昨晩は大学でお世話になってる先生がたとの飲み。
酒飲んでりゃ基本的に楽しいワタシなのですが、
大学を辞めちまうオトコを囲んでくれて
あーだのこーだのって笑いが絶えない飲みの席は、
心地よくて有り難くて楽しくて。

つくば駅を11時過ぎに出る上りの終電に乗ると、
乗客はまばらでスカスカなんですけど、
たっぷりと美味いもん食って腹はパンパン、
ビール、赤ワイン、焼酎、お店変えてのビール、白ワインで、
肝臓もパツパツ、
食って飲んで笑って温まって、
ココロはマフマフ。
スカスカ電車の座席でリュックを枕に寝っ転がっちまおうか、
なんてヤンチャがチラッと過ることなんかも含めて、
スカスカ電車の帰り道も楽しく、
パンパンに楽しい夜でした。

(ありがたい縁だなぁ。)
なんて思ってですね。

縁【えん】って、
使い勝手が良い言葉だなって思ったりで好きです。
運【うん】ってのと、
仲間のような雰囲気ありますけど、
運より縁の方がちょっとだけ、
芯食ってる感じがしたりします。

誰かに褒められた時に
「運が良かったんでしょうね」
って言うと謙遜が臭って脂っぽい感じですけど、
「縁があったんでしょうね」
ってのはほのかにリアルが香ってアッサリしてる。
誰かが失敗した時に、
「運が悪かったすね」
ってのはちょっと寄り添えてない気がするけど、
「縁がなかったすね」
ってのはスッと後押ししてる気がする。

言いたいことは同じで、
ほぼほぼ同じことを言ってるようで、
縁という言葉の佇まいに
自分の選択とか自分の行動による主体性が滲んでる。
そんな感じが好きな理由なのかもと、
ブログを書きながら思います。

で、今朝。
パンパンの余韻を感じながら歯磨きしてて。
縁【えん】って【ゆかり】とも読むな。
と思って、
(てか、縁ってそもそもなんなんだ?)
って歯ブラシを咥えたままにGoogleさんに意味をお尋ねすると、

つながり
って出てきました。

(つ、つまらんな。。)
そりゃそうねって感覚。
運【うん】が【はこぶ】って読み方をするように、
運び運ばれるのが運で、
運ばれてつながると縁なんだわな。
くらいには思えて
なるほど仲間っちゃ仲間だなと。
思ったりはしたその先に、

縁【ふち】って読むことをGoogleさんが遠慮がちに示してる。

(あ、そうね、ふちって読むわ。)
ってシックリで、
額縁【がくぶち】って使い方でガッチリとシックリ。

(額縁かー。。)
(あいつ、確かに、)
(縁【えん】の象徴みたいだわ。)
って昨晩の楽しさを思い出しながら、
しんみりと納得しちゃいながらゴシゴシ再開。

ちょっと殺風景な部屋に絵を飾ろうよ。
ってよくありそうな話があれば、
人の評価なんぞは気にせずに大好きな絵を飾ろうと。
そこにあるのは、
飾られようとしてる空間と壁と絵だけのようで、
実はそんなことないなと。

額縁【がくぶち】っていう額【がく】という縁【えん】によって、
壁と絵がつながる。
つながり。
つながりがあるから、
殺風景だった空間の空気が色を変えて、
人のココロの色をも変える。
額縁の存在なんか忘れて絵【え】という製品というか芸術作品は成り立ってるようで、
実は、絵と、額縁と、壁とで、
絵であって、製品で、芸術作品で、
額縁の存在価値は高いなと。

飾るのは壁だから、
その壁は何色?
その壁の素材は?
その壁の広さは?
その壁と大好きな絵とで縁【えにし】
を生み出すには、
どんな縁【ふち】が良いだろう。
そうやって選ぶ額縁なる縁【えん】は、
自分で選べて、自在に変化する。

同じ壁に同じ絵であっても
額縁という縁が絵を活かし壁を活かし、
空間を変える。
逆も書いとくなら、
額縁という縁が絵を殺し壁を殺し
空間を変える。
ことだってある。

商売なら、
マーケットとか市場とかいう背景にある「壁」があって、
私とか自社とかいう「絵」があって、
それを繋げてくれるのは常に人であるという「額縁」があって、
誰かのココロの色を変えて、
いつかマーケットは色を変えて、
社会が変わる。

やっぱり、
縁って言葉の佇まいは運【うん】とは違いますね。

・ワタシという絵。
・社会という壁。
・それをつなげてくれる縁縁

昨日笑い合った人たちが作る空間には、
そんな素敵な額縁のような縁が感じられる。
そしたらワタシは、

・縁のある人である絵
・社会という壁
・それをつなげる額縁なるワタシ

こうやって、
新たな空間が生まれてくのだとしたら、
運ではなく、
縁だった。
として、いつかのいつかにも、
先生と言われる人たちと、
アホな話でバカ笑いしてるような、
そんな気がします。