この疑問をもったのは、田名向原遺跡(相模原市/20,000年前の後期旧石器時代第3~4期の遺跡)を訪問したときのこと。

 

旧石器ハテナ館(田名向原遺跡学習館)の展示(↓)にあった『神津島を除く中部関東地方全ての産地が確認』

あれ?神津島ないの?・・・( ・ω・)

 

 

① 太古の昔から神津島産の黒曜石が流通していたことはよく聞く話。けど、それは縄文時代からなのか? 後期旧石器時代人は使っていたのか or not?

 

で、神津島の黒曜石について調べてみた。

 

②『なぜ2万年前の田名向原遺跡の黒曜石に神津島産がなかったのか?』についても獏とはしているが自分なりの作業仮説が見えてきた(^-^)v

 

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①の答え『神津島産の黒曜石は、縄文時代以前の後期旧石器時代(38,000~37,000年前)に既に海を渡って本土に持ち込まれていた。特に静岡県愛鷹山々麓の遺跡群で顕著』(*゚Д゚*); 以下補足

 

  • 神津島(恩馳島)から一番近い伊豆半島石廊崎までは51km、氷期で海面低下した2万年前でさえも陸橋とはならず、神子元島まででも45kmの海原を横断しなければならなかった。しかも、その海原には黒潮の分流が流れ込んでおり、時速3kmほどの潮の流れが絶えず北上。
  • そこを丸木舟で漕ぎ渡るリスクを冒して旧石器人たちは神津島まで往復航海を敢行、黒曜石を本土に持ち帰った。静岡県愛鷹山麓の後期旧石器時代の遺跡群からその証(神津島産黒曜石)が発見されている。

※ 駿河湾特産のさくらエビが相模湾で獲れる理由の仮説。

 

 

 

  • 静岡県の愛鷹山麓に、38,000~14,000年前の後期旧石器時代の遺跡群が存在。

  • 愛鷹山麓に堆積する愛鷹・箱根ローム層中からは、多数の遺跡が見つかっており、後期旧石器時代を連続的に網羅する国内でも貴重なフィールドとして注目されている。(<知らんかった( ・ω・))


中村雄紀・金成太郎追平(2014), 追平B遺跡出土石器群の再検討 ―愛鷹山麓における後期旧石器時代初頭の石器石材利用― に加筆

 

 

  • 井出丸山遺跡第I文化層(第IVスコリア層/3,800~37,000年前)から出土した黒曜石39点中23点(59%)が神津島恩馳島産。
  • 富士石遺跡第II文化層(第VI~VII黒色帯 ≒ 第IVスコリア層/3,800~37,000年前)から出土した黒曜石32点中28点(88%)が神津島恩馳島産。
  • 追平B遺跡第II文化層(第VII黒色帯 ≒ 第IVスコリア層/3,800~37,000年前)から出土した黒曜石19点中1点(5%)が神津島恩馳島産。
  • 追平B遺跡第II文化層から出土の石器群は、井出丸山遺跡第I文化層出土のそれらと酷似する(↓)。これも層序対比とともに両遺跡が同時期の居住址であることを示唆。
  • 土手上遺跡第V黒色帯(BBV/35,000~34,000年前)から出土した黒曜石1827点中489点(27%)が神津島産。
 
 
 
  • 上位の細石器層準である休場層(14,000年前/4~5期)は、神津島産黒曜石を多産(休場遺跡、追平B遺跡、他)。 
  • 休場遺跡からは石囲炉跡が出土、旧石器時代の遺跡には稀な当時の生活様式を具体的に示す貴重な遺跡。この炉跡に伴う炭化材をAMS年代測定に使用。

 

 

 

  • ↓のように蛍光X線分析(非破壊分析)で黒曜石の原産地特定が可能。 追平B遺跡 第II文化層から出土した19の黒曜石の産地は、霧ヶ峰の和田峠系II(鷹山系)5、伊豆半島柏峠系12、箱根の畑宿系1、神津島恩馳島系1

 

 

※ ちなみにホモ・サピエンスが外洋を渡海した最古の証拠は、48,000年前のスンダランド(インドネシア諸島)からサフル大陸(オーストラリア)への進出とされている。最終氷期の-80m海面低下した際もスンダランドとサフル大陸間には海峡が存在しており陸橋と成り得なかった。その距離はおよそ80kmで意図的な渡航と考えられている(Mungo ManとMungo Ladyの祖先か)。 ホモ・サピエンスが行った外洋往復航海の最古の証拠は、この神津島産黒曜石を求めた航海。

 

 

 

 なぜ2万年前の田名向原遺跡の黒曜石に神津島産がなかったのか?の答え(私的作業仮説『愛鷹山麓 vs 相模原という場の違いではなく、時代(2万年前 vs 3万4千年前)の違いであろう。 2万年前は最終氷期の最寒冷期で平均気温が現在よりも6~7℃低かった。そのため、海難のリスクが高まり神津島への黒曜石獲得シャトル航海を断念(縮小)した。休場層堆積時(第4・5期/1万7千年~)頃からはじまった現間氷期につながる急激な温暖化に入り海難のリスク減少とともにシャトル航海を再開(増加)した。』 以下補足

 

  • 旧石器時代第1期(≒ 38,000~34,000年前)には、東海関東エリアから広く神津島産黒曜石が報告されている。
  • 神津島産黒曜石が出土しなかった田名向原遺跡から僅か8.5km北方にある津久井城跡馬込地区の第6文化層(後期旧石器第1期)から同島の黒曜石が出土している。⇒ 愛鷹 vs 相模原の地域差ではなさそうだ。

 

 

  1. 神津島産黒曜石を出土しない田名向原遺跡は、後期旧石器時代第4期(20,000年前)の遺跡で、愛鷹山麓の第1期文化層(38,000~37,000年前)とは時代的に明らかに異なる。⇒ 時代差の問題の可能性
  2. 愛鷹山麓のみならず東海関東地域において、旧石器時代第1期から第2・3期に移ると神津島産黒曜石の出土数は減少する(相川 東大紀要33)が、その後の第4・5期の休場層からは、同島産黒曜石が再び多産する。
  3. N. pachyderma(水温指標の浮遊性有孔虫/水温8℃以下で左巻きの室、8-12℃で右巻きとなる)より推定される30,000~16,000年前の海水温は低下している。
  4. 他Dataから旧石器時代の古環境を検討;グリーンランド氷床コアの酸素同位体比分析ならび野尻湖底堆積物中の花粉分析の資料からも32,000~16,000年前に寒冷化した期間があったことが確認できる。
  5. 最終氷期の最寒冷期は2万年前頃で氷河の伸張とともに海水面が120m低下している。この時期の気温は、現気温よりも6~7℃低かったと推定されている。

相川譲, 後期旧石器時代前半期における神津島産黒曜石の利用とその広がり, 東京大学考古学研究室研究紀要第 33 号に加筆

 

 
Yusuke Yokoyama, et, Rapid glaciation and a two-step sea level plunge into the Last Glacial Maximum, Nature volume 559, pages603–607 (2018)
 
  • 上記1~5より、2万年前の最終氷期の最寒冷期頃には、外洋に漕ぎ出す神津島へのシャトル航海は海難のリスクが高く、後期旧石器人もこの航海は大変危険と判断し中断(もしくは活動の縮小)していた。このため田名向原遺跡への神津島産黒曜石の供給は著しく減少し、代替として信州和田峠や八ケ岳産の黒曜石が持ち込まれた。

 

 

 

  • 神津島の黒曜石を語るうえで池谷信之著『黒潮を渡った黒曜石・見高段間遺跡』は必読の書。 池谷氏はシーカヤッカーでもあり実際に神津島までシーカヤックで渡っている。そんな彼のコメント「水中で奪われる体熱の速度は、大気からのそれの約25倍。15℃の海水温だと3時間ほどで低体温症に陥るリスク大(海中での低体温症は、すなはち「死」)」は、寒冷化でシャトル航海を断念した後期旧石器人の無念もさもありなんと思えてくる。

 

 

 

  • 2万年前はの気温は、現気温よりも6~7℃低かった。神津島付近の現海水温は、27℃@8月、16℃@2月。シンプルに現海水温から6~7℃差し引いて2万年前の古海水温を想定してみると20℃@8月、9℃@2月。 真冬の2月の海難は、1~2時間で死亡。真夏の8月でさえも生命の危険あり(今の津軽海峡付近の海水温。低体温症は想像に難くない( ・ω・))。

 

 

気候の変化も一つの重要な視点とし、旧石器時代、縄文時代を眺めてゆこう

 

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【補備】相川壌「後期旧石器時代前半期における神津島産黒曜石の利用とその広がり」東京大学考古学研究室研究紀要第 33 号