本記事では,「宝塚歌劇ファンをやめる」=宝塚歌劇団にお金を落とす行為(観劇,グッズ購入,機関誌・動画配信等のサブスクリプション等)をやめることと定義する.

 宝塚歌劇ファンをやめる要因には,割合は違えど外的要因(周囲の状況や他者からの影響)と内的要因(本人の性格,能力等)があると思う.


宝塚歌劇ファンをやめた人々のSNSやブログを見る限り,ファンをやめた外的要因には言及しても,内的要因は不明であることが多い.

(尤も,宝塚の件に限れば,外的要因が大部分を占めるため,内的要因を他者に向けて発信する必要がないと考えてのことだろうが.)


 反対に,劇団や宙組を批判しつつ宝塚歌劇ファンをやめられない人々については,批判の気持ちも所詮はその程度とは思う.しかし,やめられない原因にはその人の内的な部分も関係しているかもしれない.


 そう考えるようになったきっかけは,ある宝塚歌劇ファンのソーシャルメディアでの「宝塚歌劇ファンをやめられた人々は幸いである.自分はまだやめられぬ.※」という発言である.

※オリジナルの発言から意味は変えず,少し言葉を変えて記載した.


 この方の言説によるとファンをやめられた筆者は幸いらしい.さあらば,同じ事象を見ていながら,筆者がなぜ宝塚歌劇ファンをらやめられたか内省したいと思う.

 


 筆者(20240229)の場合は,宝塚歌劇ファンをやめた外的要因には,

・「宙組団員自身事件」以前からの宝塚歌劇団と親会社への不信感

・事件後に明らかにされたタカラジェンヌ(主に加害者)や宝塚歌劇団OGの実態

・己の快楽を優先し故人を冒涜する宝塚歌劇ファンの言動


などが該当すると思う.

外的要因についてはこれまでの記事で度々言及したため本記事では詳細は省く.


一方,宝塚歌劇ファンをやめた内的要因には,

①宝塚歌劇団の本拠地関西や関東からの地理的な遠さ

②「貧乏暇無し」故に宝塚歌劇ファン活動以外にすべき事が多いこと

③多趣味かつ,「他人のプレイを見て応援する」より,「自分がプレイヤーをやる」方が得意であること

④やたらとプライドが高く,奴隷根性でないこと

⑤宝塚歌劇を軸にした友人関係の少なさ


などが考えられる.


次に各項目を詳しく見ていく.


①宝塚歌劇団の本拠地関西や関東からの地理的な遠さ


 北日本在住の筆者は,ファン時代も劇場に足を運ぶことは年に2度あれば多い方で,ほとんどタカラヅカスカイステージやオンデマンド(主にこちら)等の動画配信の自宅での視聴がファン活動のメインだった.

 つまり,観劇する機会を増やすために宝塚友の会や私設ファンクラブに加入する必要性を感じておらず,さほど宝塚の深みに嵌まることはなかった.

さらに動画配信サービスの解約は指一本で可能であり,ファン活動をやめやすかった.(しかし,サブスク再開も指一本でできてしまうのが難点)


 また,北日本にも宝塚歌劇団の全国ツアーは定期的に来るが,筆者の生活圏内(駅や市街地含む)で全国ツアーのポスターを目にした事はない.(あまり宣伝に熱心でない?)

誘惑の元となるポスターを見ることがないので,結果として宝塚歌劇依存症を断ち切ることができた.


※筆者は兵庫県の隣県から訳あって北日本に移住した経緯があるため,地理的要因も内的要因に含める(2024/07/01加筆).


②「貧乏暇無し」故に宝塚歌劇ファン活動以外にすべき事が多いこと


 もはや説明不要だが,冷静に考えると宝塚歌劇ファン活動にかけるお金や時間の余裕はなかった.


③多趣味かつ,「他人のプレイを見て応援する」より,「自分がプレイヤーをやる」方が得意であること


 宝塚歌劇の観劇のように「他人のプレイを見,それを応援する」趣味は筆者には不向きであった.

宝塚歌劇は質にばらつきのある作品を肯定し,芸事の向上を見守る姿勢でなくては楽しめない仕様になっているため,筆者のように特定の贔屓を作るのが不得手で,盲目に応援もできず,批判的なファンは宝塚歌劇とは親和性が低いと思われる.


 一方で,楽器の演奏,舞踊,車の運転,薪割り,芝刈り等ジャンルは違えど自分がプレイヤーをやる趣味は昔から色々とあった.特に楽器の演奏は小学校の部活動時代から大人なった今も細々と続けている.

宝塚歌劇ファンをやめてできた時間をこれらの趣味にあてたいと考えている.


④やたらとプライドが高く,奴隷根性でないこと


 現状,観客やファンが劇団やタカラジェンヌに舐められていることは,開演直前の公演中止発表や宙組公演再開等を経て火を見るより明らかだ.

ファンの多くもその事に気づいているとは思うが,結局ファンが劇団の誘導に従う現象は,ファンのプライドの低さや劇団に対する奴隷根性も一因になっていると思う.


⑤宝塚歌劇を軸にした友人関係の少なさ

 

 こちらも説明不要であるが,友人がほぼ非宝塚ファンだと,生活圏内で,ファン特有の異様な同調圧力を感じることはなかった.

 ちなみに,学生時代の宝塚ファンの友人とはだいぶ前から音信不通である.

彼女は昨年からの「宙組団員自死事件」をどう受け止めているのだろうか.

痛い宝塚ファンのような暴走をしていないことを願う.



 結論として,筆者が宝塚歌劇ファンをやめた原因には外的要因も大部分を占めるが,そもそも宝塚歌劇ファンに向いていなかったという内的要因も十分にあったといえる.


 それほど向いていなかった宝塚歌劇ファンを十数年も続けてきたのは,宝塚歌劇の舞台に「清く正しく美しく」という幻影を見たかったからである.

宝塚歌劇のファンになった当初,筆者の置かれた環境は「清く正しく」から程遠いもので,現実逃避のために宝塚に夢を買いに行っていたのだ.


 次第に,筆者の生活もそれまでと比べて好転し,宝塚歌劇に現実逃避をする必要もなくなった.

それとは反対に,これまで舞台で夢を見せてくれた宝塚歌劇団の闇の部分が暴かれ始めた.

昨今の宝塚はかつて筆者が置かれた環境よりも「清く正しく美しく」なかったことを知った.


 ここまで整理すると,筆者が宝塚歌劇ファンをやめるに至ったのは自然な成り行きともいえる.