生まれた時のワタシは多分言葉は知らなくて、
身近な両親の使う言葉を少しずつ理解するようになり、
そしてそのうち自力で言葉を発するようになって、
その言葉を文字という形で表現する仕組みを通して、
誰かと文字でコミュニケーションを可能にする道具というか術みたいなものを身につけたんだろうって
思います。
そうやって2Bの鉛筆を力いっぱいに握って手汗でノートをぷよぷよにして文字を書く練習をしてた頃から
何の気なしに文字を読んだり書いたりしてるわけなのですが、
ふと、
ふとした瞬間に
(あれ?こいつ、、ほんとにこんな字だったっけ?)
ってその文字の字面に対して一瞬の疑いがよぎることってありませんかね?
自分で読んだり書いたりなその文字を眺めてると、
その文字の字面、スタイル、フォルムみたいなやつが、
人の個性に左右された美しいとか汚いとかって問題じゃなく、
その文字が文字として成立しているかという点で、
どうもしっくりこないというか怪しいというか奇妙に感じられる、
そんなやつでして。

例えば、
ひらがなで「ち」って書きたくて、
で、書いて、
(ん、あってる。)
なんて確認による承認みたいなことをいつもはするわけないのに、
(ほんとか?)
ってふと疑いがやってくることがあって、
(ちって、こんな字だったっけ。。)
と思ってしまったそんな時に
「さ」が時代劇に出てくる泥棒みたいな体で、
脳みそという空間の天井からロープを垂らして
シュシュっと、や、ささっと脳の床に降り立っちゃう。
(や、キミ違う、キミは、さ。さです。)
(いまは、ち、ちのことです。)
(帰りなさい。)
ってその泥棒みたいな珍入者に退場勧告するんですけど、
「さ」の出現によって本物であるはずの「ち」がいつもの「ち」の風情を失っていて、
どうもヘンテコリンな姿に見えてきちゃう。
なんで「ち」はこっち向きで、
「さ」はあっち向き?
ん?
どっちだっけ?
そんな混乱がほんの一瞬のようで、
ぼんやり歪んだ時空を彷徨わせるようでもあって、
ふんわりと自分が疑わしい。

ふんわりの
「ふ」
「ふ」
「ふ」
「ふ」?
「ふ」???
って、
なんこれ?
ふ、ふ、複雑すぎない?
なんでこれで、
「ふ」?

「ろ」はどうして「ろ」であって、
斜めってるとこ抜いちゃったら「う」っぽいし、
お茶目に終盤をくるっとしたら
「る」にすんの?
そんなんでいいの?
ほんとか?

「あ」って、
これまた、、
複雑だわぁ。。
あそこは出るんだっけ?
出ないんだっけ?

「し」ったら、
あなたはずいぶんとシンプルすぎやしませんか?
逆向きに書いてみたくなったり、

「ん」は、
こんなに艶かしかったか?

みたいにして、、

なんなん。。
なんなの??
足元の床がズブズブと溶け出して不自然という沼にハマっていくうち
(も、う、や、め、て。)
ってココロの呻きを書いてみたら、
こいつらまでもが脳の床の間でせせら踊ってやがって。
出だしの「も」からもうふんわりやばくて、
「も」の頭の上に葉っぱを一枚乗せた
「毛」がロープを伝ってさ降りてくる。
こっわっ。

なんてこと、
そんなこと、
ございませんかね?
ワタクシ、
酔ってるとか、
疲れてるとか、
そういう状況ではありませんのでご安心ください。

ま、
そうやって脳にヤカラが入ってくるやらで、
自分の記憶を疑うことがワタシという人間にはあることはあって、
でも絶対的とも言えるような信用があると言えばあるんです。
ひらがなをちゃんと書いて、それを文字として利用して、
誰かに自分の考えや想いを伝えたり伝えられたり、
ってのができるという大変にありがたいスキルを持ち合わせている。
「ち」と「さ」を間違えて書くことはないわけで、
江頭2:50さんが尻を左に突き出してるかのような「く」を
右に突き出す「>」ってのを書いちゃうこともありません。
ん、ありません。
ないはず。
日本語のルールはカラダに染み付いているはずで、
たまに脳が悪戯をするだけで。

ただ、
そのルールの世界で生きられるのはいつまでなんだろう?
って、
そう思う自分も時々にやってくるんですよね。
そいつは踊ってはなくて、
ココロのどっかにどっしりと座ってやがる。


ワタシの今の視力では、
ひらがなを目で読み書くルールに従って、
サポートがあれば拙いけど2BでもHBでも書けるし、
見づらくなったけど道具を駆使して読めるし、
まだ、
幼い頃からで身に付けたスキルを活かしてはいる。
のですけど、
そのスキルを持たない人もいれば
失う人もいて。
そういうことに関心なんてなかったワタシという人間の近くに、
そういう人間が多くいるようになって、

例えば、
その人たちの世界では、
「め」という、よく見りゃまたヘンテコな文字を

⚪️⚪️
⚪️⚪️
⚪️⚪️

という紙のでこぼこを指の感触だけで脳に入れて、
「め」なのだと認識するという、
そういう世界に生きていて、
その文字のことを点字と呼び、
点字はルールによって定まっているから、
一定のコミュニケーションが図れていて。
ワタシが幼少から培ったルールと別のルールによる世界が機能してる。
ワタシは今、その2つの世界に片足ずつ突っ込んでて。
突っ込まんとしていて。
って自分の立ち位置を受け止めるとき、
少々とココロんとこに座ってるやつの重みを感じる。

こんなのは、
そんなことは、
たった一つの事象であり例でしかなくて、
異なる読み書きルールが世界にどんだけ存在するのか?
ということと同じように、
言語とか宗教とか法とか習慣とかってルールはどんだけ存在してるんでしょ?
全然わかんないんですけど、
ワタシは知らないだけで、
わからないだけで、
耳にも目にも手にもしたことのないルールによる世界が
ゴロゴロとたくさんとあるんでしょうね。
あるんすよね。

だから、

(ケンカすんだろうなぁ。)
って思うし、

(いやだなぁ。)
って思うし、

(ケンカとかそろそろやめてほしいよな、)
って思って、

(ほしい。)
って想うと、

(そんなことをお前がこんなとこで書いて何になんの?)
とも思う。

でも、
想うのは思ったから、
書くし、
書いた。

自分に対する疑わしさと、
自分に対する信用との葛藤。
欲しくもないのに与えられるルールと、
欲しいものを得るためにありたいとするルールとのケンカ。
自分だけじゃどうしようもないことと、
自分だけでもなんとかなること。
諦めることと、
諦めないこと。
始まることと、
終わること。
書かないことと、
書くこと。
言わないこと、
言うこと。

ったく、
生まれて53年も経ちやがってもですね。
ふわふわするもんで(^^)
2024年に新しい自分が生まれて死んじまうまであと何年なのか。
んなのは大谷翔平くんが全力でプレイし続けられる期間がどれだけ残されてるのか?
ってのと同じように、
誰にもわかるはずのない疑わしいやつで。

あの、
大谷翔平くんのように、
生まれたばかりの新生児だったワタシのように、
見たことのない文字を練習したときのように、
見たことのない景色に触れて
知らないことを知ってくことなのかしら?
チャレンジしてくことなのかしら?
で、
誰かと繋がり誰かが喜んでくれるってことが嬉しいとか楽しいってことなのか?

そう思うような、
思えないような。
そう思えるように、
想うようで。

来年は点字をもう一回勉強し直して、
あいつを読めるスキルを身につけてみようかな、
なんてことを年末っぽく
ベタに来年を想う仕事納めの前日です。