こんにちはー
水仙が咲き、桜の蕾が膨らんでほころび始めてとっても素敵な季節ですね。
水仙といえばナルキッソス。
ヴェニスに死すにナルキッソスに喩えた表現も出てきますので、後ほどご紹介しますね。
前回紹介編をしましたので、今回は考察をしてみたいと思います
この小説で考察したい点は2点です
①板挟み・葛藤
②アシェンバハのタッジオへの心情の変化
①は、アシェンバハが旅に出るまでに、②は後半に多く書かれている印象です。
まず、
①板挟み、葛藤
についてです。
アシェンバハの生まれや生き方を紹介する冒頭部分で多く描かれています。
グスタフ・アシェンバハは50歳の高名な作家で、ミュンヘンに暮らしています。
文筆活動は世間でとても評価されており、功績から50歳で貴族の称号を与えられています。
そもそもヴェニスに旅に出るきっかけとなったのは、文筆活動に疲弊し外を歩いている時に異国風の男性を見かけたことがきっかけで湧き出た衝動です。
もともと彼は、
旅行なんて好む好まざるに関わらず時々やらなければならぬ衛生上の処置くらいに捉えていました。
というのも、
創作義務に縛り付けられており、
世の中の人ほど保養が好きではなく、
芸術家として自分自身を完全に出しきり仕事を成し遂げられるのかという不安を感じ始めており、保養している場合ではないと感じていたためです。
そして彼は自分の狭い生活圏から地球の表面について持つことのできる見解で満足していました。
そのように理性を強く持ち、普段から規律をもって克己して生きてきました。
しかしその異国風の男性を見かけた時に、遁走の衝動が強く湧き上がってくるのです。
この理性的な面と、衝動的な面の対比については彼の生い立ちにおいても当てはめられます。
父は司法官であり、祖先は王や国家に仕えて緊張した律儀で切りつめた生涯を送った人が多かった一方、母親はボヘミアの一楽長の娘であり、詩人でした。
この血縁から、冷静な謹厳を備える一方、激しい衝動を併せ持つ性格が形成されました。
彼は元の性質として逞しくなく、絶えざる緊張に耐えられるものではなかったからこそ、『頑張ること』をモットーに常に拳を握り締めたような生き方をしてきました。
ここ、面白いですよね。もともと自分の弱さを自覚していたからこそ自分自身を律して名声を勝ち取ってきたんですね。
また、彼は自身の作品についても葛藤を抱えていました。
彼の作品は国民からとても評価されており、
文体は磨き上げられた伝統的な、保守的なものとなっていきましたが
『火のように活動する感情の影』がないように感じていました。
もう、物語の冒頭部分でいかにアシェンバハが頭でっかちに考えすぎなのかが伝わってきます。
②タッジオへの心情の変化
アシェンバハは、タッジオを見かけた瞬間から容姿の美しさに心を奪われますが、最初は恋心はなかったようにみてとれます。
その後3つの出来事があり、だんだんタッジオに恋するようになります。
まず、タッジオを見かけて間もない時の表現です。
人体の美というものが生まれるために、法則的なものが個性的なものと取り結ばねばならない神秘的な関係について考察し、そこから形式や芸術の一般的な問題の数々に立ち至って、
タッジオを人体の美として、芸術として捉えているのがわかります。
その後まず一つ目の出来事があります。
それは、両者が滞在しているホテルの海水浴場で、楽しくなってガヤガヤと騒いでいるロシア人の一家を目にしたタッジオが軽蔑の表情を示し、ロシア人一家から身を翻し激情を表したこと、
そしてその様子をアシェンバハが目撃していました。
アシェンバハは以下のように感じます
一種の共感ないしは驚愕の気持ち、何かこう尊敬と羞恥のような気持ちのために、アシェンバハは何もみなかったように面を背けた。
とはいうものの気分が明るくなり、突然感動を覚えた。
ただ目を楽しませるのだけに役立った自然の貴重な創造物を、少しばかり真面目に考えるに値するものたらしめた。
この狂熱主義は、さなきだに美しさによって意味深いものになっている少年の形姿に、少年という条件を度外視してこれを真剣に考えてみることを許すきっかけを与えたのである。
ただ、この後もしばらくはまだ恋心は芽生えていないようです。
こんな表現があります
自分を犠牲にして心の中で美しいものを作る人が、美を持っている人間に対して抱く感動的な愛着が彼の心を満たし、動かした。
もうタッジオの美に完全降伏ですよね。
その後2つ目の出来事があります。
それは、アシェンバハがヴェニスにふくシロッコ風の影響で体調不良をきたし、たまらずホテルを後にしようとしますが、あらかじめ運び出された荷物が誤った場所に送られてしまっていたため、ホテルに戻ることになるのです。
一度ホテルを後にすると決めた際、アシェンバハはタッジオを見つけると、
さようなら、タッジオ、短いお付き合いだったね、と頭の中で言った。ーそして彼はこう付け加えた、「幸せにお暮らしよ」ーそれから彼は旅立った。
しかし、荷物の誤輸送を知らされ、ホテルに戻らざるを得ないと知った時、明らかに喜びます
怒ったような諦めの表情の下に、脱走した少年のような不安で気負った興奮を隠して坐っているのであった。
そしてホテルに戻り、部屋でこう感じます
またここにいられることに満足であった。しかしまた自分の気紛れや、自分で自分の望みを知らなかったことに対しては、頭を振りながら不満の意を示した。
それから自分の血潮の感激、自分の魂の喜びと苦しみを感じて、ヴェニスからの別離をあれほど辛いものにしたのは他ならぬこのタッジオがあるためだったということをはっきり知った。
そして3つ目の出来事です。
ある晩タッジオの一家が晩餐に現れず、動揺したアシェンバハがホテルの前のテラスをうろついていると、タッジオ一家が現れました。そしてアシェンバハとタッジオの視線がぶつかり合い、タッジオが微笑んでみせたのです。
その際の表現が以下です。
話しかけるように、親しく、愛らしく、はっきりと、微笑しつつ徐々に開いていく唇で笑いかけたのである。それは水に映った自分の姿の方へかがみ込むナルキッソスの微笑であった。
なまめいて物珍しげな、微かに苦痛の色を浮かべた、うっとりした、人の心を惑わせる微小であった。
そしてアシェンバハはこの微笑にあわてふためき、ショックを受けます。
そして独り言を言います。
「お前はそんなふうに笑ってはならないのだ。いいかね、誰にだってそんなふうに微笑みかけてはならないのだよ」
そしてその後ベンチに身を投げかけ、囁きます。
「己はお前を愛するのだ」
この表現から、三つ目の出来事、つまりタッジオに妖艶に微笑みかけられたことで恋心を自覚したのです。
なんとなくわかるかもしれませんが、この作品でタッジオとアシェンバハは直接話していません。
そう考えると、アシェンバハの自覚した恋心は強い憧れや所有欲の延長なのではないかと思います。
作品中にもこんな表現があります。
けだし人間というものは相手に判断を下しえないでいる間だけ、相手を愛し、敬うものだからだ。憧れは認識不十分の一産物なのである。
しかしこの認識不十分の時期が一番気持ちが昂るんでしょうね〜。
長くなりました。読んでくださりありがとうございました。