• 位置:飯能市大字芦苅場字久保12-1。飯能市の東端、圏央道狭山日高インターの北西約800m。入間川と並行する南小畔川右岸の標高78mの台地。

 

 

 

  • 縄文時代中期の勝坂1式期(約5300年前)~ 加曽利E3式(約4800年前)までの、約500年間継続した環状集落遺跡。
  • 環状集落の規模:外周約180m、内周に径約100mの遺構のない広場を持つ。

向原A遺跡・芦苅場遺跡全体図

 

想定される環状集落。全面積の50%程度を発掘調査(発掘成果展2022 古代の飯能@飯能市立博物館)

 

 

出土した縄文土器群と土器編年(10期に区分);

  • 黎明期のI・II期には、中部高地にその分布の中心をもつ勝坂式土器に、関東東部の霞ヶ浦地域を中心とする阿玉台式土器が伴っている。
  • その後は、III~V期中葉まで勝坂式土器(中部高地)が主流を成す。
  • V期後葉から、加曽利E式土器が勝坂式土器に取って変わっている。

 

縄文中期は、荒川をおおよその境として西関東に勝坂式土器が、東関東には阿玉台式土器が併行して発達した。 その後、中期後半には関東の地域差は解消され、加曽利E式が広く分布。

 

 

勝坂2a式(?)抽象文&蛇体把手(芦苅場遺跡 58号住居跡)
 
 
 
 
 
発見された竪穴住居跡(第1次~4次発掘調査で確認された住居跡の合算)
  • 竪穴住居址:88軒(内時期不明8軒)
 

  • VII期~X期は、環状を構成せず。環状集落はI期~VI期まで継続。
  • I期~VI期の住居跡は61軒。
  • I期~VI期の住居跡は、およそ調査区内でA~G区の7区に区分される。この区分を分節と呼び、遺跡全体では10区以上に区分可能か。

 

住居址の変遷

  • V期以降の住居には、それまで見られなかった特徴的な複数回の建て替え痕が観察される。

 

 

集石土壙(石蒸し焼き土壙)

芦苅場(第2・3次)・向原A(第4次);縄文時代中期の集石土壙。穴の底からは炭が検出、屋外で調理を行った跡と考えられる。

 

サモアの石蒸し焼き料理(Earth Oven)の例;イモ類も焼かれている。

 

 

  • 集石土壙88基(内時期不明7基)
  • 木炭層を挟む集石土壙(実際に調理に使用されたと思われるもの)は、23基。

 

集石土壙分類表 & グラフ;

各ステージ毎の木炭層を含む(調理に使用された)集石土壙の数。V期以降に顕著な減少が見られ、IX期・X期には確認されていない。

 

  • この集石土壙の減少は、調理の対象物が変わったことに起因するものと考えられる。すなわち、芦苅場縄文人の主食が、石蒸し焼き調理に適する根菜類(自然薯等)から堅果類(どんぐり、クリ、クルミ、トチ等)へ変化したことが推測される(気候等の変化が原因で自然薯が採れなくなったか)。
 
  • 土壙が少ない。※自然薯類の保存は、土中に埋めればよいので土壙を掘る必要なし。
  • 堅果類を主食とした縄文人は、関東東部にその居住の中心があった(加曽利貝塚)。V期後半から勝坂式から加曽利E式にその主流が移っていったのは食の変化、人の移動(東から)等に関連しているものと推察される。
 
 
芦苅場遺跡の提起する諸問題;
  • 環状集落に分節は存在するのか ⇒

:計画的な環状集落であるならば、分節ごとに住居構築の累積があった結果、完成。

:見かけの環状集落であった場合、1~2軒住居の複数移動の結果としての累積で偶然できた。

 

 

  • 集落は何人くらいで構成されていたか

:集落を計画的な分節構造と理解し、同時存在数を想定復元する。

  1. I~VI期の環状集落形成時期で検討。
  2. I~X期まで500年、単純に1時期50年で計算。
  3. 住居跡の経年劣化等による平均的建て替え年数を15年と推定する(柱の腐食、柱の太さとなるクリ材の成長年数)。
  4. 15年幅での同時存在数の算出 / 50年÷15年=3.3
  5. 全面調査をした場合として算出した住居跡数・床面数を基準に積算
  6. 1軒に祖父母・両親・子供3人の7人を平均的に居住と仮定

 

I期   ⇒ 10軒 ÷ 3.3 x 7人  (20床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 21.2人(42.4人

II期  ⇒ 24軒 ÷ 3.3 x 7人(38床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 50.9人(80.6人)

III期 ⇒ 24軒 ÷ 3.3 x 7人(50床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 50.9人(106人)

IV期 ⇒ 24軒 ÷ 3.3 x 7人(50床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 50.9人(106人)

V期  ⇒ 26軒 ÷ 3.3 x 7人(70床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 55.1人(148.4人

IV期 ⇒ 14軒 ÷ 3.3 x 7人(42床 ÷ 3.3 x 7人)≒ 29.6人(89人)

 

住居の積算では50人前後、床面数の積算であれば最小 43人、最大148人が同時に存在していたことになる。

ダンバー数;集団の気の置けない繋がりは150人まで(進化心理学)。 狩猟等小集団の規模=30~50人、氏集団の規模=150人、部族の規模=500~2500人、ネットワークは3の倍数で増える(ロビン・ダンバー/オックスフォード大学進化人類学教授)

 

 

  • 土壙が少ないことと打製石斧が多いこと、集石土壙が多いこと、墓壙が少ないこととの関係性は?(生業と遺構の関係)

:土壙、特に大型の袋状土壙はドングリなどの堅果類の貯蔵用

:打製石斧は土堀用の道具で、主に根菜類の採集。根菜類(自然薯等)は土壙での貯蔵は不要

:大型土壙を持つ集落は東北~北東関東地方で特徴的に分布、打製石斧を多出する地域は西関東~中部高地で分布が主体となり、明瞭に分かれる。

:土壙が少ないことは集石土壙が多いことと整合性がある。根菜類(自然薯等)の焼き石蒸し料理を主食としていた可能性。根菜類を主とし、堅果類を従とする食生活が想定される。

:明瞭な墓壙が存在しない ⇒ 土壙墓ではない葬法が考えられる。風葬等の埋葬しない葬法があったのか。ほぼ同時期に貝塚地帯では廃屋葬が行われる。 勝坂式~加曽利E1式の住居跡では、吹上パターン中に倒置土器あり。廃屋葬との関係性はないか、祭祀的な様相が強い。

 

※ 吹上パターン;埼玉県和光市に所在する吹上貝塚では、竪穴住居跡が貝層で埋まっていてその下から完形に近い土器が出土し、その下は住居の床面まで遺物のない層が覆土として観察された。それは住居が構築され、一定期間使用された後、廃絶されて埋まっていく過程で土器の廃棄される場所となり、さらには貝の廃棄される場所になるという人間の行動のサイクルの一定のパターンが見られるという「吹上パターン」もこの覆土の観察から小林達雄によって唱えられた。

 

 
縄文時代中期環状集落の研究
  • 集落の環状化の研究 ⇒ 縄文時代を通じて集落の環状化は見られる

ふじみ野市水子貝塚(環状集落)

 

 

埼玉県武蔵嵐山 行司免遺跡(縄文中期)、環状集落 & 環状外側に相対する様に土器捨て場あり。

 

 

  • 環状集落の形態の相違からの研究;

   空白の中央広場の実の集落  中央広場 + 環状土壙群 + 住居址軍

   中央墓壙群 + 掘立柱遺構群+ 土壙群・住居跡群=重帯構造

 

  • 環状集落機能論からの研究;

   中央広場の活用 ⇒ 半栽培用地としての活用(地域や時代で異なる)

   食用や建築部材として重要なクリの半栽培(花粉の分析から)

   焼き畑による自然薯等の根菜類の半栽培(打製石斧の分析から)

   山頂部の環状集落はイノシシ等の害獣除けに最適な環境

 

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出土した土器群;I・II期(勝坂1式 ・ 2式)

 

III期(勝坂2~3式)

 

III・IV期(勝坂2~3式)

 

IV・V期(勝坂3式・勝坂週末~加曽利E1式)

 

V期(勝坂週末~加曽利E1式)

 

VI ~ X期(加曽利E1後半 ~ 加曽利E3式後半)

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