視覚障害者で文字の判別が難しい人は、
本を聴きます。
全国の図書館にある本のほとんどは、
視覚障害者のためにと音声データになっていて、
それを無料で「聴く」ことが出来ます。
こうして聴くことで本の内容を理解することをワタシたちは
「本を読む」って言います。

テレビや映画も、映像を見ることは困難または無理だから、
聴くことを頼りに「観る」わけで、
それを「テレビを聴く」とは言わずに、
「テレビを観る」と言うように、
本も「読む」んですよね。

実は、この言い方は視覚障害者になったばかりの頃のワタシには、
まったくピンとこなくて、
「あの本聴いたんですけど、」
みたいにして自然に言葉をチョイスしてたのですか、
それから出会った視覚障害者の先輩たちは、とっても普通に、
「あの本読みました?」
とかって聞いてくる。

(てか、読めないよね?)
(あれ、聴いてるよね。)
って思うんですけど、
「あ、え、読みました。」
って答えてるうちに、そうやって数年が過ぎた今は
「本を読む」って言葉はワタシの中でチョイスされたものではなく
「読めないから聴く」のではなく
「読みたいものを読む」感覚が身についてきてるんだな。
なんて、思ったりしてます。

今朝の散歩ん時から、
iPhoneにダウンロードした音声データによる
一冊の本を読み始めました。
稲盛和夫さんの著書である
「成功への情熱」
って本です。
十数年前に読んだ本で、
何度か読み返したりもした本でした。

ワタシがまだ30代の若かりし経営幹部なんて時、
スーツ姿で立ってるのは新潟駅のホーム。
日帰りで新潟にやってきて部下の車で、
お取引先をワチャワチャっと回り、
新幹線の終電までと、打ち合わせを兼ねて、
部下との食事をチャチャッと終えて東京行きの新幹線を待つホームでした。
ホームにあった売店でビールとつまみを買って、
(そういえば、本読みきってたな。)
てなことで、売店にぶら下がってるかのような、
クルクル回る小さな鳥籠くらいのサイズの本棚から
(あ、稲盛和夫さんか。)
(稲森さんの本は読んだことないから買ってみるか。)
というくらいで、手元に読む本がなくなってる手持ち無沙汰を解消するために
何の気なしに手に取った本でした。

この本がもう、
席に座って読み始めたらドップリと引き込まれちゃって、
約3時間くらいの新幹線のなか、
感覚的にはトイレも行かなきゃ、
ビールも飲んだんだか、つまみは食わなかった気がするし、
なんなら息もしてなかったってくらいに集中して、
入り込んじゃったんですよね。
上野駅で降りれば良いところで、
最後の数ページだからと東京駅まで席を立てなくて、
東京駅のホームで最後まで読んで、
(帰ろ。)
って動き出した。
その東京駅から家までの約1時間は、
余韻に浸りながら、
本を通して稲森さんからもらったエネルギーを、
自分の仕事にどう活かすのかって
クソ真面目に反芻するくらいに上気してた。
そんな記憶が鮮明に残ってる、
あの時の情景が目に浮かぶ、
あの時、ゴリゴリに仕事しまくってた状況も懐かしく思い返せる、
そんな本なんです。
素敵な出会いを思い出せる本なんです。

でも、

それがですね、、

その本の内容とやらは、

よく覚えてない。

ほぼほぼ覚えてないんです。

きっと天国なんてところにおられるだろう
稲盛和夫さんに言い訳するわけじゃないんですけど、
や、
ちゃんと言い訳するんですけど、ココロには刻まれてるんですよ。
あの本との出会いは、
ワタシのココロのあり方に大きな変化を与えてくれた。
謙虚な言葉で連ねられた稲森さんの経営哲学が、
ワタシのココロに、
勇気を与えてくれたんです。
ワタシに足らないところを明確にしてくれて、
若造ながらに感じていたけど、
言葉なんかには到底ならなかった自分自身の仕事に対する哲学みたいなもんが、
(そんなに間違っちゃいない)
って思わせてくれて、
とんでもない経営者にその若造の背中をチラッと押してもらった
そんな気がしたりしたんです。

で、でも、
はい、そうなんです。
よく覚えてない。

なので、
4月からの新たなスタートにあたって、
3月を過ごす自分に向けて、
稲森さんの哲学を復習しとこうと。
今朝、三分の一くらい読んで、
稲森さんの哲学に改めて触れてみると、
30代の経営幹部であった自分と
52歳の新人である自分と、
同じようで全然違う自分が、
この本をどう読んで、どんな変化を起こすのか、起きるのか、
(本って、素敵だなぁ。)
って、

薄い黄色の菜の花が芽吹き始めた江戸川の土手を
iPhoneにイヤホン繋げて歩く。
いよいよ、
春ですね。