(3) 法廷闘争と「伊達判決」

 

 

 

 

農地を奪われると感じた時から、宮岡政雄はもう国のために土地を手放すことはすまいと決意していました。砂川の人々は、戦争のためにおとなしく農地を提供してきましたが、戦後わかったのは、その戦争が、欧米列強への無謀な挑戦であり、アジア諸国への不当な侵略だった、ということでした。

 

宮岡は、新憲法が保証する個人の基本的人権に対する意識を高め、砂川の基地拡張反対同盟・副行動隊長を務めながら、六法全書を買って法律の勉強を始めました。

そして、米軍基地のための土地収用をめぐって、測量隊が農地に入ることを阻止する法的手続きから、そのための実力行使やデモ行為で逮捕された人々の刑事事件、さらに土地収用そのものの有効性・妥当性を問う行政訴訟などに、懸命に取り組みました。

 

その成果のひとつが「伊達判決」でした。

 

砂川の反対同盟が、粘り強い抵抗によって土地測量を中止させることができた後も、基地内の測量は続きました。そこには、地元の農家が所有する借地も含まれていました。基地内に土地を持つ人々は、借地契約の更新を拒否し、むしろ土地の返還を求める訴えを起こしました。

 

そして1957年7月に、不当な基地内測量への抗議行動が復活しました。そのさなかの7月8日、デモ隊の一部が勢いあまって基地内に侵入してしまう場面がありました。米軍の警備隊や日本の警察がそれを見ており、その場で退却させられました。

 

ところが2ヶ月以上も経った9月22日、突然、そのときの学生・労働者23人が逮捕されました。うち7人は、日米安保条約に基づく行政協定の刑事特別法第2条違反で起訴されました。

こうして始まった「砂川事件」の公判は、立川地方裁判所で開かれました。

 

1959年3月30日、伊達秋雄裁判長は、米軍基地の存在が憲法違反だとして、被告人全員を無罪とする判決を下しました。

 

1959年3月30日付『朝日新聞』夕刊

 

 

検察は高裁を飛び越えて最高裁に上告。「伊達判決」は田中耕太郎裁判長によって覆され、地裁に差し戻されることになりました。

あらためて出された地裁での判決の結果、被告が罰金を支払って結審となったのです。

 

それからほぼ半世紀後、日本の学者らが発見したアメリカ公文書館の資料から、日本の司法に対するアメリカの介入、田中裁判長と当時の駐日アメリカ大使の密会、などの事実が明らかとなりました。

 

2008年4月30日付『毎日新聞』によると、田中はアメリカ大使と密会して判決前に砂川事件についての情報を提供していたこと、大使はアメリカ国務長官あての電報で、伊達判決が出た直後に自ら外務省を訪れて最高裁に跳躍上告するよう勧めたこと、などがうかがえたのです。日米双方の指導者が、60年安保前に伊達判決を無効化しようとしたことが明らかでした。

 

2008年4月30日付『東京新聞』も

米軍の存在を「違憲」とした伊達判決を 破棄しようと

アメリカが露骨な介入をした可能性を報じました

 

そのような違法な手段の影響を受けたことを知った「砂川事件」の原告らは、2019年3月、憲法37条の公正な裁判を受ける権利を侵害されたとして、国家賠償と謝罪を求める裁判を起こしました。

彼らの、司法の堕落との闘いは今も東京地裁で続いています。