「よし」

声に出してみても、元気は出ません。

それでも、一歩踏み出さなければ今日が始まりません。

玄関のドアを開けると、朝から強い日差しが照りつけていました。

昨日と同じ夏の空。

昨日と同じ暑さ。

でも、わたしの気持ちだけが、まるで別の季節になってしまったようでした。


駅までの道をゆっくり歩きます。

通学中の学生。

犬の散歩をしている人。

コンビニでコーヒーを買う会社員。


いつも見ている朝の景色なのに、今日は何も頭へ入ってきません。

気付けば昨日のことばかり思い出していました。

検査薬を持つ手が震えたこと。

一本線を見た瞬間。

佐藤さんが黙って背中をさすってくれたこと。

何度思い出しても、胸が苦しくなります。

横断歩道へ差しかかりました。

ぼんやりと歩いていたわたしは、前だけを見たまま一歩踏み出そうとします。

その瞬間でした。


「危ない!」

大きな声が耳へ飛び込んできました。

ハッとして顔を上げ横を見ると、自転車に乗った小学生くらいの男の子がすぐ横まで来ています。

キキーッ!

ブレーキの音が響き、男の子はギリギリのところで止まりました。

わたしは横断歩道がまだ赤だったことにも気付いていませんでした。


「あっ……ご、ごめんなさい!」

慌てて何度も頭を下げます。

「大丈夫ですか?」

近くにいた女性まで駆け寄ってきました。

「あ……はい、大丈夫です」

そう答えながらも、心臓は激しく鳴っています。


もしあと少し遅かったら。

もし男の子がブレーキを掛けられなかったら。

考えただけで足が震えました。

「本当にごめんね」

男の子へもう一度謝ると

「大丈夫!」

と少し顔を強ばらせながら走って行きました。


それを見送ったあと、わたしは考えました。

ここまで気持ちが沈んでいたんだ。

周りが見えなくなるくらい、心に余裕がなくなっていたんだ。

改めてそう思い知らされました。


「ぼんやりしないようにしなきゃ……」

自分へ言い聞かせるようにつぶやきます。

でも、その言葉とは裏腹に、心はまだ昨日へ取り残されたままでした。


青へ変わるのを確認してから、今度はゆっくりと横断歩道を渡ります。

今日一日、ちゃんと仕事ができるだろうか。

笑えるだろうか。

普通に振る舞えるだろうか。


そんな不安を抱えたまま、わたしは重たい足取りで駅へ向かったのでした。



次回へ続きます。