基礎知識
  • 飛鳥時代;古墳時代末期(7世紀)に奈良県飛鳥地方に政治の中心が置かれた時代
  • 645年 乙巳の変;中大兄皇子&中臣鎌足 vs 蘇我入鹿&蝦夷の宮廷クーデター
  • 646年 改新の詔; ヤマト政権の地方支配制度の大転機(薄葬令; 大化の改新の一環とされ、「大化の薄葬令」とも呼ばれる。 墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。)
  • 古墳時代初めから大化前代までの地方は、在地首長(有力豪族)によって支配。これら在地首長はヤマト政権と同盟に近い支配関係を結んでいた(埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣銘文から『古墳時代中期以降にヤマト政権の地域支配が強まり、後期古墳時代には国造制の支配制度が整えられ、その制度は東北地方南部にまで及んだ)。

  • 在地首長は『氏』の血縁集団を形成し、在地を支配すると同時にヤマト政権下の種々の職務を分担(例;ヤマト盆地周辺の有力氏族 / 葛城、平群、蘇我、物部、大伴)。
  • 姓;ヤマト盆地周辺の有力氏族に大王から与えた称号(臣、連、君、直 / 世襲)
  • 国造;ヤマト王権に服属した在地首長に与えた官職。従来の土地・人民に対する支配権を保証。と同時にヤマト政権の間接的地方支配を強化(屯倉;ヤマト政権の直轄地で、地方支配の拠点としての機能)
  • 国造制;西日本では6世紀中ごろに、東日本では少し遅れた6世紀の終わりころに施行されたと推定(篠川 1985)

 

 

1. 相模地方の国造勢力

  • 先代旧時本記の10巻『国造本記』に相武国造、師長国造の2国造の記載あり。

※ 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の巻第10にあたる一巻の書。『旧事本紀』は聖徳太子の撰(せん)という序文を有するが、平安初期につくられた偽書とされる。しかし、そのなかの巻第3「天神本紀」の一部、巻第5の「天孫本紀」、それにこの「国造本紀」は、他のいずれの文献にもみえない独自の所伝を載せていて注目される。「国造本紀」は、大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下全国で130余りの国造を列挙し、それぞれに国造任命時代、初代国造名を簡単に記したものである。それらのなかには和泉(いずみ)、摂津、丹後(たんご)、美作(みまさか)など後世の国司を記載したところもあり、また无邪志(むさし)と胸刺(むさし)、加我(かが)と加冝(かが)など紛らわしいものもあるが、概してかなり信用できる古伝によっていると思われ、古代史研究の貴重な史料となる

 

  • 古事記に『鎌倉別』の記載があり、上記2国造と異なる勢力が三浦半島および鎌倉に存在していた。
  • 文献資料に古墳や集落遺跡や分布を加え総合的に検討し、相武国造ならび師長国造の支配領域を、相模川左岸と酒匂川流域の足柄平野にそれぞれ比定した。

 

 

1.師長(しなが)国造のクニ

師長国造のクニの歴史を考えるうえで重要なのは①、③。

  • 大磯丘陵ー秦野盆地から足柄平野の範囲を想定
  • 古墳や横穴墓の分布から 5地域に区分可能;① 足柄平野西縁部狩川流域、② 足柄平野北端部の松田・山北町一帯、③ 大磯丘陵西部、④ 大磯丘陵東部、⑤ 秦野盆地

 

 

  • ① 足柄平野西縁部狩川流域 
  1. 6世紀後半で連続する首長墓 / 黄金塚古墳(単龍環頭大刀柄頭)塚田2号墳(金銀装単鳳環頭大刀・金銅装馬具・桂甲小札)
  2. 7世紀前半になると少し南下の区の丘陵に中心が移動(久野諏訪ノ原古墳群)。 久野2号墓(4振の装飾太刀)、久野中宿古墳(鏡版・鉄製馬具)。天神山古墳(金銅装を含む三振の太刀と鉄製馬具)
  3. ↑1/2の様子から『大化前代の国造勢力は足柄平野西縁部にあった』と考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  • ③ 大磯丘陵西部; 古墳時代後期の本地域は、古墳時代終末期を代表する横穴墓に象徴される(①の高塚墓と対照的)。 
  1. 大磯丘陵に1189を数える横穴墓が作られた(①の足柄平野西縁部には僅か7基)。
  2. 7世紀後半、足柄平野東縁部の森戸川に面する大磯丘陵西斜面に田島弁天横穴墓群が造営(畿内産土師器、大刀、馬具)。森戸川上流の千代遺跡からは畿内産土師器坏が出土=7世紀後半の在地首長墓域の存在

田島弁天横穴墓群

 

 

  • 師長国造のクニでは、およそ7世紀中葉頃を境に在地勢力の基盤が、①の狩川地域から③の大磯丘陵西部に移動してように解釈できる。但し、大磯丘陵にも7世紀前半以前の首長墓や拠点集落があったので同系列の首長による拠点の移動があったのか、あるいは権力の興亡による首長層の交代があったのかは不明。
  • 荒井 1998;推古朝におけるヤマト政権の足柄開発を皮切りとした相模への本格的な進出がその一因かもしれない。(推古朝;厩屋戸皇子(聖徳太子)を摂政に据え、603年冠位十二階の制、604年十七条憲法を発布しヤマト国の根幹作りを実施)

 
 
 
2.相武国造のクニ
  • 相模川を中心に相模兵やの広い範囲
  • 墳墓の密集地;① 丹沢山塊当南麓(伊勢原市比々多三ノ宮区)、② 厚木市域から相模原南西部、③ 藤沢市南東部
  • ↓古墳からの出土品が物語るように伊勢原市三ノ宮地区は、6世紀後半から7世紀にかけて相武国造の墓域であった。

 

  • 栗原古墳(現存していない);金銅装環単龍環頭大刀柄頭(比々多神社所蔵、伊勢原市指定文化財)。大正時代に栗原地区の畑から出土。

 

  • 登尾山古墳からの出土品;金銅装馬具、金銅装圭頭大刀、銀装大刀、小型鏡

 
  • 御領原古墳からの出土品;伊勢原市日向の渋田1号墳から装飾付大刀および鉄製大刀
 
 
3.鎌倉別のクニ
  • 鎌倉別の支配領域は、その呼称からも鎌倉から三浦半島にかけての一帯であると考えられている。

 

  • 鎌倉別の首長墓では、相武や師長に匹敵するような副葬品を持つ古墳が継続する地域は、見つかっていない。一方で、この地域は、大磯丘陵と並び相模地方における横穴墓の密集地域として知られている。

 
  • また墳丘を持つ古墳では、金銀装斧状鉄製品や金銅製弭金具といった特殊な遺物を出土して注目される切石積み古墳の横須賀市かろうと山古墳がある。特に金銀装斧状鉄製品は、装飾大刀と同様に儀仗に用いられたと思われることから、かなり高位の在地首長墓があると想像される。
 
 
※ 万葉集に詠まれる『足柄山、大山(相模嶺)、鎌倉山』は、相模人の古里観にあらわれる。これらの山々は、「国頭・国魂」が降臨し、鎮座する山であり、それらのお膝元に首長(国造)の墓が造られている。