高校に入学して
自転車で13キロほど走り登校していた。
住んでいたのは泉区の泉ヶ丘で
市立の仙台高校に
通い始めたのだった。
仙台高校といえば
ちょっとばかり山の上にある。国見が丘のあたりである。
遠いのだ。
学校の近くに駅はある(『国見駅』)のだが、
泉ヶ丘から行くにはバスなどで地下鉄の泉中央駅に行って北仙台駅で仙山線に乗り換えることになり、なんやかやで時間がかかる、
むしろ自転車のほうが早く着くのだった。
雨の日などは自転車は大変なのだが、
雨の日は当然バスや電車も混むわけで、
それに間に合うように早起きなどできないのだから
雨の日も自転車で通っていた。
さて
通学する時間帯はもちろん朝である。
そして自転車で長い距離を走るので
当然毎朝、たくさんの通勤通学の自転車とすれ違う。
違う高校の学生もいるし、中学だっている。たくさんのスーツ姿の会社員もカジュアルな服装の大人もいる。
様々なひとたちが自転車をこいでいる。
わたしは通学の40分か50分の間、(最初の頃こそ、同じ中学だった中沢と時間を合わせて通学したりしたが)イヤホンで音楽のテープを聴くなどしていた。
ある朝、
たぶん
わたしはポエジーな気分だったのだろう。
毎朝ではないが
すれ違うたくさんの自転車のなかに
まれに自転車のライトをつけている人がいた(その頃はセンサーでつくタイプなどはほとんどなかった)。
そして
朝にライトをつけているひとはほぼ100%、自分がライトをつけていることに気づいていないのだな、
と
わたしは思った。
それである日
わたしは心のなかで
『朝、自転車のライトがついているひとは、自分では気づいていないが、天使なのだ』
という
仮説を立てたのだった。
(わたしなんとポエジーな高校生だったのか)
そうすると
ライトをつけているひとをみるたび、
『うふふ』
というかんじに
ふわりとしたおかしみを
感じるのだった。
そういう仮説のもとに
朝の通学路世界を見渡せば
意外なひとが
天使だったりするのだった。
(総じておっちょこちょいな人が天使である率は高い)
時には
途中で
わたしのライトも(ゆうべ夜つけたまま)ついていたことに気づくこともあった。
ときどきはわたしも天使なのだ。
それは
まったくもって
わたしが内心思ってるだけの
仮説
というか
遊びなのだが、
なんだかもう
それは
わたしのなかで
定着しているようで
今の、
東京の暮らしのなかでも
朝や昼間にいらぬライトを点灯させた自転車のぬしをみる度、
その天使の顔を確かめたくなるし
やはり
ちょっとだけ
顔や気持ちが
ほころぶのだった。