中華チェーン日高屋の「野菜炒め」が好きなんです。
こいつをツマミにホッピーするってのが、
センベロ魂をくすぐられちゃうんですよね。
んで、しっかりと美味いんです。
その両輪がぐるぐるしちゃってるもんだから、
控えめにいって「好き」なんですけど、
ここにちょっとした贅沢が隠されてて、
今日は堂々と「好き」って告白をしちゃいます。

最近、また目が悪くなってですね、
視覚障害の度合いが進んじゃいました。
野菜炒めってのは、
キャベツ、玉ねぎ、ニラ、にんじん、モヤシさん
あたりがわちゃわちゃ炒められちゃったやつですけど、
目の前でほんわかと湯気がたってるものが、
なんかの豊かなイタズラで豚肉がしっかり入ってる「肉野菜炒め」であっても、
それは今のワタシにはわかりません。
でも、「野菜炒めでーす!」って店員さんが言ったところに、
ラーメンが出てきたら、
「これ、ラーメンですよね?」
ってのはわかります。
ただ、そのラーメンがチャーシューメンなのかモヤシそばなのかはわかんない。
ような感じで、
野菜炒めを愉しんじゃうときに、
キャベツなのか玉ねぎなのかモヤシさんなのかはわかんないってところに箸を突っ込んでつまみ上げて口に入れる。
ラーメンであれば、
麺だけつまんでるのか、
メンマも一緒に摘んでんだか、
チャーシューは何枚入ってんだ?
ってのが視力ではわからないってくらいな感じです。

なので、
ちょっと作戦立てづらくなったんですよね。
食べる時って(どう食べ進めるか)って作戦を立てるじゃないですか。
チャーシューが2枚と目視したら、
序盤でファーストチャーシューして、
そのチャーシューの品質を確認した後に、
セカンドチャーシューはどのタイミングで?
単独で行くのか?
麺とのコンビで食うのか?
や、メンマとか?
みたいな普段は誰にも話したことなんかない気持ち悪い作戦。
立てませんかね?
ワタシは立てまくり派だったんですけど、
最近はそれが出来ないだけでなく、
なんなら一口目でダブルチャーシューしちゃって、
(にゃっ!2枚。。)
って理解をしても1枚を口から出すってわけにもいかず、
(もう1枚入ってたりしないかしら??)
って淡すぎる期待と、
(入ってるわけねーな)
って絶望感を交錯させながら食べ進めるみたいに、
作戦を持たない食べ方になるんですよね。

これって少々とってレベルではあるんですけど、
悲しいといえば悲しいんです。
(作戦が立てられなくなったな。。)
って、少々で一瞬なんだけど落ちるんです。
いわゆる、出来てたことが出来なくなる悲しさコレクションの一個に入ったことを確認して落ちる。

しかしっすね。
日高屋の野菜炒めがワタシに元気を与えてくれるんです。
野菜炒めのアイツがです。
アイツったら、
本名は「野菜炒め」って名乗ってるくせに、
肉が入ってるんですよ。
チョびっとで、チーっちゃいんだけど、
確かに
(肉だ、、豚肉だ!)
って上気させるのが野菜だらけの中に潜んでるんです。
まさに潜んでるんです。

きっとですね、
きっとですよ。
ワタシの目が一般的に正常とされてたときだったら、
そんな潜んでるやつだって
チョびっとだろうが、チーっちゃかろうが、
上気させるターゲットをしっかりと目視して、
あの作戦ってやつを立てたと思うんです。
そいつらをどこでどのタイミングでつまみ上げるのか。
って気持ち悪い作戦を。

そんなことを想像させたのが、
今のワタシの視力で野菜炒めを食べるときに、
作戦を持たないことの
贅沢【ぜいたく】ってやつを教えてもらった気がするからなんです。

わからないんですよ。
アイツの中のそいつが、いつやってくるのかわかんない。
でも、
絶対にやってくるんです。
野菜炒めの中の豚肉に出会える瞬間が。
チョっとで、チーっちゃいくせに、
チョっとで、チーっちゃいからなのか、
(は!来たね?いらっしゃい!)
って、
意図せずやってきた口の中でのチョっとした出会いが嬉しくて美味い。
その瞬間が贅沢を感じさせてくれるんですよね。
この感覚を読んでくださってる方々に伝えられてるかは
まったく自信はないのですけど、
(こういう贅沢ってあるんだな。)
って感じられたことが嬉しかったんですよね。

豚肉がしっかりと入ってる「肉野菜炒め」ってのも日高屋にはあるんです。
これも好きです。
スゲー美味いです。
ただ、ここに贅沢ってのを感じたことはありません。
「野菜炒め」にこそある
チョびっとて、チーっちゃい贅沢。
作戦って範疇にはない贅沢が新鮮だった。

(贅沢ってこういうことなんかな?)
って考えさせてもらったんです。
高級とか豪華とか作戦のあるもてなしってのにある贅沢ってのは、
確かに漫然とあるのはありますけど、

ぜんぜん身近にあるなって。
で、それは、
自分の環境が変わろうが、
変わったなかでの贅沢ってのがあるなって。
言い換えれば、
年齢は毎年毎年一個づつ大きくなすし、
身体の環境は老化によって誰だって変わるし、
社会の環境は変化しまくるし、
そんなのに伴って自分の環境は必ず変わってくものだけど、
チョびっとだけど、
チーっちゃいのかもだけど、
贅沢はいつも身近なとこにあるんじゃないかって。
思えてですね。

元気っていうか、
勇気っていうか、
勇気は言い過ぎかもしれないですけど、
受け入れられるっていうか、
悲しいって感情の色合いを変えてくれたような

アイツ。

日高屋の「野菜炒め」ってやつです。
ステキなやつなんです。
より美味しく食べるコツは視覚障害者になったつもりで、
なんなら目を瞑ってみたりして、
作戦を持たずに、
作戦を持たないからこその、
チョひっとでチーっちゃい贅沢を
お試しあれ。