今年2月に投稿した記事ですが、再投稿させていただきます。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

最近、「『平穏死』のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか」という本を読みました。

 

 

ご著者の石飛 幸三(いしとび こうぞう)医師の略歴は、

昭和10年11月2日生まれ。昭和36年慶応義塾大学医学部卒業。昭和45年ドイツ、フェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院で血管外科医として約2年間勤務。昭和47年より東京都済生会中央病院勤務。平成5年同病院副院長。平成17年12月より芦花ホームに勤務(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(アマゾンのページよりお借りしました)

とのことで、人の人生の最期の場面にまだ遭遇したことのない私にとっては、知らないことばかりで、とても勉強になりましたので、特に印象に残ったところを転載させていただきたいと思います。

(こちらで、改行のみさせていただきました)

 

胃瘻は、意識があるのに嚥下機能が失われている人にとっては、極めて有効な栄養補給法です。

そもそも現在のような、内視鏡を使っての胃瘻造設は今から約30年近く前に、子供の食道狭窄(きょうさく)に対する応急的処置として行われたのが始まりでした。

人生の始まりに対する応急的処置が、老衰の果てにまで適用されるとは、何とも皮肉な感じを否めません。

もはや物事を考えること、喜怒哀楽を感じることさえもできなくなった人に対して、強制的に栄養を補給することは本当に必要なことなのでしょうか。

 

我々はとかく、栄養補給や水分補給は、人間として最低限必要な処置だと反射的に考えますが、それはまだ体の細胞が生きていくための分裂を続ける場合の話です。

老衰の終末期を迎えた体は、水分や栄養をもはや必要としません。

無理に与えることは負担をかけるだけです。苦しめるだけです。

高僧が最期を迎えるときは、傍らには水が置いてあるそうです。

三宅島では老人の最期には水だけが与えられるそうです。このようにできるだけ自然に沿って対応した方が、本人が楽に最期を過ごせると言われています。

このことを証明した欧米の文献は少なくありません。

また長年老年医学を研鑽(けんさん)している植村和正(うえむら かずまさ)氏は、老衰で死ぬ場合は、栄養や水分の補給がない方が楽に逝けるという立場をとっています。

 

入所者が食べられなくなってからの最後の数日間の様子を見ていると、喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。何も体に入っていないのにおしっこが出ます。自分の体の中を整理整頓しているかのようです。

ある人はこれを氷が溶けて水になっていくのと同じで、体が死になじんでいく過程だと言います。

このような状態では体から自然に麻薬様物質であるエンドルフィンが出ると言われています。だから苦痛がないのだと言います。私にはその感じがよく判ります。

 

せっかく楽に自然に逝けるものを、点滴や経管栄養や酸素吸入で無理矢理叱咤激励して頑張らせる。顔や手足は水膨れです。我々は医療に依存し過ぎたあまり、自然の摂理を忘れているのではないでしょうか。

 

 我々にとって、家族にとって、何もしないということは心理的負担を伴います。口から食べられなくなった人に、胃瘻という方法があるのに、それを付けないことは餓死させることになる、見殺しだと考えます。栄養補給や水分補給は人間として最低限必要な処置だ、それを差し控えるのは非人道的だと思ってしまうのです。

しかしよく考えてみて下さい。自然死なのです。死なせる決断はすでに自然界がしているのです。少なくとも神様は責めるはずはありません。医師も家族も「自分が引導を渡した」ことになりたくないなどと思うのは錯覚に過ぎません。

※胃瘻(いろう)とは、胃腔(いこう)に向かって腹壁(ふくへき)に開けられた孔(あな)とそこに設置された管のことだそうです。

 

平成16年厚生労働省検討会の報告によると、最期を迎える時、単なる延命処置は要らないと言う人が74パーセントで、医師ではなんと82パーセントに及びます。医師には実情が判っているからです。

ある特養の施設長が、オランダのホームを見学した時の話です。認知症の老人の口を開けてスプーンを入れようとしたところ、現地のワーカーから「あなたは何て恐ろしいことをするのか。この人は食べたくないのに。あなたは老人の自己決定を侵している」と怒鳴りつけられたそうです。さらに、この施設長は帰国後にも、追いかけるようにそのワーカーから、「私たちは、食事は並べるが、無理に食べさせたり、チューブを入れたりしない。そのままでも安らかに死ねる」と手紙を送られたそうです。

 

こういうのもあります。

ドイツのある養護老人ホームでは、入居者はそのホームで死を迎えることがほとんどで、病院に移されることは稀だ。多くの場合、徐々に食事がとれなくなって衰弱して来る。老衰と判断され、そのまま見守っているうちに静かに息を引き取る。(坂井洲二『ドイツ人の老後』法政大学出版局、1991年、92~93ページ)

ドイツ人の老後 (教養選書 74)

 

デンマークでは「自宅で死にたい」と意思表示しているお年寄りは、ほとんどの場合、願いが叶うらしい。

最後の最後、食事も受け付けず水も飲めなくなったとすると、日本だったら病院に運ばれて、経管栄養や点滴が行われるだろう。

こちらでは、水が飲めなくなったらおしまい。もう死ぬとわかったら、点滴もやらない。延命策はとらない。病院に運ばない。そして、担当のホームドクターの往診記録にドクター自身の手で、「もう治療しません」といった言葉が記されるのだと言います。これらが欧米の感覚です。

 日本人の感覚も今大きく変わりつつあります。70パーセントの人が単なる延命治療は望まないと言っているのです。現場の医者も覚めてきています。特別養護老人ホームの現場ではもっと大きな変化が押し寄せています。

 

私も将来、老衰のために体に限界が来たら、胃瘻や点滴はせずに、エンドルフィンの力(?)で、苦痛なく旅立ちたいと願います。

 

こちらの本には、ホームで最期を迎えた方のご家族の心からの感謝の言葉なども載せられていて、石飛医師が、入所者の方とご家族にとっての最善を尽くしてくださっている様子が伝わってきました。

 

 

また、最近、『さいごはおうちで』と『おうちに帰ろう』という在宅医療に関する漫画も読みました。

 

 

 

病院ではなく、住み慣れた自宅で安心してさいごを迎えるという選択肢があります。瀬戸内の実話をねこストーリーマンガで。

 

とても心温まる内容で、読んでいて涙があふれました。

 

 

人は誰でもいつかは最期を迎えるので、どの場所で最期を迎えるにしても、精一杯生きて心安らかに旅立ちたいと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 

 
 
 

特にお読みいただきたい過去記事一覧はこちらです。