五分くらい経ったでしょうか。
遠くから女性が走ってきました。
男の子の名前を叫びながら男の子を抱きしめます。「ごめんね、ごめんね!」
興奮したように何度も謝るお母さん。
男の子も安心したのか、大声で泣き出しました。
周りにいた人たちも「よかったね」と笑っています。
その光景を見た瞬間でした。
胸の奥から、どうしようもない感情が込み上げてきたんです。
よかった。
本当によかった。
そう思う気持ちは確かにありました。
でも、それと同時に、別の感情も湧き上がってきました。
どうして。
どうして、あんなふうに子どもから目を離してしまう人でも、お母さんになれるんだろう。
わたしは今日、一番欲しかったものを手にすることができなかった。
毎日、体調の変化を気にして。
検索して。
期待して。
落ち込んで。
泣いて。
それでも授かれなかった。
なのに。
子どもが迷子になるほど目を離してしまう人でも、お母さんになれる。
その現実が、どうしても受け止められませんでした。
最低だ。
そんなことを思ってしまう自分が。
きっと事情があったのかもしれない。
ほんの数秒、目を離しただけだったのかもしれない。
誰にでも起こり得ることなのかもしれない。
分かっています。
それでも
「なんで……」
小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほどかすれていました。
隣にいた佐藤さんが、静かにわたしを見ます。
わたしは唇をかみ締めながら言いました。
「ごめん……すごく嫌なこと考えちゃった」
「うん」
「ちゃんと子どもを見ていないように見える人でも、お母さんになれて……わたしは、こんなに望んでるのにって思っちゃった」
言葉にした瞬間、自分がひどい人間になった気がしました。
涙がまた出そうになります。
「こんなこと思うなんて、最低だよね……」
すると佐藤さんは、少しだけ首を横に振りました。「最低じゃない」
「でも……」
「今日だからだよ」
その一言で、張りつめていた心が少しだけ揺れました。
「今日のななさんは、それくらい苦しかったんだよ」
佐藤さんは責めることも、無理にきれいな言葉で励ますこともしませんでした。
「そのお母さんにも事情があったかもしれない、でも、ななさんが今そう思ってしまうくらい苦しいってことも、本当なんだと思う」
わたしは何も言えませんでした。
ただ、羨ましい。
悔しい。
苦しい。
そんな気持ちと同じくらい、自分のそんな感情に戸惑っている自分もいました。
夕焼けに染まる夏の出来事。
今日という日は、きっと簡単には忘れられない。
一本線を見た瞬間のことも。
そして、自分の中にこんなにも苦しくて、きれいじゃない感情があることを知ったことも。
全部含めて、今日という一日なんだと思いながら、わたしは佐藤さんとバイバイをしてゆっくりと一人ホームへ向かったのでした。
次回へ続きます。