前回述べたように、清は台湾には興味がなく、領土にする気はなかった。しかし、鄭氏政権の「反清復明」の姿勢を無視できず、台湾へ大軍を派遣、台湾は清の支配下となった。

 さまざまな文献を見ると、清は、台湾を支配下に置いたものの、「台湾は必要ない」という意見が大多数であったようで、台湾を開発しようという話も出て来なかった。ただ、「反清復明」の拠点であったことから、再び反清勢力が生まれることを警戒し、移住民数十万人を強制的に大陸へ引き揚げさせ、移住や島の開発を厳しく制限した。しかし、厳しい取り締まりにも関わらず、福建省などからの密航者は後を絶たず、清朝末には、漢人系住民は三百万人にも上っていた。

 密航者(移住民)の多くは、ビン南系で、中部平野などの開拓しやすい土地を先取りしており、後からやってきた客家系移民は、劣悪な未墾地や先住民地域に入植していった。そのため、ビン南系と客家系は衝突を繰り返していた。また、先住民と移住民の間でも争いが絶えず起こっていた。住民同士の対立だけでなく、清の官吏と住民との対立も絶えず起きた。台湾にやってくる官吏は、汚職や賄賂といった腐敗した役人たちであったため、これに住民は武力蜂起をしたのだ。官吏らは、住民の蜂起を「五年一大乱 三年一小乱」と言って恐れていたという。

 一八五八年、アロー戦争に敗れた清は、台湾の開港を開始、宣教師の布教も認めた。このころ、琉球の宮古島の住民六十六人が台湾に漂着し、五十四人が先住民に殺されるという事件が起きた。当時の琉球は、日本と清の両方に朝貢していたため、帰属がどこになるのかという問題があった。、日本政府は清に対し、「日本臣民である琉球人」殺害への責任を追及したが、清は、「化外の民が化外の地で起こしたことであるから、責任はない」と返答した。日本政府は、これを清の台湾領有権の放棄(否定)と判断し、台湾に出兵、占領に成功した(牡丹社事件)。その後、日本政府と清との交渉の末、清は日本へ賠償金を支払い、日本を台湾から撤退させた。しかし、これは、結果として、琉球を日本の領土であると認めたことになったのである。

 清は、日本の台湾出兵や清仏戦争に関連したフランス軍の砲撃などを受けて、今までの「乱は内部から引き起こされるものであり、外部から生じるのはまれである」という認識や台湾への姿勢を改め、外患防止という新しい政策に一大転換する。この政策は「洋務運動」と呼ばれ、アロー戦争から日清戦争に至る三十五年間において、清朝官僚の実権派が推進した中国型富国強兵運動を言う。初代台湾巡撫には李鴻章の部下である劉銘伝が着任した(一八八六年)。

 劉が行った新政は、「弁防」、「練兵」、「清賊」、「撫蕃」の四つが柱となっており、前二者は軍政に関わるもので、後二者は民政に関わることである。「清賊」は土地調査事業、「撫番」は山地開発事業を言う。財政面の柱は、地租(土地税)の合理的な徴収であった。劉は、鶏籠・新竹間の鉄道敷設や汽船購入、大陸、香港、シンガポールなどへの貿易、郵便制度などに取り込んでいる。そのため、劉を「至宝主義開発の先駆者」と評価されている。他にも、道路開発や通貨制度の改善などを行った。内外から注目されていた新政でこのあるが、劉の離任により頓挫、洋務運動はそれほどの成果を挙げることなく終了する。

 一八九四年、朝鮮の権益をめぐり、日清戦争が勃発した(一八九四年八月から九五年三月)。一八九五年四月十七日、下関条約終結をもって終戦。日本は台湾の領有権を得る。