満たされない感覚というのはいつもあって、でもそれを隠している。

はしたないと思われたくないから、遠慮する。見え透いた遠慮にならないように、無邪気に振る舞う。

幸せそうに、切実な苦悩を感じさせないように生きていようと決めたから、その意志が揺らぐことはない。でも、疲れてきてしまったな。

「気を遣っています」ということを悟らせる・悟らせられるということまで苦手なので、仕方がない。

コスパが悪い生き方をしてきたし、これからもきっとそうだ。私は私のために損がやめられないし、それを誇りに感じることもなく、卑下に卑下を重ねながら、しかし自分の価値を根拠なく確信して、ややこしく自分も他人もだましながら生きていくしかない。

他人のことに興味があるようでいて、自分しか見えていないのかもしれない。でもそれを他人に指摘されたくはないし、表面的には他人のことはよく見ている。

帰りたいのに、私に安息の地はない。私が観察している人々には、帰るべきかつ帰りたい場所はあるんだろうか。

妥協して生きていくことを否定できないが、妥協を妥協と思えなくなることを恐れている。

自分をちゃんとコントロールしていたいんだな。自分とは?

支離滅裂だ。自分の頭の中では、紐づけされていても、文章にしたらどんどん崩れていく。別にこれは私の頭の中だけの問題ではなく、この世がそういう構造をしているからだと思う。言葉は線的なのに、世界は立体的で、言葉では「同時」を表現できない。私の意志決定にはいつもその時の周りの環境はもちろん、今まで20年の経験が関係しているけれど、普通、いちいち人格形成の問題を引っ張り出しはしない。

説明に疲れてしまった。説明したところで、他人は「自分とは違うらしい」ということしか分かってくれないし、しかもそれを「十分な理解」に位置付けるみたいだった。

この世の人間のことごとくが、私という自我には何の興味もないんだなあと思った。親でさえそうなんだから、きっとそうなのだと思うし、実際、こうして誰が利用できるわけでもないただの文章に価値がないのと同じだ。

「そういうもんだ」と言われたくないな、と思った。ただ隣の芝生が青く見えているだけだったとして、私の世界では私の芝生は枯れていて、他人の芝生は青いのだから、まったく「そういうもの」ではない。(そういう雑な励まし方をしたり、私を利用して自分のかつての苦労を昇華しようとしたりするあなたもまた私に興味がないのですね、と思いながら。)

親や兄弟を除いて、私に積極的に人生のページを分けてやってもいいという人間がいないのだろうなあ、と思う。きっと、私が友達だと思っている人も、別に私より大事な人は山ほどいて、しばらくすると私のことを気にしなくなる。その時楽しく過ごせるというだけだった。諸行無常とはいえ、こんなに人間のつながりははかないものだったのかと驚くことしかできない。私がどれだけ大事に思って、もちろん思うだけではなく、連絡したり、時々会って遊んだりしても、その人にとってはうつろう人間関係の一つに過ぎないのだろうな。

人を見る目がないのかもしれない。同級生の何人かは、恋人ができていたり、結婚をすすめられたりしていて、なんだか人生のステージが違うんだなあと思った。私には、私を大事にしたく思ってくれる人間どころか、ポジティブな意味で気にしてくれる人間もいないというのに、これはもう芝生が枯れているどころではなく、土地が狭いとか、草という草が生えないとかそういうレベルの問題に思えてくる。

私の孤独感がどうしてこんなに育ってしまうのか考えてみると、それは私が幸せな風に生きているからだと思った。別に私が健気に生きていると言いたいわけではないが、弱みを見せられないのだ。

他人には「そんな些細なことで悩んでいませんよ。人と人とのめぐりあわせはそういうものですよね。仕方がないことです。私は私のペースを保って生きていこうと思います。おひとり様でも楽しく生きて行けそうですし。(明るく)」という姿を見せてしまうし、これは強がりとかではなく、きっと私に興味がない他人が私の事情を空気を読んで気にしなくていいようにという気遣いなのだが、文章にすると気遣いすらひねくれているように感じて参ってしまう。でも、普通考えて自分語りが始まりそうな気配がする話題ってできるだけ避けたいと思うし、私はこの気遣いは気遣いであると今後も言い張ると思う。

こういう無駄な気遣いのせいで出来上がってしまった理想の自分像と浅ましく欲深い実際の自分とのギャップに苦しむんだな。他人が接しているのは、本当の自分ではないのだ。自分に興味を持つ人間なんていないという考えが、より人を遠ざけているのだからもはや笑えてくる。でも、別に私が素の自分のまま、本当のことを話すようになったとしても人は私を遠ざけるだろうなと思うので、八方ふさがりである。

こういうのもどうせ、「他人より遠慮して空気を読んで我慢していい子にしている自分が、ありのまま我慢も何もない人間より軽く扱われるなんてどういうことだ!許せない!」という思考からくるもので、救いようがない。基本人を見下している。ただ、見下すだけではなく、同時に純粋に尊敬もするし、ただそういう事実があるというフラットな見方もするので私を軽い気持ちで笑ってほしくないなと思う。どうせ分からないくせに、「面倒そうだ」というだけで、「もっとシンプルに考えなよ!」と言われるのが分かりきっているし、それはとても腹立たしいので。

私は私が好き好んでこの自分になったわけではないであろうことを分かっているし、それが分かっているならなぜ改善できないんだという他人の考えも分かるし、他人が私に合わせてくれるわけでも、合わせてもらう権利があるわけでもないことは分かっていて、だからこんなに複雑に悩んでいるんだなあ。

こんなことは微塵も他人に共有しないので、日常的に地雷を踏みぬかれてしまうし、しかし別にだからと言ってその人に嫌だという訳でもないし、自分語りを始めるわけでもないので、地雷なんてあってないようなものなんだと思った。

善良な人間じゃないんだろうか。苦しい。

帰りたい。

考えれば考えるほど、自分の内側に目を向けるしかなく、でも別に私の内側って簡単に意識改革ができるほど単純でも柔軟でもないなあと思った。

しかたがないのだ。仕方がないことを、どうにかしようとすることができなくなっている自分に悲しくなった。

この世界に合わないのかもしれない。私だけが、どういう観点からも欠陥品で救いようがないし、そもそも他人の視界に入ることができないし、その権利がない。

どこにいっても望まれない。私のできることを望まれてもそれは利用でしかない。外野に「宿題写させて!」と頼まれるだけでもありがたいことじゃないか!と言われたくないし、その残酷さに気づけない考え方に絶望するしかない。がむしゃらになれない。

幻想にとらわれているんだから、しかたない。いるだけで、あるがままを認めてもらえるらしいという幻想。もはや毒でしかない。

特別ではないのだから、つつましく生きたらいいよ。たまたま何も特別ではなく、たまたま愛されず、たまたまそれを悩み始めてしまっただけです。そんなことはもうとっくに分かっていて、他人にその思考の順路を雑になぞられるのも耐えられない。

絵にかいた餅にそれじゃ足りないなあ、と文句を言うみたいな滑稽さがある。全然笑えない冗談だ。

帰りたいなら帰ったらいいよ。突き放すのはべつに他人だけじゃない。私すら私の味方ではない。ただ、公平そうであるというだけだ。

もう何を言っても、何を書いても、無駄で、報われなくて、整理もされず、不安は不安のまま。ただ、私が単純なわがままではなく、おそらく他人より考えて生きていると思われるという証拠を残す、言い訳みたいな、居心地の悪い気持ち悪い時間でしかない。どうせ。