2025/11/11発行
↑より抜粋
カルトの「目」のシンボルは
ウエティコ・ヤルダバオート
サタンの親方の全能の力を表現するものだ。

私にとっては、このシンボルは
「盲人の国では一つ目が王」を意味している。
ウエティコは全能ではない。
その力は、人間に自身の力を放棄させる操作から来ている。
ウエティコは、知覚される現実という
小さな箱の中で活動している。
切り離され、反転し
混沌とした状態にある意識はそうするしかない。
人類をさらに小さな箱の中に閉じ込める事で
ここまで勝ち残ってきたのだ。
ふたつの、あるいは第三の目までも持ち
本来の自己と繋がった人類と比べれば
「全能の」ウエティコなど
象の尻に止まったハエでしかない。
それぞれ注意を向けた点が、自己認識である。
周波数の存在しない無限の領域に同化しない限り
自己認識は何らかの周波数であらわされる。
「人間」の意識は別方向に進み
シミュレートされた幻想の周波数に陥る。
連れてこられた道順、自己認識をひっくり返す事で
ここから抜けだすというのが
私たちのミッション(使命)である。
グノーシスは、ボディは牢獄であると見抜いていた。
まさに知覚の牢獄、自己認識の牢獄である。
ボディの制約感覚同様、ソウルも制約の周波数となり
本当の「私」から分離してしまう。
よって「魂(ソウル)を失う」のである。
人種や選択された性的嗜好が
「私」の感覚を決めるという自己認識の瑣末
(さまつ)な事にウォークが執着するのは、すべて操作である。
この操作により、自己はより濃密な知覚近視に陥り
アイデンティティを決定するAIに吸収されてしまう。
自己認識は、概念や知的な論点ではない。
アイデンティティが周波数に影響を及ぼすためには
生きたものでないといけない。
実在するものでなければならない。
それは思想でも信仰でもなく
実在であり認知である、あらゆる波動
あらゆる粒子は、本当の「私」として生き、呼吸している。
私たちはこの「世界」の中にいる事はあっても
決してその一部になるべきではない。
世界の一部になるという事は
そのおとぎ話のような空想に
コントロールされるという事だ。
幻想とシミュレーションの影響に
うち克(か)つためには
これはシミュレーションであるという事を
常に認知している必要がある。
知覚の自由のためには、それが肝要だ。
自分がシミュレーションを体験しているという
意識的、無意識的な気づきが高まるほどに
知覚や現実感覚への影響は少なくなってゆく。
外に出て「自然界」を楽しむ人は多い。
私もそのひとりだ。
ポイントは、それは「自然界」ではなく
そのデジタルコピーであるという事だ。
コピーであっても
素晴らしい芸術を楽しむように
その美しさを楽しむ事はできる。
だが、本来の5Dの現実にある
オリジナルの美しさや神秘は、いかばかりであろうか。
「自然界」はシミュレーションの
技術に従った方法で、コミュニケーションをとる。
動物、昆虫、鳥、木々
そして「自然」全般が、人間のボディと同じように
シミュレーションの一部となっている場合は必ずそうなる。
コミュニケーションや位置確認
認識に、電気や電磁波、音波を使うのだ。
ハチは、ブンブンという
羽音の周波数で植物に花粉を放出させる。
このしくみは
バズ・ポリネーション(振動受粉)と呼ばれる。
必要なのは、シミュレーションと
その電気的コミュニケーションネットワークに
全方位的に埋め込まれている送受信システムである。
映画を映画と知りながら楽しむ事ができるように
シミュレーションやその「自然界」を
ホログラフィックな映画と知りながら楽しむ事ができる。
5Dと無限の世界には、人間の頭で考える事のできない
いかなる言葉をも超えた愛が待っている。
マインドが人工昏睡から醒めるのをずっと待っているのだ。
邪悪を「打破」する方法は
ウエティコのゲームに勝とうとする事ではない。
むしろ、邪悪が私たちを打ち負かす事のできない
私たち自身の中の無敵の場所を見つける事だ。
その「場所」とは、愛と5D認識である。
ウエティコと、それが形にあらわれたものは
私たちを必要としている事を忘れてはならない。
私たちは、奴らを必要としていない。
吸血鬼が鏡に映らないという事実は
そこにいるのは私たちだけで
他には何もないと理解しなければならない。
ウエティコは、私たちの中にある
何かのあらわれであるという事実は
ウエティコの救済は
私たちの救済でもあるという事を意味する。
肝要なのは、私たち自身の中に
この救済を見つけ、それを実行する事だ。
私たちは「人間」ではなく
幻想の「人間」の中に囚われた
拡張認識なのだという気づきは
私たち本来の姿と意識で繋がるきっかけとなるだろう。
それは愛、ただ、愛である。
私たちはその事を忘れるよう操作されてきたが
今こそ思い出す時だ。
ここから先に起こる事は
それを思い出せるかどうかにかかっている。
愛は外側の魅力に限定されるものではない。
愛の本来の感覚においては、魅力は必要ない。
愛を抹消しようとしている世界で
愛の最も純粋な形態を表現する事はそう簡単ではない。
それでも私たちは
そうした愛になろうと努めなければならない。
それが私たちの本質なのだから。
この愛は
恐れるものなど何もないとわかっているので
恐れる事はない。
私たちは無限の永遠であり
現在の経験が何であろうとも、それは変わらない。
この愛は、常に正しいと分かっている事をし
決してその結果を恐れてぶれる事はない。
結果を考えるという事は
正しいと分かっている事を
しないことを考えるという事であり
この愛は決してそんな事をしない。
この愛は感じるものではなく、そう在るものだ。
感情ではなく在り方、イズネス(在ること)である。
自身が無限の認識であると分かれば
本来の「私」である愛と再び繋がる事ができる。
世界中の自由を求めるデモ行進や
イベントのエネルギーは
この点において大きく異なっている。
ただハートを開き、ハートに従って生きるだけでいい。
私は誰か?
私は存在する、した、しうるすべてであり
「人間」と呼ばれる束の間の経験をしている。
あなたは誰か?
あなたもまた、同じである。
そのように生き、そのように在る。
そうすれば、すべてが変わるだろう。
おわり
あとがきより
「罠」は、「夢」「啓示」と続き
現実と呼ばれるものの真実の姿を描きだす三部作の第一弾だ。
導入となる「罠」では、人間を欺く「罠」は
三次元を超えて四次元にまで及んでいる
という説が展開されている。
三次元で見ているものはシミュレーション。
死後の世界も、解像度は上がれど
やはりシミュレーションの範囲内。
大切なのは、どこにいようとも
ハートを開き、愛として在ることではないだろうか。
あなたが生きているうちに劇的な変化が無いとしても
だから何をしても無駄、という事ではない。
あなたがその身体で生きるのは
たかだか100年程度かもしれないけれど
あなたの意識は永遠なのだから。
アイクは「夢」で
肉体を離れたアストラル界にも罠がある
という考察を深めてゆく。
トランプやテック右派、キリスト教右派を繋ぐ軸は
「終末論」であるとしている。
ざっくり言うと、終末が迫るこの世界で
自分だけが勝ち残るという千年王国幻想だ。
そんな連中と「夢」を共有していては
それこそ「電池」にされるのがオチだ。
「夢」では、私たちを取り込もうとする
「夢」のしくみや「夢」から醒める方法を追求してゆく。
さらに三部作完結となる「啓示」では
アストラル界の操作について掘り下げるとともに
近年アイクが注目しているプラズマについても
一章を割いて取り上げている。
アイクの直観が、科学の進歩にともない
理論で説明できるようになってゆき
薄皮をはがしながら真実に近づいてゆくようで
ワクワクする内容となっている。
乞うご期待!
2025年4月吉日
本が発売して、しばらく経ってからつづく

