土師器
- 古墳時代から平安時代にかけてつくられた赤褐色の素焼の土器の総称。坏(つき)、高坏(たかつき)、坩(つぼ)、甕(かめ)、盤(さら)などがある。装飾的な文様がほとんどつけられていないのが特徴。
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土師器は、弥生土器と同じ系統の土器。野焼きの進化系である「覆い焼き」で焼かれ、赤っぽい色で、やや軟質とされている。特徴もほぼ変わらないため、弥生土器とあまり大きな区別が成されていない。※ 縄文と弥生の覆い焼きの違いは、前者は枯葉を覆う材料としているが、後者は藁と灰を用いていること。藁と灰により焼成温度が縄文のそれよりも高くなり、焼しめることができ、結果、薄手の土器の作成が可能となった。
- 土師器は、3、4世紀から11世紀に至る長期にわたって使用された。
- 北海道南部から九州一円という広域である。したがって、時期差ばかりではなく、地域間における差異も少なからず存在した。だが小形精製土器のような斉一性を有する土器を除外したとしても、なお小異を無視するなら、全国的に共通する形態上の特色を示す場合が少なくない。そのため、南関東地方における五領(ごりょう)式期→和泉(いずみ)式期→鬼高(おにたか)式期→真間(まま)式期→国分(こくぶ)式期という五段階編年を、そのまま標準尺度として全国に及ぼそうという考えが永く支配的であった。
- だが、たとえば3、4世紀の西日本では、内面を篦(へら)で削ることによって器壁を薄くした、丸底を基調とする甕形(かめがた)土器が盛行したのに、東日本のそれは台付きが主流で、外面を削って薄作りとしていた。このように土師器の製作法、使用法には、無視できない地域差が存在したことも銘記しなければならない。前述の事実を認めたうえで、以下にかつて全国的編年の尺度とも考えられた南関東地方の五段階編年を通じて土師器の推移を通観する。
[岩崎卓也]
※ 須恵器は、古墳中期(およそ5世紀の中頃)に朝鮮半島から伝えられた窯焼き製法で作成された。
神奈川県考古資料集成3 土師式土器(神奈川県立博物館 1971)を編集
五領式土器(300~400AD/前期古墳文化)
- 3世紀の後半ころ、土器の広域な交流が活発化する。畿内(きない)地方の庄内(しょうない)式土器が主として西日本一円に広がりをもったのに対し、東海地方西部系の土器が東北地方南部にまで影響を及ぼした。このような動きのなかで、各地方の弥生土器が急激に変容を始めた。五領式土器もこのようにして成立した。
- 3、4世紀を中心に使用された五領式土器の主要器種;
- 有段口縁を特色とする装飾的な貯蔵・供献用の壺
- 刷毛目調整痕(こん)をとどめる薄作りの煮沸用甕、
- 少量の甑(こしき)、
- 供膳(きょうぜん)用としてのできのよい高坏や埦(わん)、
- 祭祀・供献用の小形器台、鉢などの小形精製土器
- 後半期に加わる、小形精製土器に小形丸底坩(かん)
- 他地域の土器を少量ずつ共伴するのも、この時期の特色。近畿地方の庄内式期新段階から布留(ふる)式期古・中段階に対応する。
五領式の甕;神奈川県考古資料集成3 土師式土器(神奈川県立博物館 1971)を編集
五領遺跡@埼玉東松山
- 口縁部は大きく外方に広がる、いわゆる開きロのロ縁部で、中央よりやや上位において一段の稜線を器有する。胴部はほぼ球形を呈註し、上半部には細い櫛状施文具蜘による平行沈欝頸部と胴中央居付近に施され、その間に刺突を雛もって羽状文を描く・同喪具第ユによる刺突文は、口縁端と稜線の箇所にも施される。最大径は郷図口縁端にあり、全体の形は安定性のあるものとなっている。盤面はヘラ磨きがなされ、一部光沢さえみられる。色調は黒褐色を呈する。
- 口縁部のみで、頸部の屈曲が強い。口縁部はいわゆる複合を呈する。壼形土器の翫にB2に分類されるもので、前野町式土器の伝統を受けついだものと考えられる。
- 胴下半部を欠損する 。現高19 ㎝ を測り、比較的大形品となる。最大径は胴下半部にもとめることができ、頸部から規模の小さな外反する口縁部に移行する。頸部には突帯をめぐらし、壷形住に分類されるもの 。
- 球形を呈する胴部からほぼ直線的にのびる口縁部にいたる形のもので、底部を欠損する。現高約25 ㎝ あり、底部はおそらく丸底を呈するものであろう。最大径は胴中央部にあり、口縁端にはツマミ上げがみられる。器面は縦走、斜走のハケ目が残され、肩部には横走するハケ目が 加えられる。色調は黒褐色を呈する。
- 鍵形土器で器高は15 ㎝ を測る。比較的小形のもので最大径は胴中央部にある。口縁部は外反するが器肉は肥厚する。底部は小さい平底を呈する。頸部付近の器面は八ケによる調整が行れている。
- 胴上半部だけの破片で、口縁部は内轡気味に立ち上がり、最大径は胴中央にある。胴下半部は欠損するが、底部はおそらく丸底を呈するものであろう。器肉は薄く、胴部内面はヘラ削りが施されている。外面の調整は、ハケ目で、斜走もしくは縦走するものを基本とし、後に胴上半に横走するハケ目を施す。整形土器 II のBに分類される。
熊野 1987;五領遺跡における外来系土器の検討(明治大学)
8.9.10. ; いわゆる杯形土器で、口縁部が有段をなすものと、内轡気味に外反するものとがある。前者は口径11 ㎝ から16 ㎝ ぐらいのもの一般的で、胴上半で一端内屈し、大きく外反する口縁部にいたるが、その中位で一段を有する。底部は丸底で、器面にはハケ目を残す例が多い。後者は単純な椀形土器に近い形を呈するものである。
11・12・13・14 ; 器高6 ㎝ から8.5 ㎝ と比較的小形のものである。球形の胴部に漏斗状の口縁部がつく。口縁部はやや内轡気味に立ち上がるものが多い。器肉はすこぶる薄く、盤面はよく磨かれ、光沢のある黒色か褐色を呈する。古墳時代前期に属する土器の中では、一品ともいえるほどのもので中央には窪をつけるのが特徴でもある。増形土器の軌に分類される。
15・16・17; 器台形土器であるが、15.16の小形のものと、17の大形のものとが区別される。15は器高7 ㎝ のもので、漏斗状の脚台に小形の器受部がつけられる。脚台部の中央には四個の円孔をうがつ。器台形土器B類に属する。16は器高9 ㎝ 弱のもので脚台部には円孔を有しない。Aa 類に属するものと思われる。17は器高11.8 ㎝ を測り、しかも口径は21.8 ㎝ あり大形品である。普通鼓形といわれるもので、器受部の方が大きい。接合部付近には隆起帯をめぐらす。器面には放射状のヘラ痕がみられ、また、内面にはそれによる横走痕がみられる。色調は褐色を呈する。
熊野 1987;五領遺跡における外来系土器の検討(明治大学)
3~4世紀/ 前期古墳時代:五領式(五領遺跡@埼玉県東松山市)
指定当初、弥生式土器とされたが古墳時代前期。
和泉式土器(400~500AD/中期古墳文化)
- 5世紀代に盛行した土器群で、供献用土器の消滅がとくに注目される。すなわち、壺は急減するとともに粗雑化し、小形精製土器群もほとんど姿を消し、ただ一つ残る小形丸底坩も粗いつくりとなる。
- 浅い坏部に稜(りょう)をもち、細い柱状脚を特色とする高坏が目だつとともに、埦、坏など個人用の盛器が数を増す。
- 「く」字形に鋭くくびれる頸部(けいぶ)と球形胴に特色をもつ甕は、もはや薄作りではなく、器表面の刷毛目が篦によって消し取られる傾向がある。近畿地方の布留式期新段階に対応し、そろそろ須恵(すえ)器が共伴し始める。
[岩崎卓也]
- 文様はほとんど施されない。
- 器面の調整にハケ状工具やヘラが使用される。
- 壷や甕の頸部の屈曲が強くなり、口縁が大きく開くようになる。
[世田谷デジタルミュージアム]
鬼高式土器(500~700AD/後期古墳文化) ※534年 武蔵国造の乱、646年 薄葬令
- 5世紀後半期に使用が始まる土器群で、須恵器を模倣した有段の坏や坩などを伴うことが特色。これは、窯業地帯をもつ近畿地方などを除く東国や九州などで普遍的にみられた現象。
- 住居へのかまどの採用に伴い、煮沸用の甕が長胴化し、同様に火力の向上によって大形甑の使用が可能となった。坏、皿などの銘々器はますます増加したが、小形丸底坩や高坏などは急減し、器種は乏しくなる。貯蔵器などはそろそろ須恵器にその座を譲り始める。
真間式土器 (奈良時代)
7世紀後半期からおよそ1世紀の間使用された土器群で、浅い盤状の坏に特色がある。須恵器が一段と普及し、土師器の種類はさらに減る。それとともに坏の一部は回転台によって整形されるようにもなる。煮沸用の長胴甕の外表は、鋭利な工具で大胆に削って薄い器壁をつくっている。このころから東北地方の土師器が北海道にもたらされ、やがて同地方の擦文(さつもん)土器を成立させたようである。
[岩崎卓也]
国分式土器 (平安時代)
坏類が轆轤によって成形されるようになる点を最大の特色とする。初期の坏は、底部の糸切り痕を消し去り、内面も磨くなど、つくりはていねいだが、未熟さによるのか底径は大きい。のちにだんだん小さな底をもつものに変わるが、つくりは雑になる。須恵器の普及とともに、土師器は煮沸器と皿類にほぼ限られるようになる。しかし、都を控えた近畿地方では、8世紀以降も土鍋、釜(かま)など煮沸器は多種多様である。東国などでは薄手の甕と、遅くなって羽釜(はがま)が用いられる程度であった。11世紀に至る最終段階の土師器である。
[岩崎卓也]
『杉原荘介・大塚初重編『土師式土器集成Ⅰ~Ⅳ』全4巻(1972~74・東京堂出版)』