「砂川闘争」や、伊達判決を含む「砂川事件」関係の研究は 多くはありませんが

新しい視点からの若手研究者の論文には 内外問わず注目すべきものがあります。

このブログでもできるだけ紹介したいと考え 「テーマ設定」の機能を利用して

研究論文またはResearch Worksに特化した記事も 少しずつ増やしていきます。

その第一回として

高原太一『米軍立川基地拡張反対運動の再検討

――「流血の砂川」から多面体の歴史像へ――』

をとりあげます。

東京外国語大学に提出され 2022年に

「社会運動史研究に対してオリジナルな貢献をはたす重要な研究成果である」

と認められた博士論文です。
 

高橋太一さんは、中学校のときの社会科見学で砂川を訪れ

またその事前学習で亀井文夫の記録映画を観たことが

研究の原点だった と言います。

2015年に砂川闘争60周年を記念して開催された現地集会には

大学院生として参加していました。


 2015年10月「秋まつりひろば」で(アダム・トンプキンス撮影)

その後、砂川平和ひろばのメンバーとなり

宮岡政雄の『砂川闘争の記録』を読む読書会を主宰したり

65周年記念誌を企画・編集したり

会員同士の学習・研究活動に 重要な役割を果たしています。
 

砂川平和しみんゼミが開催されるようになると

その第1期第3回(2021年6月19日)のゼミで 当時執筆さなかだった博士論文から

「砂川民衆史における『基地拡張問題』」というテーマで

オンライン報告を行いました。

今回のブログでは まず高原太一の博士論文「序章」を紹介し 概要をまとめます。

原文の用語や記述も適宜「  」で示して引用しますが

あくまでも論文の読み手(=このブログ執筆者)が理解した範囲での要約です。
末尾に論文全体の「目次」を転載し

この論文の「審査及び最終試験の結果」が公表されているサイトURLを掲載します。

 

 

 

  高原太一『米軍立川基地拡張反対運動の再検討―「流血の砂川」から多面体の歴史像―』


「序章」 概要

1 問題意識と目的

まず高原は、「砂川闘争」をめぐるこれまでの歴史記述には、次のような要因による問題があることを指摘する。「地元民のほか総評傘下の労働組合員や全学連に所属する大学生が支援者として参加」して衝突が発生し、「流血の砂川」の結果として得られた「勝利」をめぐって各支援勢力の間で「手柄争い」が発生したことである。


そのような歴史表象の主戦場となったのは「歴史教科書の記述」だった。そのことが「砂川闘争の歴史」に及ぼした最大の影響は、「流血と勝利に関心」が集まれば集まるほど、相対的に「後景化/周縁化」されていく存在があったということだ。具体的には二つの存在があげられている。
第一に、「衝突」において「参加主体」とみなされなかった人々――そこには基地拡張問題の当事者である地元農民も含まれる。

第二に、「警官隊との対峙という直接行動以外の諸実践」の実行者・参加者、である。


そのような状況と問題に対して批判的な視座を提示してきたものとして、砂川の当事者・関係者による「記録」の掘り起こしや作成・出版という実践があり、また様々な先行研究の成果がある。
高原自身もこの論文において、従来の「砂川闘争の歴史」に批判的に介入し、そうした記述を相対化するために、多様な実践や運動主体、運動の過程における関係性に注目しながら「内的に結びついて多面体の歴史像」を提示することを目的とする。

さらに、その視座からもう一度「衝突」という頂点的な出来事をとらえ返して、そこに込められた人々や時代、社会のエネルギーのありかと意味を読み取ることをめざす。


2 検討対象となる記録・資料

当事者・関係者による「記録」、「多様な実践」や「多面体の歴史像」とは何を意味するのか。まさに、対象とする史料や方法論、視座に、高原の論文の独自性がある。
 

「記録」群は、以下の三分類で提示されている。
一つ目は、地元の中学生や「女性」たちの文集に収められた作文/綴り方などにみられる実践記録。そのような文集の編集・発行に携わった教師や女性たちのサークル運動の実践記録も含まれる。
二つ目は、公的な記録。米軍拡張反対運動の過程で提起された様々な裁判での証言速記録や、国会の委員会に参考人として出席・陳述した際の発言記録などである。
三つめが、ルポルタージュや写真など文化人・知識人・芸術家によって発表された作品、である。


以上、全く性格の異なる三種類の記録は、反対運動という集合的な実践のなかで生成された「果実」であるという点で一致する。つまり高原は、それらの記録を残した主体が反対運動と関係性をとり結んだだけでなく、「記録」をめぐる同時代/1950年代のさまざまな文化・思想・政治運動の文脈に置かれていた、ということの意味を重視する。

様々な主体の位置取りはあらかじめ決定され固定されていたわけではない。その主体位置の転換が生じた際の「感情・身体・情動的な揺れを示している記述や証言、作品」をとりあげることになる。
 

それらの多くが、歴史研究では「私文書」とみなされる史料群であるが、砂川研究においてこそ考察対象となりえたものや高原自身が発掘したものも含まれる。その意味におけるこの論文の独自性は、特筆に値するといえよう。


3 先行研究

先行研究は、大きく二つの潮流に分けられる。

第一は「運動の支援者に焦点を当てた研究潮流」で、砂川の実力闘争と、それを支えた外部の力の結集による「勝利」を強調するもの。

第二が「砂川という地域/反対同盟の内部に着目した研究潮流」である。

両者の違いは、砂川の反対運動への評価にも関係してくる。


「第一の潮流」――地元農民の実力闘争と支援団体の力による「勝利」を評価

第一の筆頭に挙げられるのが、自らも運動支援に関わった清水幾太郎の「砂川闘争」への同時代的評価である。
次いで、1960年に発表されたマルクス主義歴史学者・小山弘健の論文であるが、「地元農民の成長」と支援団体の力を強調する点では清水と共通する。しかし小山は、「外部団体」のなかでも全学連の闘いを最大の力として高く評価する。

さらに第一の潮流の三つ目としてあげられるのが、1979年に発表された政治学者・高畠通敏の論文である。彼の言う「革新国民運動」の総括のなかでも、「流血の砂川」をはじめとする大衆的実力闘争の主役とみなされたのは、全学連であった。しかし高畠通敏は、その現場で歌われた「赤とんぼ」に言及して、「砂川闘争」を、広範な国民的拡がりを持つ「革新国民運動」の一つとしてとりあげたのだ。
その点について高原は、「赤とんぼ」をあの状況で歌った/歌えたのは誰かという問題には触れられていないこと、また労働組合員が支援の中心となった1955年9月の「強制測量阻止」については書き落されていること――この二点を、看過できない問題だとみる。

四つ目としてあげられたのは歴史社会学者・道場親信の論文である。「「砂川闘争」の「勝利」をめぐる意味づけの闘争」という状況に対して、また「同運動を枠づける「国民運動」という視座」についても、再検討を促したとして高原は評価している。

その道場論文の特徴は、「東アジア冷戦体制という政治軍事社会システム」を見据えて、そのようなシステムの構築・作動に対する「反システム運動」としての意味を、「砂川闘争」に与えたことだった。そして、「この新たな視座から再発見されたのが、砂川と沖縄が「連帯」する姿であった」。
また道場は、運動を支えた原動力を「ナショナリズム」に求めようとしたが、その提起に対しては「郷土愛」である、という批判が出されていたという(次項で述べる第二の潮流の側からの批判であった)。

五つ目は「第一の潮流の最先端に位置づけられる」府中市美術館学芸員・武居利史の論文で、2012年に発表された。これまで支援者として注目されることのなかった美術家に焦点をあて、「「砂川闘争」を文化運動として捉え返すという視座を提供する画期的な試み」であった。砂川を訪れて作品を制作した美術家たちの足跡をとおして「美術家と砂川の地元の知られざる交流の一端が浮かび上がったのみならず、支援者に関心を寄せる第一の潮流と、砂川内部の動きに光を当てようとする第二の潮流が合流する地点を示すことになった」。

「第二の潮流」――地域史の視点から砂川の地域/反対同盟の内部に注目

第二の潮流に属する論文も5つ紹介されているが、これらは「第一の研究潮流によって形成された歴史像や歴史記述に批判的であることは一致している」。

地元民の姿が抑圧/忘却されているという共通の問題意識から、とりわけ地域史の視点に立って「砂川闘争」の再検討を行うものである。


その記念碑的な研究として、1968年に発表された歴史研究者・青木健一の論文がまずあげられている。測量中止という「砂川の勝利」から十数年後、「現在においても、反対同盟は少数となりながらも」、米軍と日本政府がめざした「拡張はできずにいる」。青木論文の関心は「この勝利をもたらし基本的な力とは何か」を検証することにあり、先の小山論文の「支援だけを勝利の原因とする」分析には、否定的だった。小山・青木両者の間で、「勝利」の意味内容が明らかに異なるのである。

高原は、青木が「宮崎派」と「勤労者組合」の階級的基盤などを分析対象とし、「砂川闘争の研究史上で初めて反対同盟を構成した人々のシルエット」を浮かび上がらせたことを評価する。「反対同盟関係者にも聴き取りを実施したのも特筆すべき点」だという。
 

第二の潮流の二つ目が、政治学者・明田川融の2000年発表の論文である。明田川は、反対同盟が主催・共催した集会の「決議」や「声明」を検討対象として、反対運動が原初的には、「先祖伝来の土地」「生活」といった価値や、憲法にもとづく「土地の保全」を掲げる運動であったことを指摘した。

さらに、砂川代表も参加した全国軍事基地反対連絡会議の議事録などから、当時の反基地運動が、「冷戦の論理」「安保条約の論理」に抗して「平和・独立の論理」「安保破棄の論理」を対置させていたことに着目した。反対同盟の理論的根拠の変化がうかがえるのである。


三つ目は、明田川の問題関心を発展させた歴史学者・松田圭介の論文で、2007年に発表されたものである。松田は「反対の論理」の「多様性」「発展性」を指摘したが、そこに一貫していたのは「郷土愛」であった、と結論づけた。先述の道場論文への批判であったが、両者の対立は、それぞれが依拠した史料の違いも一因ではないか、と高原はみている。
 

まさに「郷土」の実相についての分析を行ったのが、都市社会学者・吉見俊哉だった。2007年に発表された彼の論文が第二の潮流の四つ目にあげられている。

吉見は、宮岡政雄の『砂川闘争の記録』を史料として、米軍基地に「依存」する立川と、基地に隣接する「農村地域」砂川という構図のなかで、「農村的性格」や「多摩地域のローカルな文脈」を重視した。高原によると、砂川という「地元」を越えた「地域」という分析枠組について新しい視点を提示したといえるものだった。


五つ目として、第二の研究潮流の最先端に位置づけられたのが、『歴史評論』2015年2月号の特集「砂川闘争から60年――地域の視点から」に所収された6つの論文である。

なかでも『新編立川市史』の「砂川闘争」の時期を担当する「現代部会長」沖川伸夫の論文がとりあげられている。沖川は青木論文を発展させる形で、反対同盟「企画部」の検討を行い、非農家層の活動を明らかにした。地元の一次資料を発掘して、砂川闘争の内在的要因を明らかにするという段階の研究成果である。

「第二の研究潮流は、今後さらに拡がりと深みを見せていく」ものと期待される。


本研究の意義

 

以上のように、米軍立川基地拡張反対運動をめぐる先行研究は、「支援者」と「地域」という異なる二つの研究潮流から形成されてきた、と整理した上で、高原は、自身の研究が対象とするのは「支援者」と「砂川の地域/反対同盟の内部」という2つの領域を交差する主体の領域であるという。
 

その研究と博論執筆にあてられたのは2010年~2021年で、この間に砂川闘争55周年~65周年の節目があった。この期間に「当事者・関係者による語り直しが盛んにおこなわれ……記憶と歴史の継承が運動として取り組まれて」、それが今も続いている。

反対同盟の中心人物が存命していた時代とは異なり、今はその子どもや孫の世代である。数の減少は免れないものの、「現在でも活動をおこなっている少数の当事者・関係者は、反対運動の体験について、その生涯にわたる経験のなかに位置づけて語ることが可能となった」。彼らの「精神史」的な語りを聴き取り、その主題をめぐって対話をすることもできる。


出来事から60年以上が経過し、歴史化される段階であるからこそ歴史の継承という問題を考えるとき、「もっとも未開拓な部分が、反対運動に参加した個人の内面や思想的な検討であったことは、前述した先行研究からも明らか」である。「記憶から歴史へと状況が推移していくなかで、本研究もそのような時代の課題を背負って」いるのである。

 

 

これに続く連載関連記事一覧(2023年4月30日追記)

 

『米軍立川基地拡張反対運動の再検討』第一章 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

『米軍立川基地拡張反対運動の再検討』第二章 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

『米軍立川基地拡張反対運動の再検討』第三章 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

『米軍立川基地拡張反対運動の再検討』第四章 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

『米軍立川基地拡張反対運動の再検討』第五章 | 砂川平和ひろば Sunagawa Heiwa Hiroba (ameblo.jp)

 

 

 

目次

序章
1 本研究の対象と課題、目的、問い 
2 本研究の史料・検討素材と方法、視座
3 先行研究と本研究の関係性
4 各章の構成

第一章 正当・正統性:地元農家と「絶対反対」の論理
はじめに
1「絶対反対」と「不服従」の論理――1955年6月3日の「陳述」
2「絶対反対」と「不服従」の形成過程
3「農民の念願」と「反対同盟の精神」が語られるとき――1955年9月20日の「陳述」
おわりに

第二章 介入: 「基地問題文化人懇談会」高橋磌一の「砂川問題」
はじめに
1  砂川と出会う( 1955年 9月 13日、骨格測量初日)
2  砂川を語る( 1955 年 9 月 25 日、「歴史教育者協議会第七回大会」) 
3  砂川の教師と悩む( 1955 年 10 月 31 日、座談会「基地砂川の教育」) 
4 「仲間」を集う( 1955 年 11 月から 1956 年 10 月)
5  再び砂川へ( 1956 年 10 月 1 日から 15 日) 
6  砂川をつなげる( 1956 年 12 月、「流血の砂川」直後)
7  砂川を再想像する( 1957 年 8 月、「第三回原水爆禁止 世界大会」) 61
おわりに

第三章 包摂:「基地の教師」の砂川闘争 文集「スナガワ」・サークル運動・教研集会
はじめに
1  サークル結成にいたる「前史」
2  北多摩における教育実践の諸系譜と砂川中研究サークルの関係性
3  方法をめぐる対話と交流
4  マルクス主義的思考方法との緊張
おわりに

第四章 参加: 地元中学生/傍らで観る者たちの「砂川闘争」史 
はじめに
1「爆音」をめぐる中学生たちの諸問題意識 
2「傍らで観る」者たち
3「傍観者」から「参加者」への転回 
おわりに

第五章 表象: 写真家たちの「砂川闘争」 新海覚雄と向井潔の「作品」考察を中心に
はじめに
1「衝突」の写真 佐伯義勝「砂川」の考察から
2「顔」の記録――新海覚雄と向井潔の「砂川」
3  向井潔と新海覚雄の向井潔と新海覚雄の1956年10月
おわりに

終章
1  本研究の総括
2  本研究の貢献と残された諸課題
3  展望

参考文献一覧



博士論文審査及び最終試験の結果 
高原太一

「米軍立川基地拡張反対運動の再検討――「流血の砂川」から多面体の歴史像へ」
http://www.tufs.ac.jp/common/is/kyoumu/pg/pdf/327_Takahara_Taichi_shinsa.pdf