マルコによる福音書⑥ 2章18節-22節 礼拝メッセージ【ユダヤから世界へ】


『18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。』

イエス様が断食について語らえます。
9節 旧約時代は、救い主を待ち望む信仰、救い主はすでにおいでになった。今は再臨を待ち望む信仰。
22節 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。ユダヤ教という枠の中には収まらないのです。
この教えは、人々に新しい命と希望をもたらすものであり、私たちの信仰生活に大切なメッセージです。
・ユダヤ教の主な3つの教え ①貧しい人に施しをする ②断食をする ③祈る
しかし、旧約聖書には律法として断食は出てきません。ダニエルやダビデが状況によって断食をして、祈ったことなどは書かれていますが、断食が特別に祈りがきかれるための条件でも、特別な儀式でもありません。私達は実際余程のことがないと断食はしまん。イエス様は、40日40夜断食をして悪魔の試みに合われましたが、新約聖書には、宗教上の決まりとして断食はありません。イエス様は、悪霊を追い出すために祈りによらなければ・・とおっしゃいました。克己(己の欲望に勝つ・自制)する意味で、断食やインターネット断食を必要とすることもあります。一時中止し祈りに集中する意味はあります。私もダイエットや、余程の悲しい出来事を執り成したり、永く祈り続ける必要がない限り、この先も断食はしないと思います。
 さて、神様が神の国の啓示になぜイスラエルを選んだかはわかりません。しかしながら神様はユダヤ民族を選び人類の救いの計画を掲示されました。そして時満ちてイエス様の降誕から十字架の死、復活、昇天、聖霊降臨、宣教を経て救いはユダヤから全世界へと広がっていきました。新約聖書の中にある4つの福音書の中でマルコの福音書は主に初代教会のユダヤ人以外の人々、特にローマ人のクリスチャン達に対する牧会的な配慮をもって書かれています。そこには旧約聖書の引用もあまり多くはなく、ユダヤ的な習慣や宗教的なしきたりに縛られることがないような内容が書かれています。ところが、このことが当時の宗教的な指導者やエリート意識の高いリーダー達の反感を買うことになります。バプテスマのヨハネの弟子たちでさえ、断食せずに宴会ばかりしているイエス様の弟子たちに不信感を抱いていました。
 クリスチャンになるということは、神の国の宴会に招かれるようなことも意味します。招待される条件はただ一つ「イエスを神の子、救い主と信じること」だけです。ライセンスも修行も必要ありません。
 イエス様のメッセージは一部族の宗教に過ぎないユダヤ教という枠組みを乗り越え、世界宗教(普遍的な宗教)へと広がっていきました。そして私達のところへも届いてきたのです。その新しさはもはや過去の世界観には収まりませんでした。キリスト教のはじまりです。この新しい価値観は過去の歴史の上に成り立っています。ですから旧約聖書の土台の上に新約の教えがあるのは言うまでもありません。しかしながら、イエス様の到来で、律法は成就し、幕屋は裂け、信じる者は皆が祭司としての役割を持つようになりました。すなわちイエス様を通して直接神様に祈ることができるのです。礼拝することがゆるされているのです。伝統や様々な宗教的な儀式とそれを司る祭司職は今は必要なくなりました。習慣や考え方に束縛されるのではなく、良きものを踏襲しつつも、新しい真実なことに変わる勇気も持つべきです。クリスチャンは、絶えず新しい人生に招かれています。イエスキリストの土台に立ちイエスキリストの招きに応えつつ自由に前進することがクリスチャンの人生です。

参考 ルカによる福音書18章9節-14節