勝坂式

84;勝坂1式(狢沢式)鉢/深鉢(長野県大石遺跡)高36.0cm

 

勝坂2・3式土器(長野県曽利遺跡)

 

  • 隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的。
  • 関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器型式名ないし様式名。

  • 勝坂式土器較正年(C14)は、およそ紀元前3500 ~ 3000年.
  • 器壁が厚いことから鳥居龍蔵によって縄文時代後期の堀之内式などに代表される薄手式に対して厚手式と呼ばれる土器群の代表的なものであった。
  • 1926年に大山柏率いる大山史前学研究所が現在の神奈川県相模原市南区磯部の勝坂遺跡の発掘調査によって検出された土器群について、山内清男が1928年に著した『下総上本郷貝塚』で、諸磯式と加曾利E式の間に位置づけ、『縄文土器の細別と大別』(1937年)で中期初頭の五領ヶ台式と中期後半の加曾利E式の間に「勝坂式」として位置付けた。 
  • 一方、長野県八ヶ岳山麓で、井戸尻遺跡をはじめとする縄文時代中期の集落の発掘調査を行い、住居跡の良好な一括資料と住居跡の切り合い関係から、藤森栄一らは、貉沢(むじなざわ)式 ≒ 勝坂1a式新道(あらみち)式 ≒ 勝坂1b式藤内式(とうない)I/II式 ≒ 勝坂2式井戸尻I/II/III式 ≒ 勝坂3式の編年を1965年に『井戸尻』にて提唱した。藤森による編年は、型式的な内容を把握した完成度の高いものであったことから、1969年に安孫子昭二によって著された多摩ニュータウンNo.49遺跡の報告書で使われるなど次第に普及していった。

 

 

 

  • 勝坂式土器の変遷模式図;

 

 

 

勝坂3式(井戸尻 1/2/3式)

  • 勝坂式土器の最終段階、末期には加曽利E式土器や曽利式土器と搬出。
  • 2式の中核的モチーフであった抽象文と従位区画文が完全に失われた
  • 代わって以下の3タイプが中核を成す; ① 文様帯が胴上部に集中する(胴部文様帯系土器)、② 口縁部から胴上部にかけて文様帯の集中する(口頸文様帯系土器)、③ 3式後半に出現する4個の大形把手をもち胴部で大きくくびれ、底部が屈折底となるもの(多喜窪重文タイプ)
 
 
勝坂3a式(井戸尻1式)顔面把手付甕形深鉢 高54.2cm(長野県月見松遺跡/月見松遺跡緊急調査報告書1968). 胴部文様帯系。器全面がよく磨かれている。口縁は折り返されて内屈し、頸部以下、肩の張る胴部には文様帯が3段階に発達する。中段は浮彫風の三又文・隆線文・円形文などが、あまり規則性をもたず抽象的に描出され、下段のみ楕円形区画横帯文となる。顔面部を正面に据えると、頸部の2窓ある橋状把手、その下にある小突起に中心をおく円文ととが一種独特の雰囲気を発散する。同種の土器で顔面把手が付かない事例は諏訪湖盆から伊那谷にかけて散見する。
 
 
184(左上);勝坂2式 深鉢(東京都楢原遺跡)高34.0cm.
185(右上);勝坂3式 深鉢(東京都宮下遺跡)高46.2cm. 口頸文様帯系
186(左下);勝坂3式 深鉢(神奈川県細田遺跡)高46.2cm. 口頸文様帯系
187(右下);勝坂3b式 深鉢(埼玉県膳棚遺跡)高28.1cm. 胴部文様帯系
 
191(左);勝坂3式 深鉢(東京都中原遺跡)高29.1cm. 口頸文様帯
192(中);勝坂3式 深鉢(東京都中原遺跡)高42.0cm. 胴部文様帯+縄文地文
193(右);勝坂3式 深鉢(埼玉県膳棚遺跡)高31.4cm. 胴部文様帯+縄文地文
 
 
勝坂3a式 深鉢 (狭山市丸山遺跡). 1式後半以降の横帯文系
 
 
勝坂3b式(多喜窪重文系対タイプ)深鉢 (多摩NT No.3遺跡@都埋文センター)
 
 
勝坂3b式(多喜窪重文系対タイプ)深鉢 (東京都多喜窪遺跡)
 
 
 
勝坂3b式(多喜窪重文タイプ)≒ 井戸尻3式、釈迦堂遺跡(釈迦堂遺跡博物館@笛吹市)
 
 
勝坂3b式(多喜窪重文タイプ)≒ 井戸尻3式、釈迦堂遺跡(釈迦堂遺跡博物館@笛吹市)
 
 
勝坂3b式(多喜窪重文タイプ)≒ 井戸尻3式、釈迦堂遺跡(釈迦堂遺跡博物館@笛吹市)