• 大木式土器は、縄文時代前期から中期(約6500~4500年前)に東北地方南部に相当する地域で使用された土器。縄文時代前期から中期中葉までは、概ね秋田市・田沢湖・盛岡市・宮古市を結ぶ以南の東北地方南部を主な分布域とし、東北地方北部から北海道南西部にかけて分布する同時期の円筒土器と並行する。縄文時代中期後半に入って北東北に分布域を広げるものの北海道にはおよばない。
 
 
  • 縄文時代中期後葉には竪穴住居内に複式炉という独特の石組炉を伴うことでも知られる。

 

 

 

▼ 土器編年:
  • 山内清男によって設定された縄文土器型式で、標式遺跡は宮城県宮城郡七ヶ浜町の大木囲貝塚。 1式から10式に細分され、大木6式土器までが縄文時代前期に属し、7a式以降は縄文時代中期に属する。

 

 

 

 

大木 1式;

  • 植物由来の繊維を混和材として練り込む(大木1~2a式)

  • 大木1式の深鉢には、器高20cm前後を境として、大小の区別あり(例)。
  • ↓100・102はの例で、底面が外に突出し、いったんくびれてから口縁に向かって開き、高さに比して口径が小さいものが多い。底面の張り出しが強いものは、丸底風の底部周辺に粘土帯を貼付けて、平底風につくったものも見られ、多くは上げ底となる。
  • の例は、口縁が直立ないし軽く内彎し、底面の張り出しが弱い。
  • 平面に縄文施文が見られ、上川名2・桂島式の上げ底風平底の伝統をひく。
  • 口縁部文様帯には、原体末端・結び玉の回転圧痕が施されることが多い。(≒↓重層ループ文と理解)

  • 体部の縄文帯はLR・RLを併用する場合(羽状縄文)が圧倒的に多く、とくに末端をからげ合わせる場合が多く、結び合わせた例はほとんど見られない。器面の4分の1もしくは2分の1を区切りとして、回転方向を変えるれいが多い(稀に↓100のように頻繁の方向を変えることもある)

 


 

100 大木1式(宮城今熊野遺跡)高15.8cm. 大木1式の深鉢には、器高20cm前後を境として、大小の区別がある。100、102は後者(小)の例で、底面が外に突出し、いったんくびれてから口縁に向かって開き、高さに比して口径が小さいものが多い。口縁部文様帯には、原体末端・結び玉の回転圧痕(重層ループ文)が施される。

101 大木 1式(福島宮田貝塚)高22.9cm. 口縁が直立ないし軽く内彎し、底面の張り出しが弱い。

 

 

 

102 大木1式(宮城今熊野遺跡)高13.5cm. 小の例。 

 

 

大木1式(大木囲貝塚)

 

 

大木 1式(里浜貝塚資料館) 底面が外に突出し、いったんくびれてから口縁に向かって開く。体部の縄文帯はLR・RLを併用し羽状縄文を施文している。

 

 

大木 1式(25~28) 25;口縁部の破片、口縁部に結び玉の回転圧痕、その下に羽状縄文。27;結び玉の回転圧痕。28;羽状縄文

 

 

大木 2a式;

  • 東北南半の繊維土器の最後に位置する。
  • 器形は、大木1式の伝統を受けて、頸部がくびれ口径のわりに丈の低いもの、単純に口径の開く丈の高いものに分かれる。
  • 大木 1式以来のA突起に加えて、B突起(↓106/双頭の波状口縁)が増加するのも、この形式の特徴。
  • 大木2a式の口唇部は箆調整によって平坦にならされている(大木1式の口唇部は、なで調整により丸みを帯びている)。
  • 施文方法には大きな変化;
  1. 大木1式を特徴づける整然とした帯状施文は急速に廃れ、原体の撚りこみもゆるく、不均等なものになる(↓105)。
  2. 一方、撚糸文が急に流行し、結束を加えたもの(↓106)、穿孔した軸をくぐらせたもの(↓106)なども見られる。
  3. もっとも顕著なのは、割竹もしくは木片様の施文具による押引技法の出現。
  4. 関山・黒浜式のコンパス文様のくずれた波状文も見られる。やや不規則な起伏をもつ平行線が、もっとも一般的。↓103のように串状工具による場合が多い。
  5. 底部周辺に2~3条の条痕帯を加える例も多く、まれには、↓104に見るように条痕文が全面を覆う場合もある。
  6. 底部は、大木1式の場合は胴部最下段の粘土帯と一体化しているのに対し、↓103・104に見られるように、底面のみをはめこむようになる。

103 大木 2a式(福島宇輪台遺跡)高16.4cm. 大木1式の伝統を受けて、頸部がくびれ口径のわりに丈が低い。串状工具による不規則な起伏をもつ平行線が施文されている。

 

 

104 大木 2a式 (名取今熊野遺跡)高20.1cm. 条痕文が胴部全面を覆う。底部は、大木1式の場合は胴部最下段の粘土帯と一体化しているのに対し、これは底面のみをはめこんでいる。

105 大木 2a式(相馬郡宮田貝塚)高30.5cm. 胴部施文は、原体の撚りこみもゆるく、不均等なものになっている。

 

 

 

106 大木 2a式(宮城大木囲貝塚)高21.0cm. 口縁に本型式の特徴となっている双頭のB突起1個をもつ。胴部に結束を加えた撚糸文、穿孔した軸をくぐらせた撚糸文が施文されている。

 

 

107 大木 2a式(盛岡繋III遺跡)高22.2cm. 胴部に網目状撚糸文が施されるが、典型的な例より原体の巻が粗く弱い。

 

 

大木2a式(大木囲貝塚) 底面が外に突出し、いったんくびれてから口縁に向かって開ち、口縁に4つの突起がつく。 口唇部は箆調整によって平坦にならされている。器面全体に、関山・黒浜式のコンパス文様のくずれた波状文が施文される。

 

 

大木 2a式(大木囲貝塚) 4単位の波状口縁、口唇部は箆調整によって平坦にならされている。胴部に関山・黒浜式のコンパス文様のくずれた波状文が施文。

 

 

大木2式(大木囲貝塚)29・30;撚糸文。34;双頭のB突起波状口縁。35;小さな双頭のB突起、口縁には、大木1式の特徴である結び玉の回転圧痕。胴部には、羽状縄文。36;不規則な起伏をもつ平行線が施文。

 

 

 

大木 2b式;

  • 口縁部文様帯の区画帯単位文様の表現に粘土紐貼けの手法が出現。多くの場合、刻み・円筒形竹管文がつく
  • 器形は大木2a式の2種類の区分を踏襲するが、↓108のように寸延びしたものが多くなる。
  • 地文は大木2a式と共通する羽状・網目状(107)などにくわえ、軸に0段の撚糸をむすびつけた、あやくり文が多くなる。特に割いた樹皮などを軸に結び付けた原体によるあやくり文(↓108)が特徴的

108 大木 2b式(宮城大木囲貝塚)高19.2cm. 器形は大木2a式を踏襲し、頸部でくびれる形をなす。円形竹管によりに円形刺突文が施され、口縁部文様帯が区画される。胴部には軸に0段の撚糸と結び付けた、あやくり文が施文される。

109 大木 2b式(東根市小林A遺跡)高32.1cm. 口縁部直下の粘土帯に加えられる刻みが粗くなり、粘土帯のつぶれが見える。この特徴はむしろ大木 3式で顕著になる。大木 2b式終末、もしくは3式初期に位置づけられる。胴部に粗い撚糸文が施される。

 

 

大木 2b式(?)(大木囲貝塚) 口縁直下に粘土紐を貼付、それに粗く刻目をつけている。口縁は僅かに波状し4単位をなしている。胴部に地文として斜縄文を施文する。粘土紐の貼付から説明パネルと異なる 2b式と考えた。

 

 

 

大木 3式;

  • 大木 3式は、標本資料が貧弱で、その後もまとまった資料に恵まれていない。宮城県糖塚・大木・宇賀崎などの資料をつき合わせて、ようやくその全容をうかがい知ることが出来る。
  • 器形は底部よりかすかにふくらみをもつ深鉢とともに、口縁の外反するものが比較的多く、口頸部が外析し、偏球状の胴につながる広口壺のような形態も目立つ。
  • 口縁部は多くは無文であるが、幾何学的な沈線文を施すものも少数見られる。
  • 口頸部・胴部の境には1~2条の太目の粘土帯をめぐらし、その上に斜位の刻み、もしくはC字半裁竹管文・円形竹管を施す。この凸帯を欠き、円形竹管による刺痕列におきかわる場合もある。体部には、径1.5~2cmの粗大な円形刺痕をほどこし、その間を沈線で結んだモティーフ、あるいは大木4式の祖型と見られる貼付文などが見られる。
  • 地文に正反の撚り合わせ縄文、付加条縄文などが見られる点も3式の特徴。原体は一般に粗剛な繊維を用いている。
 
 

110 大木 3式 深鉢(大木囲貝塚)高21.9cm. 口縁部に半裁竹管による弧状押引文が3線施文される。

 

 

大木 3式(大木囲貝塚) 器形は底部よりかすかにふくらみをもち、口縁で外反する。口縁部下に幾何学文様の沈線を施文する。

 

 

 

17 後編部下に鋸歯状の幾何学沈線が粗く施されている。底面が外に突出し、いったんくびれてから口縁に向かって開ち、4単位の波状口縁の器形を呈する。 口唇部は箆調整によって平坦にならされている。

 

 

口頸部・胴部の境に円形竹管による刺痕列を施している。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年11月3日(木)文化の日、大木囲貝塚(七ヶ浜町歴史資料館)訪問。

 

 

大木囲貝塚は、大正時代以来多くの研究者によって発掘調査が行われていたが、その中でも最も精力的に発掘調査を行い、大きな学問的業績をあげたのが東寺東北大学に勤務していた山内清男氏。同氏は、昭和2年~4年までの間に、この貝塚の7ケ所で層位的発掘を行い、そこから出土した土器を10型式に分類し、「大木式土器」と命名した。現在、大木式土器は東北地方の縄文時代前期・中期の年代を決める基準の土器となっている。 現在貝塚は整備中の公園となっているが、当時は一面が畑地だった。同氏による最初の発掘地点もこの標識の15m東にあった畑地だった。現在、山内清男氏が発掘した地点のうち、3ケ所(A・B・C地点)は特定されているが、そのほかの地点は当時を伝える試料の不足から不明となっている。

 

 

 

 

 

 

【参考Link】