こんにちは
近々湯河原に旅行の予定があるので、湯河原に関係する作品を読もうと思い、
国木田独歩の「湯河原ゆき」「湯河原より」を読んでみました。
少し前に湯河原に行った際の写真です。
19世紀周辺の作品っていいですねー。読みにくすぎないし。
今回自然主義文学についても気になったので調べてみました。
自然主義文学 (Wikipediaより)
19世紀末エミール・ゾラにより定義され、フランスを中心に起こった動き。
自然の事実を観察し、真実をえがくためにあらゆる美化を否定、人間の行動を遺伝・環境から化学的に把握しようとした。
フロベールやモーパッサンも挙げられる。
日本の作家も影響を受け、
坪内逍遥、永井荷風、島崎藤村、ロマン主義から脱却した国木田独歩などが挙げられる。
しかし、“自然主義は次第に現実を赤裸々に描くもの“、
“身の回りの体験を矮小化して描くもの“
のような否定的な見方が生まれ、
その後、耽美派(留学帰りの永井荷風)、白樺派、余裕派(正岡子規、夏目漱石、寺田寅彦)、高踏派、新現実主義などが生まれる。
国木田独歩 (国立国会図書館HP、Wikipediaより)
1871−1908
詩人・小説家
千葉県銚子生まれ。東京専門学校(早稲田大学)を中退。在学中に洗礼を受ける。
その後明治27年に国民新聞社入社。
日清戦争に記者として従軍し、その後新聞雑誌に発表した詩を田山花袋らとの合著「抒情詩」に、独歩吟としてまとめる。
次第に小説に専念し、「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、
「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆と目される。
また、現在も続いている雑誌「婦人画報」の創刊者であり、
編集者としての手腕も評価されている。
以下気に入ったフレーズです
湯河原ゆきより
そこで自分は「対話」ということについて考えはじめた、
大袈裟に言えば、「対話哲学」またの名を「お喋舌哲学」について。
自分はまず劈頭第一に
「喋ることのできない者は大馬鹿である」
「喋ることのできないのを稱して大馬鹿だというは、
余り残酷いかもしれないが、少なくとも喋らないことを持って甚だしく自分で豪らがる者は馬鹿者の骨頂と言ってよろしい、
そして此種の馬鹿者を今の世にチョイチョイ見受けるには情けない次第である」
湯河原より より
僕は批評家の御注文に應ずべく神様が僕および人類を造ってくれなかったことに感謝する
何故に自然を愛する心は清く高くして、少女(人間)を戀ふる心は「浮たる心」「いやらしい心」「不健全なる心」だろうか、僕は一念ここに及べば世の倫理学者、健全先生、批評家、なんといふ動物を地球外に放逐したくなる、
西印度の猛烈なる火山は、何故に何時の熱火を此種の動物の頭上には注がざりしぞ!
此時僕は決して自分を不幸な男とは思はなかった。また決して厭世家たるの権利はなかった。
湯河原ゆきと、湯河原よりでは、文面の温度差がすごいです笑
湯河原より の方は“!“が頻用されてて、浪漫的だなと感じられる作品です。
なんか武者小路実篤の友情を思い起こす温度感でした。
湯河原ゆきの方はどちらかというと写実的な感じがします。
「定めし今時分は閑散だろうと其の閑散を狙って来て見ると案外そうでもなかった」
冒頭から気取ってなくてかっこいいです。
中西屋(中西旅館)はもう今はないみたいですね。
万葉公園に石碑があるみたいなので、みてきたいと思います。
有難うございました