シナリオがあるこの世界をどう生きるかはあなたの選択次第 | 天然記録

 

 

2009年12月発行

↑より抜粋
 

死とは何ですか?
本体の私たちは死ぬことが出来ないのです。
死ぬのは肉体コンピューターなのです。
それは伝達システムがもはや機能しなくなった時に起こる。
「意識」が自ら選択して、この現実から撤退して
経験を終えたといってもよいのです。

意識は動力源みたいなもので
いわば「プラグをコンセントに差し込んで」
コンピューターに命を吹き込んでくれる。
肉体の死はこのプラグが抜かれた状態です。
死んだり病気になったりするのは
あくまで肉体コンピューターなのです。

キーボードを前にして
コンピューターを使っている人間が
コンピューターウィルスに感染しないのと同様に
いわゆる精神疾患にしても
私たちの「無限の認識」に問題があるのではなくて
コンピューターが障害を受けたということなのです。

コンピューターが故障してしまえば
どんなコンピューター名人でも手に負えない。
コンピューターの潜在能力を
最大限生かすことは出来ないのです。
コンピューターも肉体も古くなって劣化すれば
もう昔のようには動いてくれない、などと言います。

ここで「動いてくれない」
と言っている主語は誰ですか?
そう「有限の肉体コンピューター」ではなく
「無限の認識」な私なのです。


この2つを混同したら最後
私たちの衛星ナビゲーションは
牢獄を開けた道だと思い込んでしまう。
しかも私たちの世界はこの2つを混同させるように
意図的に作られています。
そうしておけば私たちを容易にコントロールし
抑圧することが出来るからです。

細胞はコンピューターチップみたいなものです。
細胞内にあるDNAの二重らせんは
ライブラリーのようなもので
私たちの肉体的特徴のコードを保管し
生殖を通じて遺伝子情報をダウンロードしているのです。
だが、これはDNAの役割のほんの一部に過ぎないのです。

驚くべきことに二重らせんの総延長は
1900億キロメートル超と
最高の機械コンピューターの
100兆倍の情報を保存できるというのです。
だから、その潜在能力や複雑さは
とてつもないものになっているのです。



ただ、既存の科学では
DNAの95~97%は
「ジャンクDNA」と呼んでいます。
要するにその役割が、知性の最先端を誇る科学では
まだ解明されていないということに過ぎないのです。

肉体コンピューターは、常に自らの快適さと
生存に対する影響を吟味し
環境の変化に応じ進化させたりします。
こうした生存本能が備わっています。
死ぬこともない「無限の認識」は
最初からすべてが備わっているわけですから
進化も生存も必要ないのです。

私たちは生存自体に集中すればするほど
肉体コンピューターレベルの現実に同調することになるのです。
で、危険に直面した時に本能的に逃げるか
暴力的になるかどちらかを選択するのです。
逃走か闘争か、です。

そこでです。
本来の私たちとは「無限の認識」であって
肉体そのものではないのです。
私たちはバイオコンピューターを使ってこの世界
現実を経験しているに過ぎないのです。

「無限の認識」である私たちの意識は
振動が速すぎるため、この周波数では
効果的に無限に存在する中の一つ
この目前の現実、物理的世界での領域を経験したり
相互作用は出来ないのです。

そこで
この現実の周波数帯と同調する外殻(がいかく)
つまり5感の枠内に視界限定された
肉体コンピューターを登板させているのです。
だが、肉体は私たちではないのです。

私たちはあくまで「私」に他ならない
「無限の認識」であり
「存在するものすべて」なのです。
自分は本当はすべての力
すべての可能性を持っているのに自分で勝手に

無力で卑小(ひしょう)な存在におとしめているのです。


喩(たと)えてみれば
世界一のコンピューターを持っていて
ハードディスクには色々なファイルや
便利な装置がたっぷり搭載されているのに
使っているのはもっぱらワードだけという状態です。
目覚めていれば、不適切なプログラムを消去するなり
書き換えて克服することも可能なのです。

臓器移植も問題です。
肉体はバイオコンピューターだけに
臓器移植で提供者(ドナー)のもろもろの情報
(性格、才能、性癖、記憶、趣味なんでも)が
移植される被提供者(レシピエント)に
ダウンロードされ、取り込まれるのです。

南アフリカの有名なズールー族
シャーマンのクレド・ムトウによれば、
かつて食人の習慣があった頃
厳しいルールがあったそうです。
死体は必ず強火で茹でること、と。
食べられる側のハードディスクを
完全に破壊しておかないと
「人格」がダウンロードされ
食べた人間に乗り移ってしまうからだそうです。

男か女かは、ただ単に体内の電気化学的な
(男性ホルモンの、テストステロンか
女性ホルモンの、エストロゲン)
ソフトウェアプログラムの表出に過ぎない。
「無限の認識」のレベルでは
人は男でも女でもなく両者が調和した存在です。


自分が男だとか女だとかということは
自分をコンピューターレベルに落とし込んでいることなのです。
そうしたことは、自分が何者かというのではなく
自分が「経験している」という点が大事です。

遺伝子でできた宇宙服
肉体コンピューターを介して、私たちの
「無限の認識」は、この現実を体験しています。

たいがい低レベルの認識は、混乱することがあり
ついコンピューターを自己識別だと思い込んでしまう。
しかし、コンピューターが活動を停止して肉体が死ぬと
私たちの認識は幻想から解き放たれ
本来の自分を取り戻すプロセスが始まります。

けれど、哀れなことに
せっかく肉体から解放された
真のアイデンティティに気づかないで
いまだ肉体という「自己の残存イメージ」にこだわり
地面すれすれの、この世に近いところで
リンボーダンスを踊る幽霊(ゾンビ)
として漂う例もあります。

死は究極の恐怖だと
洗脳し続けてきたのは宗教です。
死の恐怖があるために

「大いなる秘密」を暴けるという時にも人は沈黙する。
医者や聖職者の奴隷となってでも生き続けたい
永遠の地獄など行きたくないと願う。

こんな心配は無用です。
永遠の命を捜し求める必要などない。
なぜならそんなものはすでに持っているからです。
問うべきは、どんな種類の永遠の命かということです。

死とは、実は
ある命から別の命への継ぎ目のない移行なのです。
死とはバイオコンピューターからの撤退に過ぎず
つまりそのコンピューターが機能する周波数帯ないし
次元から撤退するだけです。
私たちの認識は、その後も別の領域の現実の中に
「生まれ変わる」だけなのです。

私たちは「無限の全体」なのだから
この領域から去ることは決してないし
分離という意識も
この混乱した世界における幻想の一部でしかないのです。

死とはそんなに忌むべきものでしょうか?
死の瞬間に肉体を離れ、向こうの世界を目撃し
後に肉体が復活したという証言は
いまや膨大な数にのぼります。

私(アイク)は臨死体験をした人を多数知っていますが
ついぞこの世に戻りたがった人には会ったことがないし
そういった話を聞いたこともありません。

死は暗くうっとうしい究極の恐怖であると長い間

意図的に吹き込んできた勢力があることがよく分かります。
死のみならず、あらゆるものに恐怖を抱かせる。
人は何かを恐れている時が、最も支配しやすいからです。

とりわけ宗教は
まさに犯罪的な働きをしてきました。
死への恐怖を冷酷に操作し、宗教への服従を強いてきました。
何千年もの間、宗教は人々に大きな悲しみとトラウマを与え
大切な人が行くのは天国か地獄か
あるいは暗黒の忘却の世界なのかと悩ませてきたのです。

神よ、私たちを宗教から救いたまえ。

ヴァン・ロメル医師はなかなか的確なことを言っています。

「臨死体験で重要なのは、死を恐れなくなることだ。
自分たちの意識が生き続けること
そこに継続性のあることを経験するからである。
肉体が死んでも、命とアイデンティティは終わらない。
ただコートを脱ぐような感覚である」

「臨死体験中は
人は肉体や覚醒意識の制限を受けないために
はるかに多くの現実を経験することになるのである。
その瞬間の人たちは、意識が以前よりもはるかに広くなっている。
極めて明晰に考えることができ
ごく幼い頃の記憶まで思い出せる上に
身の回りのあらゆる人やものとの
深いつながりを経験することが出来る」

「DNAは情報の送受信機に過ぎない」

「意識こそが命の基盤であること
命とはまず思いやり、共感、そして愛」

その通りです。


認識は存在し続けるのです。
「無限の愛」すなわち「無限の認識」こそが
唯一の真実であり、それ以外はすべて幻なのです。
本当は愛しか存在しない。
それ以外のガラクタは
存在しているように見えるだけで
すべては偽りの中にあるのです。

主流の科学ほど原始的なものもなければ
主流の社会ほど狂ったものもない。
植物や動物と話をしたり
人と人ともテレパシーで意思疎通する。
テレパシーこそ言葉でなく認識による高度な言語です。

この土着コミュニティは
お互いに送受信が可能な周波コードを
DNAに持っているから出来るのです。
それはさらに「無限の認識」と結合しています。
こういうことに主流の科学は無知なのです。
愚者は常に天才を嗤う(わらう)
その典型です。

無知の主流科学が謎としてきたものも
決して謎でもなんでもないのです。
意識を含めあらゆるものの本質が
エネルギーであることを知らないからです。

「魔法の山」というのがあります。
この山は、ありのままの「素」のエネルギーが
満溢(まんいつ)しています。
この山は「人が抱えている雑多な意識を丸裸にしてしまう」
必ずしもハッピーでないことが起きます。
それでいいのです。

この山の途方もない振動数によって
意識転換を意図して来た
人本来のエネルギーにとって有害なお荷物や
ソフトウェアプログラムが剝ぎ取られるからです。
山が選択して人を変えるのではなく
その人自身がチェンジを選択しているのです。

カリフォルニアのマウントシャスタ
ギリシャのオリンポス山
チベットのカイラス山
日本の富士山、聖地、聖なる山
至上の神の里などみんなそうです。
かくなる地は、力の中心であるばかりか
英知の中心にもなり得るのです。

人間、オオカミ、木、山、滝、海、川など
すべてがひとつであり、ひとつの意識
ひとつの宇宙、ひとつの無限である。

私たちは学ぶ必要などありません。
必要なのはプログラムによって
信じ込まされてきたものを忘れることです。
精神は啓蒙(けいもう)に通じる道ではなく
それを拒む障害となります。
「知識」と「知る」とは同じではないのです。

一方は精神であり、他方は無限の認識です。
私たちに必要なのは催眠状態から覚め
自分が何者であるか思い出すことなのです。
それが出来た時、私たちは考えるのをやめ
知ることを始めます。
それを直感とか心に従うなどと言うものもいますが
これは、この現実で普通に見られるよりも
はるかに認識レベルの高い意識から生まれるものなのです。

私たちは学ぶ必要はないのです。
ただ自分が誰かを思い出すだけでいいのです。
自分を解放して知的思考でなく
直感で知るようにすれば、すべては変わります。
無限の認識を含めた範囲まで知覚が広がるようになり
それに対応してバイオコンピューターのプログラムは
それまで私たちの現実感覚の上で享受(きょうじゅ)
してきた独占権を失っていきます。
私たちが変われば、その変化を起こした世界も変わり
もう決して元には戻らなくなるのです。

私たちは、本当は全知の存在なのに
精神と感情というプログラムのせいで
さわやかで抜けるような無限の領域にたどり着けないでいます。
自分を小さなコンピューターと誤認している間
私たちは小さく考えています。
しかし自分を突き抜けた無限の認識だと思えるようになれば
すべてを知ることが出来るのです。
コンピューターは分割と両極性の中でしか考えられない。
しかし認識は、あるのはただひとつと知るのです。

他者からの刷り込み、自ら好んで編集した思い込み
あるいは先入観や固定観念は
「無限の認識」とアクセスする入口に立つ門番です。
私たちは「隠れた手」に操作されて
彼らが知らせたくないことにつながるゲートないし
チャンネルを閉じてしまっています。
私たちは操作者が見せたがっているものを
見ることしか許されていない。

しかし目覚めている状態になれば
それを覆(くつがえ)すことが出来るのです。
横着にして傲慢で冷血な支配者たちは
それを一番恐れているのです。
ゲート、チャンネルを開き、かつ拡張して
意識的に「無限の意識」とつながるようになった精神こそ
彼らにとって最大の悪夢。

私たちは人間ではなく
無限の意識であってすべての可能性なのです。
それから、時間という陥穽(かんせい)にはまらないことです。
そもそも、実際には時間などないのです。
過去も未来もない、無限の今があるだけです。
老化とは、幻を経験しているに過ぎないのです。
そこをわきまえていないと
直感的なひらめきはあなたの所にはやって来ません。
なぜならそれは、時間の存在しない領域にあるからです。
直感はそれを必要とする瞬間
すなわち「今」やって来るものなのです。

時間と同様に空間もないことを知るべきです。
空間の「移動」も脳が電気信号を解読しているだけで幻です。
この世界の操作者は、私たちを催眠術で繰り返し罠にかけ
「限界」と「限りある時間」という
否定的な感覚を執拗に植え付け
そのように私たちをコード化してきました。

そうして、本来持っていた無限の知覚を
長い間記憶喪失させてきたのです。
この事実に、より多くの人が気づき
十分理解するようになれば事態はずっと変わってきます。

 

本編おわり