一六四四年、女真族(満州人)が漢人の王朝である明を倒し、清朝を樹立した。この明の崩壊と清の樹立は台湾の鄭氏政権時代の始まりと深く関わっている。
 明が清大国(満州人の国)に脅かされていた時期、明は危機回避の望みを賭け、東アジア海域一の海賊・鄭芝竜(ていしりゅう)を招いた。鄭芝竜は、商人として日本に渡った経験があり、その時、日本人の田川マツと結婚、子供を二人もうけている。長男の鄭森(ていしん/改名する前は福松)は、二十一歳で明の隆武帝に拝謁し、「朱」という姓(隆武帝の姓(国姓))と「成功」の名を与えられる。これが、「台湾中興の祖 国姓爺・鄭成功(ていせいこう)」である。鄭成功は、明へ忠誠を誓うが、隆武帝は清に捕えられ、成功の父の鄭芝竜は清に降伏、監禁される。母である田川マツも清の凌辱を受けて自害した。成功は明の滅亡後も明の復活(反清復明/はんしんふくみん)を掲げ、戦いを続けるが、福建の廈門と対岸の金門に追い込まれた(一六六一年)。
 同じ年、台湾を新たな拠点にしようと、侵攻を開始する。率いた軍勢は艦船四〇〇隻と将兵二万五〇〇〇人に上った。台湾に上陸した鄭成功らは、オランダからの圧政に反発していた移住民(漢人)の協力を受け、台湾を獲得する。成功は、降伏したオランダに対して、撤退を命じ、三十八年間のオランダ統治は終了、漢人の統治へと移り変わっていく。*この撤退命令は、武器や食糧、財産などの全てを携帯した上での撤退を許可した形である。
 成功は、食糧増産を課題にし、積極的に土地開墾をした。さらに、経済基盤や法治主義の整備なども進めたが、三十八歳で亡くなった。台湾攻略から一年も経っていなかった。人々は国姓爺・鄭成功を「開山王」と呼び、台南には「開山廟」が立てられ、その名声は日本にも波及し、近松門左衛門の「国姓爺合戦」は今でも有名である。しかし、現在でも成功の評価は確立しておらず、外来の侵略者であるとする見方もある。これは、戦後、国民党が、大陸から台湾に落ち延びた鄭成功を自らの境遇(国共内戦の末に台湾へ落ち延びたこと)とかぶらせ、台湾人に異常に崇拝させていたことが関係していると思われる。
 成功の急死後、鄭経、鄭克塽*1(最後の文字は土へんに爽)が台湾を統治した。清は台湾を領土に取る気はなく、その証拠に鄭政権に対して、「台湾の独立を保持すること」と勧告していたが、なおも「反清復明」を掲げる鄭政権を無視することはできず、一六八三年、艦船三〇〇隻、兵員二万人を台湾に派遣した。鄭政権はその大軍の前に降伏し、鄭成功から始まった鄭氏政権はわずか23年間で終焉を迎える。
 鄭政権時代の台湾には、清の統治に不満を持つ漢人が次々と移住し、その結果、人口はオランダ統治時代の約5倍、十数万人に増加していた。


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