2024/06/15(土)、一の沢遺跡出土品展@山梨県立考古博物館に行ってきた。  同日の中山誠二館長(南アルプス市ふるさと文化伝承館=みなでん)による講演会『いっちゃんとわたし -5千年後の運命の出会い-』も聴けたので本遺跡について多くを勉強できた。 そのメモ; 

 

 

  • 笛吹市境川町の緩傾斜地に広がった縄文時代中期を中心とした大集落遺跡。
  • 4号住居址、56号土坑から発見された土器群が優品で、1999年には一括で国に重要文化財に指定された。 重文指定の理由は;① 中央高地の中期中葉の井戸尻式(勝坂様式)土器の代表的資料であること、② 土器の細部に亘る浮き彫り的技法を駆使した文様や、均整のとれた造形が特に優れていること、③ 生活に密接した石製品が比較的多く出土し、当時の植物採集を中心とした生業活動を翌示していること。

 

 

 

 

1. 発見のきっかけは笛吹川農業水利事業

  • 1971年、広瀬ダムに貯水された笛吹川の水を用いて甲府盆地の東半分(甲州市、山梨市、笛吹市、甲府市、中央市)を灌漑するため周囲の山麓をグルリと巡る送水パイプ網の埋設工事が行われた。 その際に、高位段丘面上に多くの縄文遺跡が発見された(安道寺遺跡 & 一の沢遺跡 他)。

↑Mapオレンジ色エリアが灌漑用水の受益エリア。桃、ブドウ畑の広がるエリア♪! で、偉大な縄文遺跡が相次ぎ発見 (^-^)v

 

 

 

1-1. 安道寺遺跡

  • 1976年、本水利事業の確認調査で甲州市重川水系に発見された縄文中期の遺跡。
  • 県立考古博物館常設展示の目玉の一つ、曽利式長胴甕展示の中央に据えられている4単位の搭状突起が付く長胴甕は、ここから出土。
 
 
 
  • 中山みなでん館長は、学生時代授業をさぼって本発掘調査に参加していたそうです。 この土器出土の機会に立ち会えたことは教室の学習では絶対得られない貴重な経験だったと思います (^-^)
 
 
 
1-2. 一の沢遺跡
  • 1983年10月、この灌漑用送水パイプ埋設に伴う緊急発掘として山梨県埋文センターが境川町小黒坂地域を調査。
  • 縄文時代中期中葉の住居址、土器(藤内式、井戸尻式)、土偶などが確認された。中期の遺跡が多い山梨県だが、井戸尻式期のものは少なく「山梨県の縄文文化を考えるうえで、空白だった時期が埋まった」と評価された。

 

※ 写真左に桑畑が見える。私の故郷も一面桑畑だったが、1972年頃に全て削られ姿を消し、家の隣にあった蚕糸試験場もなくなった。 1971年着工のこの送水パイプ埋設工事と日本の養蚕業の終焉は繋がっているのだろうな。養蚕からフルーツ王国へ・・・( ・ω・)

 

 

 

  • 中山みなでん館長は、本講演を前にして少し調べてみたところ1冊の古いファイルを見つけ出したそうです。その中にファイルされていた貴重な当時の新聞記事。

 

 

 

 

2. 一の沢遺跡 詳細

2-1. 位置

  • 本遺跡は曽根丘陵上の小黒坂地区にあり、東側に狐川が流れている。狐川左岸には縄文時代集落遺跡や古墳時代後期の群集墳など多くの遺跡が広がっており、一帯が良好な生活環境にあったことが伺える。
  • 一の沢遺跡からは甲府盆地を一望することが可能であり、背後には奥深い御坂山地を控えている。狐川水系の豊かな水利や御坂山地のもたらす恵みを背景に一 の沢遺跡は拠点集落と成り得たと考えられている。

 

 

 

 

↓;今回の中山館長講演会々場となった山梨県立考古博物館 風土記の丘研修センターから一の沢遺跡方面を望む。

 

 

講演会後に遺跡を訪問。

 

 

出土遺物は国の重文指定なのだが指定史跡にはなっていない。なので説明板など何もない( ・ω・)  ↓;車が停車している地点は第3次調査区域西のY字路脇。北に甲府盆地を見渡す。

 

 

↓;第2次調査地点付近から南の御坂山地方面を望む。一の沢遺跡が扇頂部に位置していることが見て取れる。

 

 

 

 

2-2. 発掘遺構と出土遺物(第2次調査区)

  • 1982年10月の第1次調査から2009年1月の第11次調査まで計11回の発掘調査を実施し、縄文中期の住居址56軒、151の土坑をそれぞれ検出している。
  • 細長い調査区域の制約上、ムラの形態を把握するのは難しいものの、中期中葉の集落域後葉の集落域の時期の異なる2集落が推察され、住居群は環状を呈し、土坑はその内部に集中する。
 
 

 

 

 

  • 中期中葉のムラを土器編年で区分するとI期(諸磯b~c式)からV期(称名寺Ⅱ式~堀之内I式)の5段階に区分可能。
  • 井戸尻 Ⅲ式期の住居址は4軒確認されている。 この4軒は、本遺跡のように明瞭な距離をおいての位置関係にはなっていないが、大きく西に1軒、北に3軒とに分かれており、 調査区域外を考慮すれば環状を呈すると考えられる。 
  • 土坑群は、環状の住居列より内側の空間に営まれるが、住居列の内側でも、比較的住居址にちかい部分に同心円状につくられており、 30m程の土坑群空白域(広場)が想定される。

 

 

 

2-2-① 11号住居址(藤内式期); 踊る人体モチーフ

  • 4号住居址に切られている。南半は調査区域外。楕円形を呈する住居址で短径は5.3m程度と推定される。
  • 床は炉付近も含めて、軟弱な部分がほとんど。確認に手間取り壁は10~20cmを残すのみ。5本柱穴と推定され3柱穴が確認された。 

 

 

 

  • 本住居址から出土した土器は全て覆土からの出土で床直は一点もない。

 

 

 

 

藤内式深鉢。いわゆるミミズク把手を有する。 口縁下~底部屈折部まで全面が区画文帯となり 、図示できなかったが、人体 文モチーフがみられる。 口径24.3cm、 器高44.5cm、底径15.3cmを測る。 赤褐色を呈し、胎土には砂粒を含み、雲母が目立つ。 焼成良好。 内面下半が黒変している。

 

 

 

 

(左)藤内式深鉢。 口縁がやや屈曲する器形で、緩い屈折底となる。1単位の小突起を有する。全面に縄文が施される。口 径24.6cm、器高41.8cm、底径14.8cmを測る。褐色を呈し、胎土には砂粒を含む。 焼成良好。 内面下半の底部にちかい部分にススが付着。

(中)藤内式深鉢。 1単位の突起を有する。口縁下に直線と波状の隆帯で区画した文様帯を形成し、胴中部以下は、やはり 隆帯による抽象文帯を形成している。 底部は弱い屈折底となる。 口径20.5cm、器高39.5cm、底径10.7cmを測る。褐色を呈し、胎土には砂粒が多い。焼成良好。上半部は非常に丁寧に磨かれているが、 下半は雑で、とくに外面は、形成時の指頭痕が無文部に残っている。 また内面下半にはススが付着しており 、 外面上半が黒変している。 

(右)藤内式深鉢。 文様構成は (中)に酷似する。 ただし、胴中部以下の文様帯には、縄文を施し、文様空白部を埋めている。また、器形も類似する。 やはり、外面上部の磨きは非常に丁寧である。 口径23.5cm、器高46.4cm、底径14cmを測る。内外面のスス付着状況、黒変状況は(左)と全く同じ。 褐色を呈し、胎土には砂粒を含む。 焼成良好。

 

 

 

 

  

2-2-② 4号住居址(井戸尻Ⅲ式期);土偶のいっちゃん

  • 調査区の制約から、北半分だけの調査。確認部分の最大幅6.1m。壁高は比較的深く掘り込まれており東側50cm、北側30cm、西側50cm。床は極めて軟弱。中央部に一部焼土。調査部分では炉は未確認。

 
 
  • ↑ピンク丸は床直(4号住居址に実際に縄文人が生活していた時期に廃棄された)で発見された土偶の『いっちゃん』 うつ伏せで発見された。写真映えするように顔を上向きにして記録写真を撮ろうかと思ったそうです(しなかったけど(^-^))
 
 
 
典型的なアーモンドアイ。「お・・・」って感じで見つめてくる(^-^)  頭の後ろには再生の象徴の蛇。
 
いっちゃんは考古博物館のマスコットキャラクターです(^-^)b
 
 
 
  • 4号住居址の覆土のほぼ同一レベルからおびただしい数の井戸尻Ⅲ式期の土器が出土。 当時、山梨県内での井戸尻式期の土器の出土はほとんどなく、一の沢遺跡での井戸尻式期の土器出土は『縄文の空白期を埋める遺跡』として大いに注目された。
 
 
 
刃面突起の付いた井戸尻Ⅲ式深鉢。「4単位突起であったが、耕作時に破壊されて2単位のみ残ったのだろう」とのこと。

 

 

 

井戸尻Ⅲ式浅鉢

 

 

 

胴部に膨らみをもつ大型の深鉢。 口縁部に2個突起が現存するが、おそらく、4単位の突起が存在したと思われる。 口径42cm 、 頸部径36cm 、 現存高59 cmを測る。 各突起部から隆帯が垂下し、 頸部の隆帯に連なる。 頸部隆帯と胴下半の隆帯によって中部文様帯が形成され 、中帯内はやはり隆帯による区画がなされるが、この区画は人体文モチーフとも考えられ る。 暗褐色を呈し、 胎土には砂粒が目立つ。 焼成は良好。

 

 

 

 

2-2-③ 2号住居址;(称名寺式期の柄鏡形敷石住居址)

  • 山梨県内では稀な柄鏡形敷石住居址を検出、大いに注目を集めた。

本住居址は、極めて浅い部分に構築されており、表士下30cmで床面にあたるため、北側が耕作によってすでに破壊されていた。六角形を呈する居住部と、方形の入口部をもつ柄鏡形敷石住居址である。主軸は北西ー南東入口部は北西を向く。居住部は、ほぽ中央に石囲炉があり 、六角形の一辺1.8 m程度と推定される。 また入口部との境界には、幅50cmの板石を立てている。入口部は 1.8m x 1.4mの方形を呈するが、両長辺には石を敷き、長辺を結ぶ部分には、板石をハの字状に置いている。ハの字内部には石が敷かれていなかったと思われる。敷石には石英閃緑岩の板石を用い、最も大きいもので90cm X 50 cmを測る。

 

 

 

 

 

 

(2/2)土坑編に続く・・・

 

 

 

【番外】

奥多摩、柳沢峠から。