台湾(当時は台湾と呼ばれていなかったが)に初めて外国人が上陸したのは、西暦一四九二年からの「大航海時代」のことで、ポルトガル人が上陸した。上陸は種子島に鉄砲を伝えた翌年、一五四四年である。彼らは、台湾を見て、「Ilha Formosa(麗しの島)」と呼び、「フォルモサ島」と呼ばれるようになった。この呼び名は現在でも使用されることがある。台湾という現在の呼び名は、原住民であるシラヤ族が外来者を「タイアン/ターヤン」と呼び、それが訛って「タイワン」になったという説がある。

 外来者による台湾支配の最初の国はオランダである。一般的に台湾のオランダ統治は一六二四年から一六六二年の三十八年間を言う。
 十七世紀にオランダはアジア進出を始め、インドネシアを植民地にし、さらに、支那と日本との貿易の拠点として澎湖島(ぼうこ)を占領した。しかし、明王朝と戦争状態に入り、明王朝の「澎湖島から撤退すれば、台湾の領有権を認める」という提案を受け入れ、オランダは、澎湖島を撤退、台湾に上陸する。オランダは「痩せた羊を手放して太った牛を得た」と喜んでいたが、明王朝にとっては、台湾を手放したことは、痛くもかゆくもなかった。明王朝にとって、台湾は、風土病の蔓延する恐ろしい未開の地で、領土とさえ思っていなかったのだ。
 台湾に入ったオランダは、城塞を建築し、そこから島住民への圧制を開始する。城塞が圧制の拠点であったというのが、私や多くの保守論者の考えであるが、台湾の農学者である戴國煇氏は著書「台湾 -人間・歴史・心性-」の中で、「ゼーランディア砦もプロヴィンシア砦のいずれも外界を監視するのが主な狙いであって、台湾島内の土地や人民向けのものではなかった」と書いている。(*戴國煇氏は、オランダ統治時代の様子を二ページ程度しか書いていない。また、日本統治時代を意図的に残虐であったように書いている個所が見られるため、私の氏への信頼度は低い)
 オランダの圧政の中でも七歳以上の人間を対象とした「人頭税」はとても過酷なもので、「税を支払わない者を殺しても罪にならない」という状況であった。この搾取に反発した原住民は多くいたが、全て殺戮の末、鎮圧されている。
 オランダは農業開発のために大陸から大量の漢人を移住させ、先住民と移住民(漢人)の対立関係を利用して、分割支配を行った。漢人は移住後、酷使され、過酷な税金を課せられた。これに対する不満は蜂起という形で爆発し、一万六〇〇〇人の大蜂起が勃発した。この蜂起は移住民である漢人だけが起こした蜂起で、二〇〇〇人の原住民たちはオランダ側に付き、オランダ兵と共に戦った。漢人はくわなどの武器しか持っていなかったため、オランダ兵の持つ近代兵器の前に屈し、四〇〇〇人が戦死した。また、千数百人が虐殺され、一万六〇〇〇人の大蜂起は鎮圧された。
 オランダ統治の後は、国姓爺・鄭成功の時代に入る。鄭成功は、日本でも近松門左衛門の「国姓爺合戦」で有名である。