(1/2)からの続き

 

ガイダンス館; ※ 展示内容は梅ノ木遺跡@北杜市に劣るかも。展示内容のGrade Upを期待したい( ・ω・)

 

 

 

2. 西鹿田中島遺跡の発掘

2-2. 爪形文/多縄文系土器・住居址・土坑・他エリア

 

 
 
 
2-2-②. 集中部 B (爪形文土器/13,000年前)
  • 直径3m程の範囲から、約200点の爪形文土器片が出土。200点の土器片は2~3個体にまちまり、土器の数も少ないため、土器を使って煮炊きをした場所だと解釈された。
  • 集中部Bでは底辺の長い三角鏃も出土している。

 

 

 

 

 

2-2-③. 集中部 A (多縄文系土器/11,000年前)

  • 直径10mを超える範囲で700点を超える多縄文系土器(表裏縄文)が出土。 この集中部には直径3m程の土器片が特に集中する場所が2カ所あり、それぞれに特定の土器がまとまっていた。
  • また、石鏃、石斧等も出土。

 

 

 

 

2-2-④. 集中部 D (多縄文系土器/11,000年前)

  • 多縄文系期の住居址4軒、多数の土坑や擦り石を集めた集石遺構などを検出。
  • それらの覆土から多数の多縄文系土器が出土。

 

 

  • 11号住居址; 長径3.8m、短径3.2m、深さ25cmの落ち込み。炉や柱穴は見つかっていないが、住居址の可能性。薄手の爪形文土器や多縄文系土器、石鏃の政策に関係する未成品や石クズが見つかっている。7号住居址と重なり合って発見され、覆土から11号住居址が新しいことが判明した。縄文草創期の住居址が重なり合って発見された例は、これが本邦初

  • 11号住居址の覆土から出土した木炭のAMS年代測定から較正年代11,000年前が得られている。
 
 
 
  • 11号住居の復元; 縄文時代草創期の遺構遺物集中区において、継続的に 4 棟作り替えられた住居のひとつであり、地面を掘り込んでいる(深さ25cm)ことから、移動する仮小屋のようなものではなく定住のための住居と判断される。 縄文時代草創期の住居のあり方として、移動採集から定住に至る過程の過渡的な構造を表現する。 移動採集民の住居は、北方アジア諸民族にみられるように、平地にテント式小屋組を建て、樹皮や獣被で覆う構造と考えられている。本遺跡の縄文時代草創期の住居跡は浅い擂り鉢状の竪穴であり、縄文時代中期以降に見られるような垂直壁で深い竪穴とは様相が異なる。 上部構造においても中期以降に想定されるようなものではなく、さらに初源的なテント構造を基本とすることが妥当と考えられる。
 
 
 
 
  • 植物珪酸体分析; 11,000年前に堆積した11号住居址の覆土で植物珪酸体分析を実施したところ、寒さと乾燥に強いミヤコザサの珪酸体が確認された。13,000年前の爪形文土器が出土した集中部Cにおいて多雪寒冷のチシマザサの珪酸体が確認されている時期と比較して環境が温暖・乾燥化に変化していることが判明した(現在よりも若干寒冷)。

ミヤコザサ線; ミヤコザサの植生限界線。積雪50cmラインと一致する。これより以西、以北の多雪地域ではチシマザサがミヤコザサにとって代わる。

 

 

 

  • 57a土坑; 長径1.7m、短径1.4m、深さ30cm。薄手の爪形文土器や多縄文系土器が見つかった。土器付着のおこげにAMS年代測定を実施し、較正年代11,000年が得られた。土坑の底で径90cm、深さ40cmの57b土坑が新たに見つかり、ここでも土坑の重なりが確認された。

 

 

 

  • 8号集石; 木の実などをすり潰した磨り石が1か所に集められていた。本集石は、ローム層漸移帯の直上より発見されている。また、ローム漸移帯中には遺物はないことから、縄文草創期はローム漸移帯上位の黒ボク土層からはじまると解釈される。

 

 

 

 

 

 

 

ここを訪問せずに爪形文は語れない・・・・かな(^-^)

 

 

 

 

 

 

 

歳時記; 同日八ッ場ダム道の駅で撮影。今季初ツバメから2週間、ペアができたようす。 元気なややこを産んでください(^-^)