやベトナムなどの扶南地方を北上して福建省に至る道,海上の道が繋がったのである。そしてさらに黒潮に乗って佐賀の吉野ケ里遺跡や九州北西部へ。

 日本語もまたイネの道をたどった可能性が高い。

 

 もちろん河姆渡遺跡を残した古代中国人もいるだろうが,田植えや稲に関する日本語や朝鮮語に多いことを考えるとき,言語と結びつきがより強いのは日朝であろう。しかしこの2つには大きな違いがある。それは日本語が和歌5.7.5.7.7をもつことである。しかし朝鮮文化に和歌はない。付け加えれば,甕棺墓が南インドと日本に見られ,朝鮮半島に見られないことである。

 

 

PS:比較言語学の京都学派はドラヴィダ語説(日本語の祖先はドラヴィダ語である)を否定するが,日本語がどこから来たかを説明する仮説を一つも提出していない。京都学派は,学問という名を借りた税金泥棒であろう。

PS-2:私の新聞切り抜きにも1980年頃からの大野晋先生のお考えを観ることが出来る。出版編集者の勉強不足が分かる記事である。