砂川事件国賠訴訟の山場となる第12回口頭弁論を1ヶ月後に控えた2023年4月21日、砂川平和ひろばでは、この訴訟の原告のおひとり坂田和子さんをお迎えして、講演会・交流会を行いました。
その日の講演内容をレポートします。
坂田さんの父・茂さんは、大手鉄鋼メーカーの労組員として、砂川の現場にいました。そして1957年7月、米軍立川基地内に立ち入ったとして、その当日から2ヶ月以上も経た後に逮捕され、起訴されました。
砂川平和ひろばの福島京子代表(左)の案内で
かつての砂川事件の現場付近を訪れた坂田和子さん(右)。
写真正面のフェンスの向こうには、延長しそこなった滑走路が残されています。
1955年に発表された米軍立川基地拡張計画とは
二人が立っている場所に向けて滑走路が延長され
農地と宅地を貫いて、砂川の町を分断することになる計画でした。
2023年4月21日午後撮影
「砂川事件」米軍基地違憲判決は なぜくつがえされたか?! ~独立を放棄した司法の歴史~
長女である和子さんは、1956年生まれ。事件当時の記憶はなく、大人になってからも、父が職を失った後の母の苦労を察しつつ、自身の仕事や活動に忙しかったという。
実は和子さんは、36年にわたる小学校教師生活を経て、今も大学の非常勤講師を務める教育者で、著書・共著書も多い。そのうちの一冊「先生あした晴れるかな」は映画化もされたという。暴力の問題やジェンダーの視点にも及ぶ幅広いテーマで活躍し続けてきたのである。
多忙な日々のなかでも、和子さん自身、米軍基地や安保の問題について無関心ではいられなかったが、父の運動に直接かかわることはなかった。
それが一変するきっかけは、2013年に父・茂さんが急逝したことと、それと前後してアメリカ国立公文書館で砂川事件の裁判に関わる新資料が解禁されて次々発見されたことだった。日米間で交わされた電報などの原文によって、アメリカが露骨な介入をしたことが明らかとなったのだ。
さらに、第二次安倍政権下の2015 年、安全保障関連法の審議で、「伊達判決」を不当に覆して下された「砂川事件」判決文が引き合いに出されたことも衝撃だった。
自民党の高村正彦副総裁は、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない」という部分を引用して、集団的自衛権行使の根拠としたのである。
このような詭弁に対して、法曹関係者や事件の当事者などから、そもそも砂川判決は、集団的自衛権を争点とするような判決ではなかったのだと、反論や批判が噴出した。
こうして坂田和子さんは、2019年3月19日、国を相手取り東京地裁に国家賠償請求訴訟を提起する原告の一人となった。
同年6月12日の第一回口頭弁論で、坂田さんが次のように訴えたことが、共同通信の阿部茂記者の記事で報じられた。
「「社会科で『 日本は三権分立の国だ 』 と教えてきましたがこの事実を鑑みると、私が教えてきたことは間違っていたと言わざるを得ない。これからの教員には迷いなく、事実として 『 三権分立 』 を教えられるようになってほしい。裁判長、司法は公平で独立したものであることを明らかにしてください」
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そして、憲法記念日の今日(2023年5月3日)、坂田和子さんの砂川平和ひろば訪問と福島京子代表との対面を現場取材した毎日新聞・木村健二記者が、以下のような記事をあげていました。
「この地で父は闘った」 今も続く娘たちの砂川闘争 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
【追加資料】
2019年6月12日に行われた砂川事件国賠訴訟第一回口頭弁論で、坂田和子さんが行った陳述の全文は以下の通りです。
《意見陳述 》
1957年、父・坂田茂は、逮捕・起訴されました。そのころ、私
はまだゼロ歳児の赤ん坊でした。ですから、そこで起きたことやその
後のことはすべて長じてから父と母から聞きました。
まだ明けきらない早朝に、社宅の小さな部屋に逮捕状を持った人た
ちが突然やってきた時の母の驚き。それは砂川事件で逮捕されたのだ
ということ。砂川事件とは、米軍の基地拡張に反対した闘争だったと
いうこと。父が逮捕された理由など。私は事の経緯について、時を遡
るかたちで知っていくことになりました。
父は当時、日本鋼管川崎製鉄所労働組合の執行委員として砂川の基
地拡張反対闘争に参加していました。そして、刑事特別法違反で起訴
されると同時に、日本鋼管から解雇を言い渡されました。
解雇撤回を求めた裁判は17年間に及びました。その間、学校の教
師などに「お父さんはどんな仕事をしているのか」と尋ねられると、
答えに窮したものです。裁判中であることは、父や母ばかりでなく、
私たち4人の子どもたちにとっても不安をもたらすものでした。生活
は不安定でした。ようやく解決し解雇撤回となったときには、私は高
校生になっていました。父と私たち家族の中で、砂川事件は長く続い
ていたのです。
砂川事件から約半世紀たった2008年、機密指定が解除された米公文書で、
田中耕太郎裁判長と駐日米大使が密談していたことが発覚しました。その後に発
見された文書でも、裁判の日程や見通しなどを伝えていたことが分かりました。
私はそれらを新聞記事で知り、大変驚きました。私たちの暮らしに大きな影響を
与えた砂川事件の裁判に関わる重要な文書が発見されたのですから、その驚きは
大変なものでした。
これらの文書の発見を機に、父は土屋源太郎さんらとともに情報公開を求めた
り、シンポジウムを開いたりと精力的に活動を始めました。しかし、再審請求準
備中の2013年の2月に、父は急逝しました。遺族として、請求人のひとりと
して再審請求に参加することを決めたのは、私自身が司法を揺るがす密談の事実
に大きな怒りを抱いたからです。
砂川事件最高裁大法廷は、一審判決を破棄、東京地裁に差し戻すという判決を
出しました。しかし、発見された数々の文書によりその法廷が「公平な裁判所」
でなかったことは、明らかです。にもかかわらず、免訴を求めた再審請求は棄却
され、免訴再審の道は閉ざされてしまいました。この結果にはまったく納得がい
かないばかりでなく、怒りさえ覚えています。亡き父が心待ちにしていたであろ
う報告を、父に届けることはできませんでした。
憲法37条が保障する「公平な裁判所の裁判を受ける権利」は、田
中耕太郎裁判長によって侵害されました。父は、人権を侵害され、名
誉は回復されないままです。このままにしておくことは、できません。
司法の公平性・独立性を確立するためにも、国家賠償を請求します。
私は、36年間小学校の教員をつとめてきました。六年生の社会科
の授業では、日本は三権分立の国であると教えてきました。でも、裁
判長が、裁判の一方の当事者に、裁判に関わる重要な内容を伝えてい
たというこの事実を鑑みると、私が教えてきたことは間違っていたと
言わざるを得ません。残念です。
これから社会科を教える教員には、迷いなく、事実として「三権分
立」を教えることができるようになってほしいと願っています。
裁判長、司法は公平であり、独立したものであることをどうか明らか
にしてください。
父が権利を侵害されたことに対する賠償をしてください。支払わさ
れた罰金を償還してください。さらに、謝罪広告を掲載することを求
めます。
以上