はいな。
僕の昔の友人にも
ひきこもりは何人かいます。
僕の友人なので
年齢的にも かなりヤバいし、
もちろん、親は年金暮らしであったり
生活保護世帯であったりします。
それほど裕福でもないのに
ひきこもりになってしまい、
親も、
「この子は死んだことにして欲しい。」
と嘆く親がほとんどではあるけども
自分のお腹を痛めて産んだ子だから。と
なんとか生活しているといった感じです。
持論ではありますが
基本的にひきこもりは放っておけばいい。
と思っているわけですが、
この放っておくことが出来なくなったのが
今のひきこもり問題とも言えます。
ひきこもりは 他人の目を気にしますので
何とかしようとすると
余計にひきこもってしまいます。
周りが引いていけば
波のように、
こちらが引けば、向こうは出てくるわけです。
何もすることがなければ
自分に向けられていた意識も
周りを気にせずにいられなくなり
外に出てくるわけです。
ただ、これは、昭和の時代までの話。
では、昭和と今とでは何が異なるのか。
それは、ひきこもっても
やることがないわけでもなく、
案外、やることが多くて
そして、それほど孤独でもなければ
考える時間も 見つめる時間も
そんなに無いのが 今の時代です。
その原因は、ネットやゲーム、
また、ビデオやテレビなど
ひきこもっても、やることが多いわけです。
与えられる刺激が多くて
自分から取捨選択して見つめる時間なんてなくて
与えられた刺激に応え続けるだけで1日が終わります。
特に ひきこもると
体力面でも落ちてくるので
1日に応えれる体力も落ちてきて
疲れやすくなりますし、
与えられた刺激に対して考える力だけ残されて
興味が外へ向かわないわけです。
どうにかしなきゃ。
と気づいた頃には
既にどうすることも出来なくて、
何かをしたところで
思い望むようなものが手に入るチャンスは
既に失われていて
嫌な思いをして努力しても
得れるものは少なくて
何とかしたいけども
どうしようもなくなって
問題化してしまっているのが
今のひきこもりの根の深さになります。
ひきこもって直ぐの段階で
ネットやスマホ、テレビや携帯、
そうした刺激物のない部屋に
ひきこませることが出来ていたら
ひきこもりなんて、
問題化しなかったことでしょう。
昔の独り暮らしならば
ひきこもれば電気も止まるわけですから
刺激は遮断され
外に出るしかなくなるわけです。
直ぐに外に出て動き出せば
ひきこもるほどの原因すら
ひきこもるほどでも無いことに気づきます。
でも、今は子供の数も少なく、
親と同居世帯や、
離婚せずに、
なんとか立ち直る事を信じて世話を焼くことで
逆にひきこもり期間を長くしていまっていたりします。
社会負担を問題とするのであれば
ひきこもりなんて放っておいて
生活保護も出さなければいい。
納税の義務も怠ってきたのですから
生活保護の権利も与えなければいいわけです。
しかし、社会負担の問題ではなく
人権としてどうなのか?
の観点から、取り組むのであれば
この問題は個の生きる権利に関するものとなり、
個に対して取り組むわけですから
個によって取り組みも対策も異なってきます。
その個に対する対応が
社会として出来るかと言えば
現実的には不可能に近いように感じています。
社会としては
ある程度の覚悟が必要で
今後は孤独死や飢え死になどの報道も
目にする事は覚悟しなくてはならないと思います。
この中で、
何を守り、何を切り捨てるかの
覚悟と選択がなくては
救える人すら救えなくなってしまいます。
ある程度、年齢が達してからのひきこもりに対して
社会が負担をすることは控えてでも
若い人の対策に徹して
若い人たちの未来の為に
社会資源を使うべきに思うわけです。
ある程度の年齢の人たちの為に
若い人たちが尽くすよりも
人口減の中では
歳を取ってる人は
若い人たちの為に尽くすべきです。
それを社会で公言すると
攻撃の的になるわけですが、
それでも、
少なくなる若者に
多数いる老人の尻を拭くように言うのは
未来を失くす結果を生み出してしまいます。
汚い尻のまま我慢するのは嫌かもしれませんが、
未来を作るためには
少なくなる若者には
自分たちの未来を作るために
生きて欲しいものです。
50を過ぎたような人は
もう自分たちの事は自分たちで
なんとか耐え忍んで
残り僅かな時を
自分で築いてしまった今を受け入れて死んでいき
若者たちには、若者たちのための
未来を作る人生を歩んで欲しいと思います。