たとえば

 

わたしがある女性に対して、どうしても欲望が抑えられないとする…。

 

『赤の書』テキスト」P267「森の中の城」に、「ばかばかしいもの変容させるに足る、ばかばかしいものへの切望のことを問うてみなさい」とありますが、以前ばかばかしいと思っていたものに対する切望が抑えられなくなる…。

 

でも結局、自分が求めているものを、あるいは欲望を抱いているものを、客体が、外的な対象が、この場合は女性が持っているわけではないのだ…。

 

自分は男性だが、自分の中にも女性的なものがある。

 

その自分の中の女性的なものに欲望を抱けばいいということ。

 

『赤の書』テキスト版P203

 

「自己中心的な欲望は結局のところ自分自身を欲している。あなたは自分自身を、自分の欲望の中に見出す。それゆえ、欲望は虚しいなどと言ってはならない。あなたが自分自身に欲望を抱くとき、あなたは、自分自身と抱擁して神的な息子を産み出す。あなたの欲望は神の父であり、あなたの自己は神の母である。しかし息子は新しい神、あなたの主人である。」

 

この章(「神の受胎」)で、「自己中心的なこと」に対して、色々否定的なことをユングは書いておいて、

 

たとえば…

 

「しかし、われわれが自分たちの外にいるなら、われわれは一般的な意味で個別的で自己中心的である。」(P202)とか…

 

「しかし、以前には、その関係は自己中心的なものを介してであった。」(P203)とか書いておいて、

 

急に自己中心的なものの役立ちを肯定しだす。

 

やっぱりユングの『赤の書』は面白いです。

 

(つづく)