2022年は、米軍立川基地返還後の自衛隊の強行移駐と沖縄返還から50年、という節目にあたる年です。

そして今日2022年9月29日は、「日中共同声明」が調印され、日中国交正常化が実現してから50周年の日です。

 

相変わらずの中国脅威論に加えて「台湾有事」が、日本の軍備増強の口実とされている今、日中共同声明の原点にかえって、台湾問題をふりかえってみたいと思います。

 

「砂川闘争」が始まった1955年は、敗戦から10年目、国内的には保守合同によって自由民主党が結成され、また左・右社会党が統一された、いわゆる「55年体制」といわれる政治状況の年でした。

そして、法廷闘争も含めた長い闘いが続いていたのは、世界史的に東西冷戦のさなか、朝鮮戦争とベトナム戦争の間であり、平和憲法のもとで平和を謳歌し経済発展を享受していたはずの日本でも、軍事基地の存在は常にリアルな問題を投げかけていました。

 

反戦・平和の思想や反基地運動を考える上で、アジア状勢と日中関係は、特に重要なテーマとなっています。

今年11月から始まる砂川平和しみんゼミナール(平和しみんゼミ)第4期は、そのような観点から構成される予定です。

 

スケジュールが確定したら、このブログでもお知らせしますが、今日はそれに先駆けて、50年前の北京で、両国の首相と外務大臣によって署名された「日中共同声明」の内容を、確認しておきます。

 

 

 

  日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明

日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 (mofa.go.jp)

 

戦争状態の終結

 

共同声明の前文には

「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」
「日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である」

国交正常化は「両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである」

と明記されています。

 

 

以下、主要な条項の日本語原文を、抜粋して記載します。

下線と(  )内の加筆は、本ブログ筆者によるもので、適宜、説明も加えます。

 

二    日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。


三    中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。

 

五    中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。


六    日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

 

 

ポツダム宣言は、1945年7月26日に英国・米国・中華民国の同盟国の名前で、日本に対して発せられた降伏要求の最終宣言です。

ポツダム宣言第8項とは、「カイロ宣言」条項の履行を求め、「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並びに吾等(同盟国側)が決定する諸小島に局限される」ことを言明した条項です。

 

それに先立つ1943年11月、やはり英・米・中の代表がカイロで会談し、12月に発表したのが「カイロ宣言」でした。

「カイロ宣言」の目的は、「1914年の第一次世界戦争開始以来、日本が奪取または占領した太平洋のすべての島々を日本国から剥奪すること、そしてまた満洲、台湾および澎湖島のように日本が中国人から盗取したすべての領地を中華民国に返還すること」

であると、書かれています。

 

上記の「 」内に相当する英語原文は以下の通りです。

It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the First World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to the Republic of China.

カイロ宣言とポツダム宣言 (nishino-law.com)

[Cairo Communiqué](拡大画像) | 日本国憲法の誕生 (ndl.go.jp)

 

 

日中国交正常化が残した問題

「ひとつの中国」

上記の史料から明らかなように、日本の対戦国であり、日本に無条件降伏を勧めた主要国の一つは「中華民国」でした。

中国大陸で、辛亥革命によって清朝が倒れた後、1927年に国民政府を樹立した蒋介石は、毛沢東率いる中国共産党との「国共合作」によって日本と戦いました。

しかし終戦後、共産党軍との内戦が再開されて、勝利をおさめた共産党は、1949年10月1日に北京で中華人民共和国の成立を宣言します。

 

敗退した蒋介石の国民党軍は台湾に逃れて中華民国を維持し、「大陸反攻」をめざしたため、台湾は長期にわたって戒厳令下におかれました。

それでも戦後の国連では、台湾の中華民国が中国を代表し続けたのですが、大陸の「新中国」の国交樹立外交が進み、冷戦体制も揺らぐにつれ、国連では中華人民共和国の国連加盟を支持する国が増えていきました。

こうしてついに1971年、中華人民共和国の国連加盟が決定し、台湾は脱退することになります。

つまり、中華人民共和国の「一つの中国」が、国際的に認められたのです。

それを踏まえて、翌1972年の日中共同声明には、日本は「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府である」ことを承認し、その政府が、台湾を中華人民共和国の領土の不可分の一部であると主張する立場を、「十分理解し、尊重」すると明記されたのです。

 

その結果、日本は台湾の中華民国政府との国交を断絶しました。

それでも当時の日本は、日中国交正常化を歓迎しました。

1972年10月3日付の『サンケイ新聞』は、同社コンピューター1000人調査の結果を、「日中国交「よくやった」が98%」「台湾断交、88%が肯定」と、一面トップの大見出しで伝えました。

 

その後50年の間に、台湾では戒厳令が解除され、民主化が進み、経済的にも文化的にもめざましい発展をとげました。「中華」への帰属意識というより「台湾アイデンティティ」が高まってきました。

しかし、過激な「台湾独立」論は、大陸の中国政府にとって、核心的利益を損なう重大な問題です。

アメリカをはじめとする先進諸国が、台湾の政権を「国家」並みに重視するかのようなパフォーマンスを続けることにどのような意味があるのか。原点に返って、冷静に考えてみたい問題です。

 

「領土問題」

もう一つの問題は、先に引用した史料のなかで、日本が無条件降伏した後に返還すべき島々について言及されていましたが、尖閣諸島(中国では釣魚島)の名前が明示されていなかったことです。「台湾および澎湖島のように日本が中国人から盗取したすべての領地」としか記されていません。

 

10年前、日中国交正常化40周年の時期は、この小さな島をめぐる領土ナショナリズムが高まり、日中関係は最悪とまで言われる状態に陥りました。中国大陸での反日言論や過激な行動が報じられ、日本の大衆メディアも反中感情を煽りがちでした。

「領土問題は存在しない」という日本政府の頑なさに抗して、市民レベルの声をあげるしかありません。

 

「尖閣」「竹島」問題をめぐる領土ナショナリズムの過熱を憂慮した人々が、2012年9月28日に「「領土問題」の悪循環を止めよう!」という「日本の市民」のアピールを発表しました。

アピールは、ただちに多くの賛同を得て、『週刊金曜日』や『琉球新報』から注目されましたが、国内ニュースとしてはほとんど報じられませんでした。

一方、中国メディアはネット上でアピールの内容を紹介し、韓国メディアも、日本の識者の呼びかけが韓国・中国にも共感と省察を生む契機になる、と期待を示しました。


中国では著名な女性作家の崔衛平さんが、「中日関係に理性を」と訴えてネット署名が集まったそうです。

韓国・台湾からも支持や連帯のメッセージが届きました。

そのような海外からの反応については、ようやく『朝日新聞』『東京新聞』が報じました。
そのアピールに呼応し合った人々が中心となって、「争いの海」を「平和の海」に変えるために何ができるかを話し合い、異なる立場や発想への理解を深めていきました。こうして、翌年の2013年7月7日に、「平和の海を求めて――東アジアと領土問題」と題する国際シンポジウムが開催されました。

日本をはじめ中国大陸と台湾、韓国や沖縄を含め、計100人を超える研究者・ジャーナリストが参集しました。前夜のレセプションも含め、運営は多くの市民ヴォランティアによって支えられました。

 

10年後の今、COVID-19新型コロナの感染が収まり切らないこともあって、そのような企画は益々難しくなっています。

でも、大戦終結以来、どこの地でも、いつの時代でもあったはずの戦争はイヤだという庶民感情や、お互いをもっと知りたいという越境への憧れを大切に、草の根の相互理解と交流をつみ重ねていけたらと思います。

先に紹介した「日中共同声明」と、その後1978年に結ばれた「日中友好条約」の文言と精神こそが、今もなお日中関係の基本なのですから。