こんにちは。

 

 

先日銀座の台湾式マッサージのお店に行ってきました。

70分4700円でリーズナブル。

 

台は狭めで、着替えてうつ伏せになりました。何気に1人でこういうマッサージを受けるのは初めてでした。

 

最初軽く体をさする感じだったので、

これは大して強くなくて、グアムで受けたスパみたいなリラックス系かな?と思っていたら、次第に力が強くなっていって、

 

一番疲れているところを聞かれたので、適当に肩と答えたら、

徹底的に肩甲骨をもぎ取りにきました。

背中から肩甲骨を抑えられたときは喉が潰れるのではないかと思ったし、腕を引っ張られた時は私で手羽元を作ろうとしているんじゃないかと思いましたね。

 

でも今日超スッキリしてます。謝謝?

 

 

 

 

湯河原予習の第二弾として、芥川龍之介のトロッコ、一塊の土を読みましたので感想を書きたいと思います。一塊の土はまた改めて書きますので今回はトロッコについてです。

 

 

 

芥川龍之介 (新潮社HP、国立国会図書館HPより)

1892年生まれ、1927(36歳)没

東京帝大英文科在学中から創作を始め、短編「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。

卒業後、海軍機関学校の嘱託教官として英語を教える傍ら

今昔物語などから材を取った王朝もの「羅生門」、「芋粥」、「藪の中」、中国の説話によった童話「杜子春」などを次々発表、大正文壇の寵児となった。

西欧の短編小説の手法、様式を完全に身につけ、

東西の文献資料を材に仰ぎながら、

自身の主題を見事に小説化した傑作を多数発表。

1919年海軍機関学校を辞職、大阪毎日新聞社社員として文筆活動に専念する。

1925年ごろより体調が優れず、湯河原などで静養を繰り返す。

「唯ぼんやりした不安」のなか、薬物自殺。

「歯車」「或阿呆の一生」などの遺稿が残された。

 

Wikipediaより

・短編の傑作を残した一方で長編をものにすることはできなかった

・生活と芸術は相反するものと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもと作品を執筆したと考えられる。

 

・晩年には志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全に否定する。

 

・師であり自分を見出してくれた夏目漱石を終生尊敬し続けた。妻へ宛てた遺書の中で、自作の出版権については岩波書店に譲与し、新潮社との契約は廃棄すと記している。その理由について「夏目先生を愛するが故に先生と出版を同じにしたい」と希望した。

 

 

夏目漱石って優秀な弟子たちから相当慕われていたんですねえ。

 

 

では、作品についてです。

 

 

トロッコは、こんな冒頭で始まります。

小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。

良平は、毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。

 

この軽便鉄道ですが、国木田独歩の「湯河原ゆき」で登場した人車鉄道が前身で、

明治28年に営業開始し、人間が客車を押すという世界的に珍しい鉄道であったようです。

小田原ー熱海間、25kmで、4時間かかったようです。すごい。

 

明治41年には軽便鉄道に転身し、この人車鉄道からの工事の光景がトロッコに描かれているということですね。

 

 

読んで思ったのは、

トロッコのはしる臨場感あふれる表現、

子供の頃の好奇心、それが心ぼそさに変わる瞬間などが哀愁を持って描かれており、

それがこんなにも短い中で表現されているって、改めて本当にすごいということです。

 

 

そしてやっぱり文がとっても独特ですね。切れ味がすごいです。

 

 

 

 

有難うございました。