法正尻遺跡は、福島縄文のキー遺跡となっている。何かにつけてちょくちょく出会う遺跡だった。なので前々から気になっていた。で、2024夏の企画展『縄文DX -貝津・法正尻遺跡と交流の千年紀-』@福島県立博物館でついに邂逅(♪!) その勉強メモ;

 

 

 

追記(2024/08/07);3/5までメモしたところで以下の貴重な文献に出会えた(自身がもっとも知りたかった法正尻遺跡のムラの形態について詳細に検討している逸品♪!それに基づき加筆修正をした) 

本間宏・山元出・河西久子・武熊野の香, 2022『縄文中期法正尻集落の再検討』 福島県文化財センター白河館研究紀要第20号
-開館 20 周年記念号-

 

 

 

 

 

1.経緯・背景

  • 1981年、磐越自動車道建設に先立つ地表表面踏査で確認され、1988 ~ 1989年にかけて発掘調査を実施。

 

法正尻橋;磐越自動車道の磐梯山SAから徒歩2分ほど。 遺跡は自動車道に削平されて消滅。

 

 

 

  • 縄文前期末の大木6式土器などの遺物や、縄文中期の環状大集落と土坑群の遺構が検出された。 
  • 南東北を代表する大木7~10式土器が大量に出土し、うち855点が国指定重要文化財に指定されている。

 

 

 

2. 位置・地形・地質

  • 本遺跡は,北側 7~8kmに磐梯山 (標高 1,819 m)及び猫魔山(標高 1,404m),南方約 3kmに猪苗代湖が広がる翁島丘陵地の標高 600m前後の場所に位置している。

  • 翁島丘陵は、磐梯火山で約4.6万年前に発生したセントヘレンズ型の山体崩壊の産物である翁島(おきなじま)岩屑なだれ堆積物よりなり、典型的な流山地形を示し、多数の小丘陵や間の沢筋や低湿地域が複雑に分布している。

 

 

黄緑/緑;平地(標高黄緑>緑),橙;小山・丘

 

 

 

 

3. 法正尻遺跡の変遷; 縄文中期(大木6式 ~ 大木10式期)

 

 

 

 

3-1. 大木6式期; 遺構は土坑を確認したのみ、住居址は未確認

 

 

 

 

3-1-① 住居址・土坑

  • 706土坑のようなやや大型のフラスコ状土坑も存在することから、未調査区を含めた範囲に大木6式期の居住エリアが広がっ ていたことが推測される。
 
 
 
  • 法正尻遺跡西向き斜曲裾部,夕~ツ 88G付近には黒色土に挟まれて,沼沢火山の火山灰(沼沢パミス/NP)が純層をなして堆積。この火山灰の上部に堆積する黒色土からは多量の大木6式土器およびその併行土器が出土している。火山灰下部に堆積する黒色土からは,何等遺物は出土していない

 

 

 

 

 

 

3-1-② 大木6式土器

大木6式土器;胴部が球体状をなす深鉢で,沈線文が施される。口縁部下端と胴部上端に沈線文を施すもので,胴部には文様帯の中心に渦巻文を描き,その間に重層する斜行沈線で1単位の山形文を描いている。口縁部には,胴部と対象をなす山形文が描かれている。 沼沢パミス(NP)の直上でそれに密着した状態で出土している。 

 

 

 

 

大木6式併行 北陸方面の影響; 胴部が円筒状をなし,頸部がラッパ状に外傾して開き, 口縁部が「く」の字状に屈曲する深鉢である。 口縁部には,小突起が付き,文様は粘土紐を波状・斜行させて施している。 頸部には,粘士紐が横位に5条施されている。胴部は,三角文を上下交互に施して表された鋸歯文で,上下に区画されている。胴部の文様帯の中心には,沈線を重層させて円形文を描いている。 胴下部の文様帯には,三角文が加えられている。

 

 

 

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沼沢パミス/NP 5,500年前(縄文前期末)の沼沢火山の噴火により噴出した白色火山灰および軽石。 

 

会津坂下町 立子沼道下遺跡で見る 沼沢パミスの例

大木6式古段階深鉢(立子沼道下遺跡); 沼沢パミス直下より出土。

 

 

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3-2. 大木7a式期;住居址7軒、土坑19基

 

 

 

3-2-① 住居・土坑

  • 本期に比定される住居跡は 5軒だが、いずれも遺存状態か悪いため詳細は不明。調査区域東部と西部端に分布。

 

  • 住居址28・43は、床面直上出土土器に大木7a式期のものが認められる。
  • 住居址101の場合は、大木7b式期かそれ以前の構築と考えられる415土坑よりも古いという重複関係に注目して判断。
  • 調査区西端付近の住居址46・36は、こ の一帯に密集する土坑群と関連する居住施設と考えられ、住居址46については、大木6式期に遡る可能性もある。
  • 調査区東端付近では、本期から大木8a式期にかけて8基の住居跡が重複している。古い方から新しい方への順を矢印で表記すると、住居址56→ 54・55→ 50・52・53→ 48→ 47とな り、住居址54・55までが本期に相当。
  • 出土土器から見て、調査区西端付近の遺構群は本期の中でも古く、東端付近の遺構群は新しい可能性が高い。上記の重複関係を勘案すると、本期の住居跡群は、住居址46・136 →  28・101 → 43・54・55という3階梯以上の変遷を遂げた可能性がある。
  • 一時期における住居軒数は2~3軒程度となり、散漫な分散型集落の様相を呈していたと推定。

 

54号住居址(SI 54); 周壁及び柱穴と見られる小穴の配列から,東西が長い楕円形状を呈すも のと推測される(長径 6.6 m, 短径 5.Om)。 周壁は急傾斜で立ち上がり, 壁高は最大 37cm。 住居中央部の床面に一部貼床(長さ3m x 幅1.5m)。 炉は地床炉で,遺構中央部の貼床上面から検出された(46x 55cm, 焼土の厚さ 2cm)。

 

 

 

 

  • 土坑に注目すると、その形態的特徴は、西と東で大きく異なる。調査区中央から東側には、本期に比定できるフラスコ状・ビーカー状の断面形を呈する土坑が存在しない。今後の検討課題。
  • 541土坑;土坑墓の可能性を有するものである。土坑内には小型の完形土器と2か所の石器ブロックが存在した。石器ブロックには、石匙(未成品を含む)・スクレイパー・剥片が含まれ、石匙以外はすべて打面と主要剥離面を残すもので構成されている点に注目。

 

 

 

 

3-2-② 大木7a式土器

大木7a式深鉢 @54住; 口縁部が複合口縁状を呈する深鉢である。 胴下半部から口縁部まで,緩く外反して開く器形。 口縁部には 4単位の突起が付けられる。この内,対面する 2つの突起は,左右非対象の突起 2つで 1単位を構成。これら突起を頭とした蛇体文は、同時期の中部高地で主体をなす勝坂式と呼応しているものと解釈される。  胴部は垂下する Y字状の隆線で縦に4区画している。この区画内には隆線に沿うように沈線文が施されているが, この沈線は一部で C字状を吊したり, 円形文を描いたり,短沈線・刺突文化したりとバラエティに富んでいる。さらに, これらの沈線が突出する部分には,彫刻的な三角文が付されるものが多い。 

 

 

 

大木7a式深鉢: 底部から口縁にかけてコップ状に緩やかに外反する器形。口縁部に2本の流体を巡らせ、そこに縦の刻み目を施文している。2つの隆帯間を4単位の小さな橋状把手を貼付している。 胴部には斜縄文の地文、橋状把手の直下に櫛状工具で6本の垂線を降ろし4単位に区画している。胴部の各単位の上部に連続刺突文をアーチ状に施文している。 口縁の刻み目文や連続刺突文は、関東の五領ヶ台式の特徴でもある。

 

 

 

(2/6)に続く