【礼拝メッセージ⑬】2024..6.8【束縛からの解放】  マルコによる福音書5章1節~20


『19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。』(マルコによる福音書5:19-20) 

  湖で嵐を静められた後、イエス様御一行は、湖の向こう岸ガラサ人の地に着きました。マルコの福音書は、展開がスピーディです。そしてその目的の大きな一つに共に行動している、弟子達の訓練があります。
   ここで最初に出会うのが、悪霊に憑かれた男です。この手の問題は専門的分野でもありますし、『祈りと断食』が必要になります。(僕は断食は苦手)
   しかし、現代にも悪霊の仕業かどうかはわかりませんが、社会や家族や地域の中で自分ではどうすることも出来ない束縛にしばられ、悲しく不幸な毎日を過ごしている人は少ないと思います。是非聖書が手元に有るならば5章を開いて一読してください。一人の人格が、失われようとしています。自らを傷つけ孤独で荒れた生活をしています。そこにイエス様が近付かれます。その原因になっている悪の力はイエス様の神としての力を知っています。そこから、逃れようと懇願します。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。主の御名によってお願いしますどうか私を苦しめないでください。」そして豚の群れへ乗り移させてくれと頼みます。
   その土地に豚が飼われていました。「豚」は、旧約聖書の律法によると、汚れた動物とされています(レビ11:7)。汚れたというのは、衛生上のことがあったでしょう。今でも豚はよく炊かなくてはと言われているのは、寄生虫が生きている可能性があるからです。それで当時は豚は食べてはならないとされていましたが、ここでは豚が飼われています。つまり、不法ビジネスが行われていたのです。
 そんな状況の中でイエス様は、悪霊を追い出されました。イエスは、悪霊に関心があったのではなく、悪霊につかれていた男性に関心がありました。この男をかわいそうに思われました。イエスの目は、いつも一人の人の人格に向けられます。人の必要に向けられます。ところが、町の人々は違っていました。人々はなぜイエス様を拒否したのでしょう。それは皆が不正のなかに生き、悪しき習慣に束縛されているからです。
  「赤信号皆で渡れば怖くない」とても日本的なことばですね。ここに出てくるレギオンと言う悪霊は『大勢の』という意味です。集団に紛れて、皆がやっているからいいんだ、という心理の中で不本意な人生を送っていないでしょうか?それとも全くその生活が正しいと思わされて変えようとも思わないのでしょうか?
   人々は彼が正気になったことを喜びませんでした。 彼らは、この男のことをよく知っていました。夜昼墓場で叫び続け、石でそのからだを傷つけていたことを知っていました。そのあわれな男が今は正気になったのです。本来この男の人生に起きたことを喜ぶのが普通です。しかし人々は恐ろしくなったのです。豚が2千匹おぼれてしまったからです。彼らは、その男よりも、自分たちのビジネスに関心があったのです。ひどいことですね。でも、この世の中は、人よりもお金に関心を持っています。解放された男性は立ち去り、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、その地方で言い広めました。人々はさらに驚いたのです。彼は力強い神の証人となりました。次の章の53節以降では、この地方の人々が大ぜいイエス様のみもとに来ていることを見ることができます。こうしてイエス様は、大ぜいの悪霊を追い出されることによって、ご自分がキリストであることを示されたのです。嵐を静め、悪い霊を追い出し、更に次節では、病を癒す事のできる神が、あなたの人格に関心を持っておられます。

ニューライフチャーチ清瀬
牧師 福井和哉