第48振武隊
中島豊蔵 軍曹(20歳)
少飛12期
6月3日戦死
愛知県豊橋市出身


第48振武隊は昭和20年3月29日に明野教導飛行師団にて編成され、山口県の防府飛行場にて一式戦に乗り込み日本のみならず朝鮮・台湾・満州などで特攻訓練を行ってきました。
中島豊蔵 軍曹の事は「ホタル帰る」でも取りあげています。もちろんトメが可愛がった一人です。中島豊蔵 軍曹がトメに初めて会ったのは昭和19年の秋です。その時、知覧に滞在したのは10日ほどです。当時は中島豊蔵 軍曹は毎日のように富屋食堂に来てトメと親しくなり、トメも実の息子のように中島豊蔵 軍曹を可愛がったそうです。
しばらく知覧を離れていた中島豊蔵 軍曹は5月28日に予定されている第九次航空総攻撃に加わるため25日に知覧に再来。軍事用トラックで移動中に富屋食堂の前を通りかかった時、トメを見かけ、懐かしさのあまりまだ走行中のトラックから飛び降りてバランスを崩して転がり落ちて左腕をケガしてしまいました。そのケガは予想以上にひどく後日富屋食堂に来られた中島豊蔵 軍曹は真っ白な包帯を首から腕を吊りまだ治療中だったそうです。それを見たトメは「しっかり治してから出撃をしなさい」と言うと「大丈夫、命令が出ればいつでも行きます」と答えたそうです。6月2日昼ごろ中島豊蔵 軍曹が富屋食堂に来られケガのため軍の風呂には入れず梅雨の季節で汗臭かった。トメは中島豊蔵 軍曹を可愛そうに思い、
富屋食堂の風呂を沸かし、中島豊蔵 軍曹をすぐ風呂に入れてあげたそうです。中島豊蔵 軍曹の背中をトメが流しながら「中島さん出撃は何時頃ですか?」「明日にも命令が出るかもわかりませんよ」「そんな手じゃ操縦も出来ないでしょう、手が良くなってから出撃しなさいね」とトメがいくら言っても中島豊蔵 軍曹は「日本が勝つためには、自分が一刻も早く行かなければなりません」と答えたそうです。その少年飛行兵の固い決意の言葉を聞いたトメはとても涙をこらえ切れなかったそうです。「小母ちゃん泣いているのか」「ちょっとお腹が痛いのよ」と、トメは嘘をついた。「お腹が痛いのかい、涙が出るほど痛いのかい、それは良くないぞ俺の事など構わないで座敷に戻って寝てくれよ」そのいたわりの言葉にトメはよりいっそう涙が溢れてしまったそうです。これから死にに行くのに私の心配をしてくれる、この子達の心はすでに神様になっているんだろうね、とその時トメは思ったそうです。
中島軍曹は、翌6月3日出撃し不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけ出撃して行かれました。まさに闘魂の出撃です。その様子を見ていた整備兵がトメに伝え、トメは富屋食堂の奥で崩れる様に泣いたそうです。
仰ぎ見る
富嶽の重さよ
我が勤
苦心を重ねて死して果さむ
少飛十二期 中島軍曹
桜、散りゆけど
想いは散らん
知覧特攻の母 鳥濱トメ 孫
赤羽 潤より