既報のとおり、2024年1月15日、東京地裁で出された砂川事件国賠訴訟の判決は、原告の請求を棄却する内容でした。

砂川事件国賠訴訟「不当判決」のなかみ(2024年1月15日レポート) | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

それを報じる記事やネットニュースが多数あるなかで、1月19日付『東京新聞』社説は、この判決で問われた核心的な問題に切り込み、私たちが今考えるべき問題を示唆していると思われます。

 

この社説は、1955年に始まった「砂川闘争」と、1957年に発生した「砂川事件」について、さらに、1959年に出された一審判決での「無罪」が最高裁への「跳躍上告」によってくつがえされたこと、1964年に7人の有罪が確定したことについて、簡潔に説明しています。

 

そして、2008年以降アメリカの国立公文書館でいくつもの重要文書が発見されて、当時の最高裁長官が駐日アメリカ大使らと裁判所外で面談していたことがわかったことについては、より詳細に記されています。
原告が上告してまだ審理が続いている時に裁判長が裁判の見通しについてまで発言していたとなれば、「原告が「公平な裁判を受ける権利が侵害された」と受け止めたのは当然だろう」という判断を示しています。

また、今回の地裁判決が「具体的な評議内容、予想される判決内容まで伝えた事実は認められない」などとしていることに対しては、日米間の重要文書に「世論を揺るがす少数意見を避けたい」との表現があるのは、「最高裁長官の意向そのもの」ではないか、「米側と評議の進め方などを巡り協議していたことを示す内容ではないのか」、と鋭く問い続けています。

 

<社説>砂川事件判決 「公平な裁判」だったのか:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

「そもそも」論からすれば、他人の所有地に数歩入っただけで一生を左右するほどの有罪判決を受けるということ自体、あるいは米軍基地が問題となっている裁判で、最高裁長官が当事者たる駐日米大使に裁判内容を話すなどという「不適切極まりない」ことが現に起こったこと自体が、「なぜか」と問われなければならないでしょう。

 

『東京新聞』の社説でも最後にふれているように、憲法37条が保障する「公平な裁判を受ける権利」が侵害されたことは、良識に照らして明らかです。そのことを裁判所自らが「棄却」という形でないがしろにし、「民主主義国で最も基本的な権利」についても、「司法が身内を守るような発想で」退けたといえるでしょう。

否、身内の問題というよりは、日本の法律も憲法も超越する存在としての日米安保条約と、それに基づく「日米地位協定」(砂川事件当初は「日米行政協定」)の問題だと言うべきでしょう。

それこそが今のメディアで議論されえないタブーとなっている事態にも、目を向けたいと思います。

 

そんな折、タイムリーな企画が告知されています。

 

 

イベント|New Diplomacy Initiative(新外交イニシアティブ) (nd-initiative.org)

https://www.nd-initiative.org/event/


今や、平和を唱え軍事化に反対する声はまさに「少数意見」となり、しかも「世論を揺るがす」ほどにはなっていません。安保条約もアメリカの軍事基地も、まるで空気のようになってしまったのは、庶民的楽観主義だけでなく、諦めの無力感のせいかもしれません。

世界に目を向ければ、たとえば辺野古の新基地建設問題に関して、以下のような国際声明が発表されています。400人を越える世界の識者が、アメリカ大統領とアメリカ国民に対して「辺野古・大浦湾での新基地建設中止」を、切々と訴えているのです。

 

【全文・主な署名者】世界の識者「辺野古ノー」 ストーン監督ら400人が声明 - 琉球新報デジタル (ryukyushimpo.jp)

 

 

アメリカは世界じゅうに軍事基地を有しており、軍事条約や協定を締結している国は日本だけではありません。日米地位協定を他国の地位協定と比較することで、どのような展望が開けるのかーー2月10日のシンポジウム参加後、このブログでもポジティヴなレポートが書けることを期待しています。