納豆の食べ方っていろいろですよね。
地域とか家庭とか個人によって流儀みたいなのがあったりしますね。
ワタシもここ最近で身につけた流儀があって、
その流儀に従って食べると
(ん、んまいわ。)
ってなるんですけど、
今朝はその流儀ってやつについて
ネバネバと感じたりコネコネと考えたりしながら、
納豆な朝でした。

郷ひろみさんが教えてくれたんです。
「徹子の部屋」だったと思うんですけど、
「あなた、いつまでもお若くてらっしゃるけど、どんなもの召し上がってるの?」
なんて徹子さんが聞いたんだと思います。
それに対する郷ひろみさんの答えが、
「毎日、納豆食べてます。ジャパン!」
って言ったと思うんです。
ひとまず、ジャパンは嘘です。
までも、納豆食うんだって言ってました。
で、
「納豆はどんな風に召し上がるの?」
なんて感じの質問に、
「ボクのこだわりがあるんでんすよ。リー!」
って、リー!はやっぱり嘘なんですが、
なにやら彼の流儀みたいなのがあるらしい。
(なになに?)
ってワタシの目と耳はこっからギュッてテレビに集中しました。

こんなこと言ってました。
納豆のタレとカラシを入れる前に、
200回混ぜるのだと。
これは、
100回でもなく、
300回でもないのだと。
100回ってのも300回ってのも試したんだけど、
200回がちょうど良いんだって。

郷ひろみがあの納豆パックを開けて、
まぜまぜとネバネバしてるってのも可愛らしい感じですが、
正直な感想は
(めんど。。)
って思いました。
とは思ったものの、いつまで経っても気持ち悪いくらいに
郷ひろみじゃないですか。
あのお方。
そんなお方が言うのなら1回は試してみっかなとも思えた。
で、
やってみたんです。

パックをパクッと開けて、
タレとカラシを外に出して、
あの薄ぅいのを長年培った手つきでふんわりとって、
気合を漲らせた右手で箸を持ち、
くまのプーさんが高速でハチミツを混ぜるかのように、
や、
納豆かき混ぜマシーンになりきったつもりで
高速で、こぼさぬようにで、
リズミカルに、回すようにで、
200回。
ちゃんとカウントしちゃったりして、
マゼました。

そうするとですね、
なんだか、ふんわりするんすね。
そこヘタレとカラシ。
んで、馴染ませるようにまぜまぜ。

で、ワタシはご飯にオンはせずに、
パックを口元に運んで、
ズズっとするとですね。
(ん、んまいわ。)
って感じだったんです。
なんかマイルドになるって感じですかね。
なんか品がある感じ。
食感も味もふんわり。
(ひろみ。ん、良いよ。)
ってココロで報告してから、
米をパクッと口に運ぶってのが、
ここ最近のワタシの流儀になったわけです。

この流儀を身につけたことによって、
ワタシになにが起きたかというと、
納豆食べなくなっちゃったんです。
まったくじゃないんですよ、
ただ、明らかに納豆を手に取る回数が減ったんです。

てか、
やっぱり、
面倒なんです。
郷ひろみさんに教わって自分のものにしたはずの流儀。
それが面倒になってる。
そんな自分と流儀との関係性に
今朝気づいた。

(納豆ね、ん、いいね。)
(ま、食いたいけど、ん、面倒ね。)
(いいか。今日は。)
って思う回数が増えて口にする回数は減った。

で、今朝は、
(納豆ね、ん。いいね。)
(ま、食いたいけど、ん。面倒ね。)
(いいか。今日は。)
で、
(や、、最近食ってねーぞ。納豆。食うか。)
(てか、200回もマゼなくたって良くね?)
って思えたら、
愛してたけど疎遠になってた納豆を手に取り、
パックをパクっと開けての、
タレもカラシもすぐ入れてーの、
サササっとマゼーので、
口元でズズッと。

したら、
(ん、んまいわ。)
なんですよ。
全然普通に(んまい)んです。
食感も味もマイルドって感じじゃなくて、
これぞ納豆!みたいな主張してやがって、
品なんぞは捨てちゃってる荒々しい納豆野郎。
って意味わかりませんが、
(ん、んまいわ。)
って思えた。

で、気づくわけです。
(あ、流儀に縛られてたな。)
(自分で自分の首絞めちゃうなやつだな。)
って。
ワタシってそもそもでそこそこに
いい加減なやつなんです。
流儀に縛られたりってタイプではないはずなんですけど、
そんな自分もいるんだなって思えたのは、
なかなか良い気づきだなって思えて。

患者さんにストレッチとか運動法とかアドバイスするんです。
1回の治療だけでの改善には限界があるから、
「こんなんしてみましょうね。」ってやるんです。
そういうののやり方ってYouTubeなんかでバリバリ出てるわけです。
ワタシもそんなので勉強したりもするんですけど、
流してる側の人は自分の流儀を観てる人に伝授してるわけですよね。
YouTubeなんかを観てると
その流儀ってのの伝授の仕方には、
種類は2つあるように感じられました。

①ちゃんとでやんなきゃ意味ないよ
②ちゃんとじゃなくても意味あるよ

って感じの2種類。
どっちが良いですかね?
って質問自体がぶっきらぼうなのは、
(継続してやること)
ってのが条件として付けてないからなんですよね。
じゃ、
(継続的にやる)ことを条件に、
①と②のどっちが良いかといえば、
①がベストで、
②がベター。
どっちも「良い」んだと思うんです。
(やんない)
よりは絶対良いはず。

(そっか。。)
って整理をつけられるのは、
郷ひろみさん。
あのお方は①なんでしょうね。
自身の流儀にベストに関わり続けられる人。
それが郷ひろみってのを持続する術なんだろうなって。

で、
ワタナベシンイチってやつ。
納豆で深々と理解させられちゃうのが、
①はムリってタイプで、
②である自分を受け入れた方が良いなって、
思えたわけです。
それでも継続してりゃ良いなって。
ベストな流儀に縛られちゃってやらなくなるくらいなら、
ベターなやり方でも良いから継続できると良いよね。
って思うワタシは、
治療人として患者さんに対しての指導は
②を使うという流儀。
それで良いかなって。


人に指導するのって難しいんですよね。
言うのは簡単。素人でも出来る。
やらせるのは難しい。
継続させるのはさらに難しい。
結果を出すのがプロ。

プロ中のプロである郷ひろみさんが継続しまくってる流儀って、
他にもめちゃめちゃありそうですよね。
そういう方には
①という指導の流儀も身につけられてれば、
治療の幅が広がるよな。
そんなことも考えさせられて、
コネコネとネバネバした朝でございました。