まごつくことも想定して神田の飲み屋をを気持ち早めに後にして、
宇都宮までの最終電車を逃してはならないと上野駅へ。
案の定でまごついてるワタシの腕につかまっているのは
宇都宮でリラクゼーションと障害者就労支援の会社を経営している全盲の社長さん。
白杖を持った男2人が繋がってキョロキョロと歩いてる絵面は、
なかなかレアな光景でしょうが、
視覚障害者の世界に舞い降りたワタシにとってはよくある光景になりました。
全盲という障害を抱えながらであっても、
それがハンデだとは感じてないかのように
なんなら個性の一つとして、
前向きに貪欲にバリバリと、
障害とか健常とかに捉われずタンタンと
臆せず朗らかに社会にドシドシ交わって変化を起こそうとしている友人が増えた。
そんなワケからなんですけど、
視力において誰かにサポートしてもらうばっかりのワタシが、
そんな友人とでは視力においてワタシがサポートする側になる。
そんな絵面になることが増えました。

障害者が障害者をサポートするのはいろんな面で危なっかしいのですけど、
自分で、または自分たちでやれることはやりたい。
という思いはどっかにドッシリとあるのはあって、
おかませすることはおまかせする。
という思いもシッカリとあって、
2つの思いのバランスを障害の程度とか自身の性格という周りにはわかりずらい秤でもって
ゆらゆらと、時にぶんぶんと揺れながらもバランスを取ってるのだろうって思うんです。
少なからずワタシはそんな感じです。

全盲の経営者である友人をワタシが上野駅に同行してるのは
在来線の宇都宮線、宇都宮が終点の最終電車に彼を乗せるため。

問題は、
・その電車は何番線のホーム?
・そのホームはどこ?
・乗る前にトイレ行っといた方が良いね、トイレどこ?
・グリーン車は何号車?
・その号車に乗るとこはどこで待てば?

こんなのは目に不自由がなければ、
問題なんて話ではなく、
掲示板とか案内表示を遠目からでも目視すればそそくさと解決する。
以前のワタシももれなくそうでした。
今は、遠目とか目視とかの「目」ってのが、
ちょっと不自由なだけにこの問題を処理していくことに少々とまごついちゃう。
それでも、ワタシもその友人も上野駅には慣れてるから、
問題なんかじゃなかろうと。
駅員さんのサポートは必要なかろうと。
神田での飲みもちょっと早めに切り上げてきたし。
そんな調子で、ある意味では想定の範囲内で2人でまごつきながら、
目的のホームにいよいよと着いたのが終電がやってくる時刻の10分前。
(ナイス。)
とココロで小さくガッポーズして
やってくる電車を待ってました。

すると、

「あれ?」
「あれ、、やば、、」
「ないわ、、」
「ん。ない、ないわ。」
と隣でリュクをまさぐって焦ってる友人。

(スマボかな?)
(スマホなら神田の店かな?)
と想像しながら眺めてたら、

「白杖、、」
「白杖がない。。」
と。

(はくじょうね。)
(はくじょうがないのね。)
(はくじょうって、白杖??)
って脳で漢字に変換された瞬時に
「え?白杖ないの?」
と聴く。
よく見えてないはずなのに青ざめた表情がありありとな友人は
「ん。白杖がない。」
と言うのです。

(なんで?)
とか一瞬は思うのですが、
ワタシも経験がないことはないことを思い出し、
「トイレ?」
と聴くと、
「あ!トイレだ!」
と。

トイレに置きわすれたことあるんです、ワタシも。
誰かのサポートを受けてトイレに行き、
サポートされて便器まで行き、
白杖を立てかける。
用を済ませてトイレを出るまでもサポートを受けると、
白杖を取らないまんまにその人の腕につかまって出ちゃう。
サポートがあるから安心して歩いてて、
自分が白杖持ってないことに気づかない。
あれだなと。
宇都宮駅に着いた時、彼の手に白杖がなければ、
ひとりでは歩けない。

「じゃ、ここで待ってて。」
「オレ、取ってくっから。」
と彼に伝えてトイレに向かう。
繋がって2人で歩くより自分1人で向かった方が早い。
そんな算段でトイレに向かう。

ここでの問題は、
・終電の時間に間に合わなければならない
・さっき寄ったトイレまで迷ってはならない
・そのトイレで白杖を目視できるか?
・白杖をゲットしたらホームまで迷ってはならない

こんな当たり前のことが今のワタシには当たり前にはできない。
なんなら、走れメロス。
な割に安易にスタートは切っちゃってる。

トイレの直前ところでちょっと迷ったもののトイレに入る。
この辺だったなという便器の前に立つ。
便器の右にも左にも白杖はない。
手洗いか?として確認してみるものの、
手洗い場にもない。
ないという100%の確信ではない。
目の不自由さからすると、
なさそうという曖昧なものだから、
見つけられなかっただけかもという不安はどっかで抱えてる。
手洗いにはない(だろう)として、
同様な不安を抱えていた便器にもう一度戻る。
この辺で時計が刻む音が振動までをも感じさせるようにうるさく頭ん中で鳴りだす。
冷静にと自分で自分を落ち着かせようとして便器の前に立ってみると、
驚くほどの目の前に折り畳んだ白杖のようなものを発見。
掴んでみると紛れもない白杖。
(折り畳んでたのね。)
(で、こんなとこに置いたのね。)
と掴んだ瞬間の場面は、
あのテレビ番組「逃走中」で果敢にミッションに挑んで、
成功させた、なりきり勇者ワタナベ。
走ってホームに駆け込みたいところでも、
怪我でもしたらアホだとして落ち着いて歩いてホームに戻る。
戻れた。

「ありましたー!」
そう上気して伝えたあの時のワタシの姿は、
「はじめてのおつかい」でママが待ってる家に帰ってきた、
なりきり5歳児の勇者シンイチ。
友人は抱きしめても、よしよしもしてくれなかったけど、
揚々と別れを告げて、
宇都宮線の最終電車に白杖をついて乗り込んで帰宅の途に。

電車の音が消えてひとりになったホームで
ココロん中ででっかいガッツポーズ。

(さ。帰ろ)
として、まだ時間には余裕がある常磐線のホームへ。
ワタシも帰宅の途に。
白杖持った50過ぎのおっさんがニヤけ顔で歩いてる。
達成感に浸ってるとはいえ、
異様なな絵面だった気がします。

当たり前だったことが当たり前のようにはではなくなったけと、
ちょっと難しいかもってところにチャレンジして誰かの役に立てるってことが、
嬉しいと思う感覚。
あるんですね。
ありました。

誰かと比べて出来ないことが悲しいとか悔しいとか思う感覚は、
あるのはある。
あります。

上野駅でワタシがしたことは、
トイレに戻って忘れ物をとりにいって、
限られた時間内に帰ってきた。
それだけのことで、たいしたことじゃない。
たいしたことじゃないけど、
嬉しいって感覚が今のワタシにはちゃんとあった。
あったんですね。
ありました。、

ないわけはない。
どんな状況でも嬉しいことがないなんてことはないはずだ。
あるって断言なんかはできないけど、あるはずだ。
あって欲しい。
頭ではモヤモヤと理解したり期待してたけど、
あった。
たいしたことじゃなかったからこそ、
あったことの重みがあった。

(どんな状況でも?)
そう自身で問い返すと自信はありません。
わかりません。
だけど、
(そんな状況でも?)
と今の状況に基づいて他者からワタシへの問いがあるなら
「あるよ。」
って言える。

(言えるって体験だったんだぁ。)
子供用のイスに座ってる5歳児の自分。
もう1人の自分は笑顔で息子の目を見つめるママの自分。
その話をただただ嬉しそうに頷きながら聞いてくれるママ自分に気を良くしてる5歳児自分が、
冷蔵庫から缶ビールを取り出してきてカシュっと開けて、
躊躇なくゴクゴクする。
(もう、しょうがない子だなぁ。でも今日は良いよ。)
と言ってよしよししてくれるママ自分。
調子に乗りまくってる5歳児自分は焼酎ロックを指でかき回したりして3杯目はほとんど手をつけずに寝落ち。
(まったくぅ。)
という言葉とは裏腹な笑顔の
ママ自分に抱かれてベッドで寝息を立てる5歳児自分。

顔はどちらも今のワタシなので、
あまりにグロい絵面なのですが、
誰かに評価されるわけでもなく、
誰かと比較をするわけでもない、
自分の中での嬉しさってやつが、
生の温かみを感じさせてくれる体験だったような、
そんな気づきがあった気がします。