vol de nuit

vol de nuit

その昔、人知らぬ孤独と寂寥の夜を超えて、手紙を届け続けた飛行機乗りたちがいた。

僕もまた、いつ終わことのない旅の中で出会ったものを、だれかに届けていこう。

見も知らぬ、名前さえも知らない誰かの救いになれることを信じて。

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music from the planet waves

音楽は、人の心を癒し、暖めるだけではなく、その曲を聴いた時代の音や色、香り、そして声を思い起こさせてくれる。
その人の胸に残る曲の数々は、その人の生きた歩みそのものだといえるかもしれない。

音楽とは、文字通り言葉ではない。
だからこそ、時に言葉よりも深く、鮮明に心の中に語りかけてくる。

今日もまた一歩、歩みを進めたあなたの人生のそばに、素敵な音楽があるように。

VOL.3 Billy Joel [ tomorrow is today]
-いつか きみの夢がひとつ残らず消えた時 それでも 僕はきみを信じてるー

ビリー・ジョエルの曲は誰でも一度は耳にした事があるでしょう。
ピンと来ない人でも名前ぐらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
「オネスティ」や「素顔のままで」などはCMの定番曲でもあります。
どちらかというと、70年代後半は都会的なセンスを感じさせる曲が多く、ある年代の方などはビリー・ジョエルの曲を聞くとニューヨークの街並というイメージを彷彿をさせるそうです。

今日の一曲は、そんなビリー・ジョエルのデビュー作「Cold Spring Harbor」という全編弾き語りの素敵なアルバムに収録されている小曲です。
ビリー・ジョエルがブレイクするきっかけとなったのは73年の「ピアノマン」ですが、さかのぼる事一年前にも実はこのアルバムを出していたのです。
このアルバムには曰くがいろいろとあります。
まず当時のプロデューサーが勝手にミキシングの段階でレコーディング時よりも曲のピッチを早めてしまったり、まったくヒットせず一年の雌伏を強いられる結果となったり、挙句にはのアルバムの権利を巡ってレコード会社との争いが起こるなど、ビリーは散々な目に合わさせるのですが、なによりの不幸は、その争いのためにこのアルバムが長い間絶版状態になり、手に入れることが困難になってしまった事でしょう。
今こうして再リミックスを得て、気軽に耳にする事ができるようになり、本当にこの時代に生まれて良かったと思います。

tomorrow is todayは、直訳すれば、「明日は今日」。
思うようにいかない恋を胸に抱え、進展のない日々が続く閉塞的な心境を歌っています。
哀切な歌詞を彩るメロディも美しく、変調の表現も効果的です。
小曲ではありますが、一人の夜に染み入るシンプルで繊細な名曲だと思います、







Cold Spring Harbor/Billy Joel

¥769
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高校生の時に読んだ短編集である。
その時は、それほど大きな読後感は得られなかったように覚えている。
それは私が若く、そして何も知らない子供だったからだろう。今にして見れば、そう思う。
しかし、あれから幾年が立ち、この本が岩盤を穿つ水滴のように、心の奥に粛々としかし力強く打ち付けていた事が分かる。
それは、私の奥底から「私」という存在を捉え、背後から規定している。

作者、梶井基次郎は若くして肺病を病み、そして31歳の若さで夭折した孤高の詩人である。
その作風は、病からくる内面の脆さや悲哀をベースにしながらも、どこか幻想的でそして美しい。
彼の文章が織り成す透き通るような繊細な魂と精神の形こそが、先述のように私の心を打つのだろう。

表題作「檸檬」は肺病を病んだ作者(と思われる人物)が、書店という場所で目にした檸檬の色の美しさ、清冽な香りから、鮮やかな世界の存在を感得する物語だ。
これは、気がつかないほど些細だけれど、日常によく潜む出来事であろう。
日の高い夏の日差しに焼きつく影の形、ふと道端に見かけた野花の鮮やかな色、ふとした拍子に除く女性の肌理細やかな肌。
それらは下世話な笑い話でも、日常の小さな出来事でもない。
生きるとは、力だ。生きるとは美しい。
その物の意思や形の問題ではなく、生きるという生命の活動、その存在自体が何者にも代えがたい美しさを持っている事に気づき、世界がそれまでとはまったく違って見える瞬間は確かにある。
例えば、檸檬である。
この普段見逃しがちな些細な物が、目の前にあるという事。
そしてその物の成す色、その物が放つ香り。その物との出会い。
それは幾重もの偶然の集積が生んだ奇跡だ。
そのどれだけの時間が、この檸檬という存在を成らしめたか、その時間の末に檸檬という存在が勝ち得た存在の重さに気づいた時、それは神々しいまでの美しさを持って、改めて目に迫る。
この事実に思い至る時、これまで小さく平凡な景色の一部でしかなかった存在が、一瞬にして日常を瓦解させるに充分な力を持っている事に気づくのである。
そうした奇跡との出会いは、時にして人生を大きく左右する事も、往々にしてある事なのである。

収録作からもう一編
ある意味(ある意味間違った意味で)梶井基次郎の代表作でもある。
「桜の樹の下には」
桜の樹の下には、死体が埋まっている。
ショッキングな書き出しが一人歩きし、時にホラーに時に冗談にと、言いように使われている感のあるこの一作。
この書き出しを知っていても、内容とちゃんと読んだという人は、20人に一人ぐらいだろうか。
よくこの作品を引き合いにして「美しい物には、理由がある」という説明付けをされているような印象を受けるのだが、私の場合は逆だ。
理由があるからこそ、美しいのだ。
美しさの裏には、不浄な死体の存在があるのではなく。
今は不浄な死体となった存在が持つ、痛々しいまでの想いと悲哀が、桜という触媒を通じて美しく花開くのだ。
だからこそ、桜は月夜に映えて咲くのだろう。痛々しいほど爛々と恍惚に。
檸檬 (集英社文庫)/梶井 基次郎
¥380
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今週は地元千葉で仕事でした。
高速使って片道ざっと2時間。
田舎はこんな感じが当たり前です。

千葉の高速道路は、千葉より北か南かで大きく違いがあります。
千葉より南はまず道路に照明がない。
そして周りに建物がない。対向車も少なく、真っ暗闇の中を走る事になります。
市原までは遠くに町の明かりが見えますが、それより下は本当に真っ暗です。
私はここを走る時、いつも音楽を消します。
エンジン音に包まれ、ライトが切り裂く闇の向こうを見据えながらステアリングを握ると、自分がたった一人存在しているような気持ちになり、研ぎ澄まされていくような気持ちになります。
私はこの感覚が好きです
飛行機ではないけれど、昔、夜間飛行に臨んだ飛行士たちもこんな気持ちだったのではないでしょうか?

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さて、写真は東金の山王台展望台です。
ある夜、迷い込むように偶然たどり着いた場所で、それ以来何度か立ち寄っています。
ここは不思議な場所です。
町の中にあるのに、山が深いのです。
木々が原始の意思を持っているというか、今流行りのパワースポットのような自然の力が生で残っている感じがします。
きっとこの辺りは昔、このような山林が広がっていたのでしょう。
坂の上には展望台があり、東金の町を見下ろすことが出来ます。
天気の良い日には、九十九里まで見えるようです。
桜の時期には、夜桜のライトアップもされています。
ただし、夜半に女性や少人数での訪問は遠慮した方がよさそうです。
途中の坂道に民家はなく、街中とは言え人目も灯りも少ない山の中ですから。
それに、あまり品の宜しくないかたがたも出没するようですので。
music from the planet waves

音楽は、人の心を癒し、暖めるだけではなく、その曲を聴いた時代の音や色、香り、そして声を思い起こさせてくれる。
その人の胸に残る曲の数々は、その人の生きた歩みそのものだといえるかもしれない。

音楽とは、文字通り言葉ではない。
だからこそ、時に言葉よりも深く、鮮明に心の中に語りかけてくる。

今日もまた一歩、歩みを進めたあなたの人生のそばに、素敵な音楽があるように。


VOL.2 Elvis Costello [ Olivers Army
-俺に話をさせるなよ。一晩中だって喋っちまうぜー


 はい。今回はエルヴィス・コステロです。
コステロといえば、一昔前に映画やドラマの主題歌で使われましたね。
なんとなく、渋めのバラードを歌うおじさんという印象をお持ちの方も多いんじゃないでしょうか。
とんでもない!コステロといえば、極上のメロディメーカー。そして反骨精神溢れる皮肉好きなパンク野郎なんです。
とにかく何も言わず、この映像を見てください。




どうです?
TUBEが酔っ払って曲を提供する相手間違えたんじゃないか思うような、明るくPOPな曲ですね。
これのどこがパンク野郎なんだと思ったあなた。ちょっとまってください。
これがコステロの真骨頂なのです。
では、何を歌っているのかを探っていきましょう。

まず、表題の「Olivers Army」とは、
清教徒革命で教科書にも載っている「オリバー・クロムウェル」の事。
そしてクロムウェルは、革命を名目に北アイルランドに英国軍隊を送り込み、今にいたるアイルランド紛争の原因を作った人でもあるのですね。
つまり、オリバーの軍隊という表題は=イギリス軍という事なんです。
どうですか?きな臭くなってきましたね。

そして歌詞はいうと、冒頭の歌詞が今回の引用した一節になります。
「話させるな」とは何のことでしょう?

「職業安定所に電話したよ。お前仕事ないんだろ?いい仕事があるんだよ」

おっと、なんだか詐欺師のような台詞。
いい仕事とは、後になるにつれて分かりますが、「軍隊」のことです。
つまり仕事のない若者に「軍隊に入らないか?」と誘っている曲なんですね。

「チェックポイント・チャリーで奴を見たよ」

「奴は笑っちゃいなかった」

「まあ、死の1マイルにいたら、笑えはしないよな」

チェックポイントチャーリーとは、東西ドイツを分断していたベルリンの壁に設けられていた国境検問所の事。
死の一マイルとは脱走者や亡命者を出さないために、1マイルの距離に3箇所も検問があったことからついた名称だそうです。
そんなところにいたら笑えなくて当然です。

「けど、そのむずむずする引き金を引けば、未亡人が増え、白人の二ガーが減っていく」

皮肉な言葉です。
白人の二ガーという解釈は様々あると思いますが、ニガーはかつて「黒人奴隷」につけた蔑称である事から「敵」あるいは「兵士」という意味でしょうか。
「ちょっとその気さえあれば、敵を倒せるんだぜ」と誘っているように見えますが、そのくせ実は、その若者こそを「白人のニガー」として戦場に駆り立てようとしてるんです。

「香港はわれわれのものだ
 ロンドンをアラブ人でいっぱいだ
 パレスチナだって行けるし、
 中国の国境だって越えていけるぜ」

「だけど、危険はないよ。だってこれはプロの仕事だからね。
 まあチャーチル首相の耳に届いたらどうなるかはしらないけど」

この曲が出た時は、香港はまだイギリス統治下にありました。
つまり「イギリスの経済に入りこむアラブ系を排除しよう。香港は中国なんかに渡さないぞ。さあ君も一緒にいこう」
といってるんですね。
しかも「ちょっとバカンス気分で戦争行って来ないか」というノリで、です。  
しかし裏を返せば、これはイギリスのナショナリズムを扇動する「政府」に向けた皮肉なのです。

それにしても、どうしてコステロはこんな歌をつくったのでしょう。
ただのふざけ半分なら、ここまではできません。
それは、この曲が発表された1970年代後半。当為のイギリス政府は中等教育を終えたばかりの少年兵を前線に送り込んでいたという事実があったからです。そして多くの血が流れました。
この曲は、そんな年端もいかない少年を騙すようにして戦争に送り込む大人(政府)に対する強烈な怒りをこめたコステロ流の抗議なのです。
ここでもう一度pvの内容を思い返してください。
リゾートのような海岸、耳ざわりのよいPOPな曲調。pvに出てくるアジアの格好やアラブの格好をしたなぞの男たち。
それが何をしめしているか分かってきたはずです。
ある意味ジョン・レノンより、はるかに過激で、勇気ある告発です。

発表当時、この曲はイギリスでは放送禁止状態だったようです。
聞いた話では、今でもイギリスが戦争状態になると放送禁止になるのだとか。
コステロの反骨精神は、いまでも確実に影響を与えています。

影響を与えるという意味では、PVのコステロの格好を、どこかで見たと感じた方もいるはず。
そう。ミスチルが「シーソーゲーム」だったか「everbody's goes」の時に同じような格好をしていましたね。
あれは、コステロを意識してのことだと思います。
当時、洋楽好きの間では「あれはコステロのパロディだ」というのが暗黙の了解でした。




ベスト・オブ・エルヴィス・コステロ/エルヴィス・コステロ

¥2,548
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今夜は雨上がりの空気が肌に心地よい
今は見えないけれど、月がとても綺麗でした。

さて、今日は久しぶりに実家に戻り、青森出張の土産を渡しました。
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『りんごうさぎ』というお饅頭です。
ウサギの形をしております。
中には林檎餡とカスタードクリームが入っています。
この餡とカスタードの相性が良く、なかなかに美味。
家族にも好評でした。

話は変わりますが、ちょっと気になる話題が。
うちの地元からそれほど離れていない場所で、白骨死体が見つかったとか。
完全に事件性アリアリなのですが、恐ろしいですね。
恐ろしいというか、もう困ったものです。
その土地では毎年、神隠しやら自殺やら不審死やらで、自然ではない状態で人が死ぬのです。
車で10分も走れば横断できてしまうくらいの面積の土地なのですが、『また今年もか』。という感じです。
うちのような田舎では、事件があると場合によっては消防団という地元有志で結成された自警団がボランティアとして借り出されます。
もちろんボランティアですから、みんな仕事を持っているんですが、場合によっては休まなければならなくなる。
生活に負担がかかるのです。
双方のためにも痛ましい事件かなくなる事を祈ります。
そして今回の犯人(いるという仮定ですが)に言いたい。死体処理に困るぐらいなら殺すな。

ネイティブアメリカンの死生観を元に書かれた詩集。


この本と出会った時の、衝撃は忘れる事ができない。

不足も不満もないけれど、なんとなく漠然とした生きる事への不安を抱えていた当時の自分にとって、この書がなげかけてくる言葉はそんな小さな自分の不安など吹き飛ばしてしまうには十分だった。


ネイティブアメリカンとはいわゆる「インディアン」の事を指す。

インディアンとは、西洋文化がつけた呼称であり、なおかつ蔑称としての意味合いを含んでいたため、現在ではネイティブアメリカンと称することが多い。

(もっとも、本来の彼らは部族ごとに固有の歴史を有しており、このようにまとめた名称で言い表す事ができるものではない)

彼らは、唄をつくる。

そして、大地に感謝し、その大地に生きる自分たちを高らかに歌う。

その言葉は、深い知恵と力に満ちている。

だからこそ、彼らの言葉は、心の中心に入ってくる。

そこには、社会に生きる事の不安や、人間関係の小さな悩みなどはない。

誰もがそこにいて、誰もが同じ大地のもとに生きるもの。

そうした死生観に貫かれているからだ。

私が抱えていた小さな不安など、彼らの前では一笑に付されてしまうに違いない。


なぜ彼らの言葉が、こんなにも力強いかというと、それは彼らが生きることの意味を知っているからだ。

大地から生まれ、やがて大地へと帰る多くの生き物の一員として、自然とともにある自分という存在に誇りを持っているからだ。

彼らの唄の根底にあるのは、生命の賛歌、そして生命をはぐくむ自然という大きなる存在への賛歌だ。

自分たちは、自然の恩恵を授かり、そして一喜一憂しながら生きていく小さな存在にすぎない。

自分などという存在は、そんな大きな流れの中に浮かぶ木の葉のようなものでしかない。

だから自然に感謝し、生きる事、いまここにいることの生命の力を精一杯に歌えばよいのだ。

そう言っているように思える。

文字を持たなかったという彼らの生き方からも、それは伝わってくる。

文字とは、ここにいない誰かに何かを伝えるために残すものだ。

それは、つまり「伝え残したものがある」から生まれたものと言える。

しかし、彼らの人生にやり残しはない。その時を懸命に生き、その意思と生き方は受け継がれていくからだ。

彼らの生き方が伝達するものは、個人の言葉ではなく、生き方そのもの。

だから、文字として残す必要などなかったにちがいない。


その生き方を表したものが表題の詩だ。

ここでは、死という出来事が、逆説的に表現されている。

以下に本文を引用する。


「今日は死ぬのにもってこいの日だ。


生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。


すべての声が、わたしの中で合唱している。


すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。


あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。


今日は死ぬのにもってこいの日だ」


死は避けて通ることができないものだ。 人はいつかは死ぬ。

どの時をどう迎えるか、死とは人生においてどんな意味を持つのか?

彼らが示す答えは、「死とは祝福されるべきもの」だ。

しかし現在では、死は敬遠されるものである。

なぜ死が敬遠されるかというと、それは生という願望と欲求をあまりに偏重して捉えているからだと思う。

死んだら、美味いものも食べられない。好きな事もできない。

物が溢れ、利便性が高まることによって、そんな終わることのない快楽の追及のみが言及され、その生の終わりが持つ意味を、ないがしろにしすぎてきたのではないか。

確かに生きることは貴重だ。だからこそ、人生の最後に迎える死を見つめ、どのように生きるかを考える事の大切さを、この詩は教えてくれる。


この本に出会い、彼らの言葉を前にして、私は小さくなっていた自分という存在に気付かされた。

他人の目を気にして、社会という枠組みを気にして、自分を押し殺し、本当の気持ちを見ないふりをして、

結局、自分をとらえている枠を作ったのは自分なのだ。

人生を息苦しく、重い荷物に変えていたのはお前自身だと教えられた気がした。


もし、生きることに疲れ、迷いがあるのなら、彼らの言葉に耳を傾けてみてはどうだろうか。

彼らの生き方と力に満ちた言葉は、きっとあなたに迷うことのない「生命の根本」を与えてくれるに違いない。


最後に、この本を評した言葉を帯より引用しよう。

「宇宙の流れの中で、自分の位置を知っている者は、死を少しも恐れない。堂々とした人生、そして祝祭のような死。ネイティヴアメリカンの哲学は、我々を未来で待ち受ける」(中沢新一氏推薦文より)



今日は死ぬのにもってこいの日/ナンシー ウッド

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今週は青森に出張でした。


出張も3週目に突入すると、もう肉体的に疲労がピークに達してまして、

なんだかおかしなテンションになるものです。


そんな極限の状態の中であった無線での会話


仲間「どう?(仕事)終わりそう?」


私「終わりますよ。無理すれば


仲間「人生には無理を通させねばならない時がある。」


私「ええ、今がまさにその時です」


なんだこの映画みたいなやりとり・・・。

実際には、たまった荷物を倉庫に片づけてただけなんですが(笑)

こんな時に、格言とは生まれるものなんですね(笑)


他にも

「俺はいいから、お前らだけでも生きろ」


「生きて帰ったら、冷たいビールで乾杯しよう」


とか、死亡フラグびんびんじゃないっすか!

まあそりゃ、もう精神的にもおかしくなってますから。

しまいにゃ、全員体の疲れが極限の状態で、ある人が


「今日は誰か怪我するから気をつけろ。今、神のお告げが聞こえた


とか言い出すし。

なんかもう、最終的には世界でも救えるんじゃないかという気持ちになった一週間でした。
















music from the planet waves

音楽は、人の心を癒し、暖めるだけではなく、その曲を聴いた時代の音や色、香り、そして声を思い起こさせてくれる。
その人の胸に残る曲の数々は、その人の生きた歩みそのものだといえるかもしれない。

音楽とは、文字通り言葉ではない。
だからこそ、時に言葉よりも深く、鮮明に心の中に語りかけてくる。

今日もまた一歩、歩みを進めたあなたの人生のそばに、素敵な音楽があるように。



VOL.1 シンディ・ローパー「time after time]
-あなたが道を失ったなら、私を探して。私がみつかるから。何度でも何度でもー



第1回の今回は、なんの曲にしようかとずっと悩んでいたのだけれど、
素直に今、聴きたい曲で選んでみました。

この曲は、多くの人にカバーされており、何度かCMでも使われたので知っている人は多いのではないでしょうか。
オリジナルは、シンディローパーの2曲目として発表されました。
シンディローパーもまた80年代を代表する女性シンガーとして超がつくほど有名ですね。

この曲は、時々、私の頭のすみに流れます。
そして、たまらないほど、切ない痛みに胸が熱くなる思いがします。
それは、思いがけなく子供の頃大好きだったおもちゃを見つけた瞬間、
そのおもちゃと一緒に過ごした寂しい時間、楽しかった時間が不意に蘇るイメージと言ったら近いでしょう。

まずメロディが素晴らしい。1フレーズで人の心を開く力があります。そしてサビへ流れ込む静かな躍動感。
サビのリフレインが、一回ごとに強く波のように持ち上がり、聴く人の感情に訴えるのです。
それから、この曲を古びさせない決定的な要因がシンディの声でしょう。
どちらかというと、個性的という表現が合う声のシンディですが、日常の雑音を突き抜けるような張りと透明感を
持つ声と、表現力がこの曲をいつまでもサビさせないのだと感じます。
いろいろなバージョンで、この曲を耳にしますが、私はシンディのオリジナルが一番好きです。
近年、発表から十数年の時を経てシンディがこの曲歌うのを耳にしましたが、また曲の表現や解釈に深みが増していて、そちらも機会があったら聴いてみてもらいたいと思います。

この曲の主人公は、多感で繊細で、そのために精一杯に自分らしく生きようとしている若い女性です。
暖かな記憶は、スーツケースの中にしまいこんで、今を生きる場所を求め「ここではないどこか」を探しています。
そのために、大切な者たちから「急がないで、僕はついていけないよ」と言われてしまうほどに。
そうして生きてきた彼女が、やがて過去の出会いと別れを振り返り、
置き去りにしてしまったものや、遠くもう会うことのないものをふと思い出した時に湧き上がる一瞬の感情が、冒頭に掲げた歌詞です。

主人公の女性を「自分」に、そして置き去りにしてきた大切な者を「家族」や「恋人」、「友人」に置き換えて見ると、
誰にでもそんな相手がいるのではないでしょうか。
この曲をもしあなたが聴いたなら、
そんな大切なものへの素直な気持ちと切なさを思い起こすことでしょう。
主人公の女性が、過去に別れた相手の面影に語りかけるように、
そう「何度でも何度でも」

グレイテスト・ヒッツ/シンディ・ローパー
¥1,785
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注文していたコレクションボードが届いたので眠っていたコレクションを置いてみました。
五大明王+四天王+愛染明王+孔雀明王+金剛力士+風神+阿修羅

思えばとんでもないものを眠らせていたものだ(笑)
ちなみに降三世明王と金剛力士阿行像は二軍調整中です。
近々一軍合流予定。
ちなみに写真ではいませんが、夜に金色孔雀王もチームに合流しました。
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五大明王と四天王の配置は京都の東寺の配置を再現してます。
あとの配置は適当に三十三間堂などを組み合わせてます。
ちなみに実際の東寺の立体曼陀羅はさらに天部や如来まで含んだ巨大な一大スペクタクルな空間です。
当時の人はぶっとんだでしょうね。
そこまで再現したいけど現行のフィギュアじゃ揃わないんですよね
過去にフランス人の方がどこかの万博でミニチュアを出したというし、出してみませんか?
ね?ディアゴスティーニさん?

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ちなみにこちらは鬼太郎グッズです。
サラリーマン山田さんがいい感じ。

さらに実は百鬼夜行絵巻の立体再現も進行中。
続報はまた後日。
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今週は三重に出張でした。
海が近い場所でしたので、とても蒸し暑く、また天気にも恵まれなかったので体調管理が大変でした。
まぁ毎日飲んでただけですが。

写真はそんななか珍しく覗いた晴れ間を撮ったものです。
三重の空は澄んでいて、遠くにある鏡を見ているようでした。
伊勢神宮があるためでしょうか?大きな息吹を感じる空でした。
力のある神社がある場所は、およそ同じような空気を感じます。
空一面を覆うような見えない巨大な人が息を吐き、風を吹かせているような、そんな畏怖を感じます。
寺社があるからそんな気がするだけだと言われそうですが、逆にそのような場所だからこそ、大きな寺社が作られたのではないかと思います。

さて、出張から帰って久しぶりのゆっくりできる休日でした。

ピグ友のがらくたに奨められた美術展に一人でお出かけでした。
その内容はまた後日。