こんばんは!

 
アメブロ更新頻度が少な目です。もっとたくさん伝えたいことあるんだけど追い付かない😅
 
毒親育ちだけど、こどものころ欲しかったお母さんになれたリュカです☀
 
このブログは、一番苦しかったこども時代の自分に書いている手紙です。届くといいな。
 
 
猫猫猫猫猫猫猫猫猫
 
成人して結婚して、結婚後、いろいろなことが急激にわかってくるのよ。
 
一番大きかった気づきがあります。
 
ものすごいシンプルなことですが、
 
「お母さん」は、お母さんである前に一人の人間であること。
 
お母さんてこと抜きにして、あの人とお友だちになったり、親しくできるかどうか、てことをふと考えて、ぜーんぶ迷いが吹っ切れるときが来た。
 
あの人を人間として好きになれるか?
 
親しくしようと思うか?
 
無理っす。
 
無理、絶対無理です。
 
親しくなるどころか、たぶん、接触も避けるレベルです。
 
普通に出会ってたら、
 
「これアカンやつや」て避けてるよ絶対。
 
 
こどものころは、「お母さん」は偉大な権力者、権力者と言うか絶対君主だったから、「人間としてどうか」ということを考えたこともなかった。
 
でも、「お母さん」ていう肩書を取ってしまったら、そこには、「絶対に仲良くなれない、徹底的に避けたい人」がいただけでした。
 
 
 
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「お母さん」ていいよね。人間を一色に塗りつぶすインパクトのある存在。
 
お母さん、てだけで、社会では一人前として扱われるし、こどもが多少でもお勉強できたり運動できれば、それだけで承認される。
 
たとえやっていることが「お母さん」とははるかにかけ離れたものでも、「お母さん」てだけで子供に対して絶対的な権力者になれるし、社会でも市民権を得られるわけです。
 
でも、一方で、「お母さん」ていう肩書を除いてしまったら、何が残るかというと、
 
わたしの場合は、彼女に対して、何も残りませんでした・・・。
 
親しみ皆無。なつかしさ皆無。話がしたいとも思わない。
むしろ、どうやって一生会わずにいられるかを必死で考えるレベル。赤の他人のほうがまだ親しみが湧く。
 
一体どんな親子だったんだ、と思われるかも知れませんが、それは、いろいろあります。
 
彼女は、こどもの存在を憎んでいた、こどもだけでなく家族の存在も激しく憎んでいた。
 
それに付随していろんなことが起きるわけです。
 
彼女は心底、周囲に誰もいなくなることを望んでいたことが今ではわかる。家族が居たらギャンブルの邪魔になるし、利己的消費生活が邪魔されるからね。
 
それでも家族と一緒に居たのは、母親であることの社会的な身分」のためであって、それを除いたらただの怠惰な脱落人間であることが自分でわかっていたからでしょう。だから「母親」にしがみついていたとしか思えない。
 
今、彼女の周りには誰もいない。
 
ある意味、彼女の望み通りになったわけです。ちょっと計算違いなのは、気ちがいじみた消費生活のため、九桁に届く財産がすべてキレイにガラクタに置き換わり、一文無しになったということだけです。今は国の慈悲にすがって生活してる。
 
 
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「母親」という肩書を除いて、一人の人間として見た彼女はそんな感じです。
 
わたしは、この認識を持つことによって、「母親の呪縛」から解き放たれた。
 
一人の人間として見て、とうてい親しくなれない人と、たまたま「親子」だっただけです。
 
で、お互いに「ただの人間」として向き合うと、「地球の裏側の人ほど理解し合えない他人」がそこにいるだけです。
 
 
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一方で、わたしが今持っている家族は、というと、
 
息子二人は、人間としてもすごく好きです。
 
長男は、一言でいうと、「人格者」です。どこにいても誰といても、周囲を思いやり、自分も大切にし、バランスが取れている人。
 
どう考えても「魂の年齢」はわたしよりはるかに上です。
 
弟も大好きです。
 
天真爛漫で無邪気で、言うたりしたりすることに「可愛い気」がある。
 
いつも友達に囲まれて、「お泊り会」にひっぱりだこです(小学生があちこちの友達家庭からお泊り会にそんなに呼ばれることってあり得る?結構珍しいことだと思う)
 
剣道の稽古にも誘われまくる。普通は、他の団のこどもは誘わないものなのに、弟はご指名で「ぜひ来て」て先生に言われたりする。
 
わたしは人間として、二人のこどもが大好きで、尊敬している。でも、こどもはわたしのことを人間としてどう思っているかなあ。
 
母親としての肩書が無かったら、もしかしたら仲良くなれないて思われるかも。
 
二人とも、わたしよりも人間として「格上」な気がする。
 
実はわたし、我が子をものすごく尊敬しているのです。
 
人を尊敬するのに、年は関係ないからね。
 
 
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毒親育ちではあるけども、わたしがごく普通の感覚で家庭を持てたのは、慕わしい従妹のおかげもある。
 
夏休みとかはほんとに従妹の家に入り浸っていた。おばさん、迷惑かけてごめんね。
 
近所の友達も、優しかった。どう考えても、両親よりも従妹や友達のほうが慕わしかった。
 
父親は母親の言いなり(というか、母親がマジキチ過ぎて、言いなりにならないと家庭内がめちゃくちゃになる)だったし、結局二人でギャンブル生活を最優先していたから、わたしが親戚の家に入り浸ったり、友達とずっと一緒に過ごしているほうが、彼らには都合が良かっただろう。
 
今となって思うのは、なぜ彼らは、心底邪魔なこども二人をどこかに置き捨てて、自分たちだけの生活を優先しなかったのか、ということだけ。
 
 
でも、姉(彼女にとっては実の娘)が死の病に取り付かれても、彼女は自分の彼氏とイチャイチャするほうを選んでいたから、結局自分の望み通り、「最後まで家族は邪魔である」ことを貫いたので、これはこれで立派?かもしれない。
 
次に生まれてくるときは、どうかこどもを持たず、思う存分好き勝手できる人生を選んでほしいです。
 
でもね、「母親」ていう身分が無かったら、あなたのことを相手にする人が世の中にいるかどうか、疑わしいと思いますよ。
 
 
今回は、過去の自分への手紙というより、「母親」という肩書だったあの人への手紙みたいになってしまいました。
 
 
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このような個人的な内容を、わかりやすく書いた記事がコチラです。
 
 
母親でのこどもでも、「人間対人間」です。
 
一人の人間としてこどもが親を評価するとき、虐待の連鎖は断ち切れますし、伸び伸びと自分の子育てを行うことができるようになります。