日本人にとって台湾は近いようで遠い。それは、民族としてではない。台湾好きと言っている人間でも日本の台湾統治を詳しく述べられる者はいないし、台湾の現状を詳しく説明できる者もいない。現在の日本と台湾の関係は「日本精神」というつながりではなく、“うわべだけ”の関係になり下がってしまっている。私がここに「台湾論」という題で書いていこうと思い立ったのは、その“うわべだけ”の関係に我慢ならなくなったからである。日本の教育が日教組の自虐史観・東京裁判史観ではなく、誇りある教育で、さらに、日本国民の国民としての視野が広ければ、私がここでわざわざ台湾を取り上げることもないのだが、悲しいことに取り上げなくてはならない現実が今の日本にはある。
 戦後民主主義で育った国民のほとんどが他国にも自国にも興味がない。終戦の年を1970年と答えるような愚か者まで登場する始末だ。私は、「歴史を知らずして自国を愛せず、歴史を知らずして他国を愛せず」と考えており、その信念をいつも胸に抱えながら研究・調査をしてる。今まで、この場を借りて様々な持論を好き勝手に披露させてもらってきたわけだが、今回は、いつもとは違う気持ちで書いている。その“違う気持ち”を読み進めていく中で気づいていただければ幸いである。
 「台湾論」という堂々としたネーミングは、知人の台湾人に勧められて付けた題である。彼は、私の「出来れば、台湾語で話してほしい」という要望に快く答えてくれ、いつも台湾語で話してくれる。もちろん、私は日本人であるし、日本語以外に調査で日常的に話す言葉は広東語と英語であるため、台湾語は分からないが、何度か聞いているうちに少しは分かるようになってきた。冒頭に書いた「日本精神」は「にほんせいしん」ではなく、台湾語で「リップンチェンシン」と読む。台湾語、いわゆる閩南語(ミン南語/ビン南語*文字化け注意)という言語だが、日本語と近似性があり、これと親しむと台湾と日本のつながりを再認識できる。広東語とも近似性があるため、このまま学んでいけば、台湾語も身につけられそうである。
 この「台湾論」では、なぜ、台湾はこのような状況に置かれているのか、というところから、独立論まで順序立てて取り上げていき、一人でも多く、台湾に対する正しい知識を持った日本国民が生まれてくれることを願う気持ちが込められている。
 先日、台湾留学から帰ってきた知人が台湾の良さを熱く語っていたので、私は少々いぢわるな質問をした。「なぜ、台湾と日本の関係は“親日”という言葉で括られているのか」。そうすると、彼は何も言えなかった。彼は、台湾で生活をしてきたにも関わらず、「複雑な台湾」に足を踏み入れることなく日本に帰ってきたのである。
 皆様には、あえて「複雑な台湾」に足を踏み入れていただきたい。そうすれば、本当の台湾が見えてくる。台湾は日本との近似性が最も高い隣国である。他人ごとのように考えないでいただきたい。背中に火が付くまで気づかない日本国民は目を覚ますべきである。

11月吉日 筆者