1959年4月発行

 

昔読んだ本をまた改めて読んでみた

昔の翻訳は読みずらいから

新訳で読みたかったけど図書館に無かった

 

この中で

 

「ある人間を憎むとすると

その時わたしたちは

自分自身の中に巣くっている何かを
その人間の像の中で憎んでいるわけだ。
自分自身の中にないものなんか
わたしたちを興奮させはしないもの」

 

とあるけど

自分自身の中で、不快で受け入れられないから

憎んだり、拒絶したりするので

逆なのでは?と思う

自分や自分の大事な人の命を脅かすから

生存本能で憎むのでは?と思う

自分のお金が盗まれたら

自分の中であり得ない事だから怒るのでは?

 

P101

 

宗教の問題に際しての、ぼくの敬虔な気持ちには
そのあいだに、だいぶ穴があいてしまった。
それでもぼくは、すっかりデミアンにかぶれた考えかたの点で
完全な無信仰を示している学友たちの考え方とは
はっきり違っていた。
そういう連中がいくたりかいたのである。
そして彼らは折にふれて次のようなことを平気で言い放った。
神を信じるのは、ばかげた人間の恥になることだし
三位一体だとか、イエスの聖なる誕生だとかいう物語なんか
まったくの笑い話で、今日まだそんなデタラメを
売物にするなどとは、恥ずべきことだというわけだ。

ぼくは決して、そんな風には考えなかった。
疑いの起こる場合でも、ぼくはやっぱり
ぼくの幼年期の経験全体から
たとえばぼくの両親の送っていたような
信心深い生活が、現実にあるということ
そしてそれは不面目なものでも
偽善でもないということを知っていたのである。
むしろぼくは、宗教的な事柄に対して
あいかわらず、極めて深い畏敬の念を抱いていた。
ただデミアンのおかげで物語や教義をいっそう自由に

いっそう個性的に、いっそう遊戯的に、いっそう空想的に

観察したり解釈したりするくせがついただけである。

少なくとも、彼がのみこませてくれた注解に
ぼくはいつも進んで、楽しい思いで従ったのだ。
もちろんぼくにはあまりにも

どぎついように思われることがいろいろあった。
たとえば、カインの問題などもそうだった。
そして一度、堅信礼(けんしんれい)の授業の最中に
彼は、おそらく一段と大胆不敵な解釈で
ぼくを驚かした事がある。


教師はゴルダカのことを話していた。
救世主の受難と死についての聖書に出ている報道は

ごく幼い頃から、ぼくに深い感銘を与えていた。
小さい少年の頃のぼくは、たとえばキリスト受難日などに
父親が受難記を朗読したあと、しみじみと、感動に満ちて
この切なく美しい、青白い、もののけめいた
そのくせ途方もなく、はつらつとした世界の中に
ゲッセマネに、そしてゴルガタの丘の上に生きていた。
そしてバッハ作のマタイ受難曲に聞き入っていると
ぼくの心は、この神秘な世界の陰鬱な激しさを持つ

苦悩の栄光によって、あらゆる玄妙な身震いで

あふれるほどに満たされるのであった。
ぼくは今日もなお、この音楽の中に
この「悲壮なる行動」の中に、あらゆる詩歌と
あらゆる芸術的表現の真髄を見出している。

 


さてデミアンは、その授業時間の終わりに
考えこみながら、ぼくにこう言った。

「これがね、ぼくの気にくわないことなんだよ。
一度あの物語を読み直してみたまえ。
そうして舌でよく味わってみたまえ。
何かまずい味がするものがあるぜ。
それはね、ふたりの盗人のくだりだ。
丘の上に

例の3本の十字架が立っているところは壮大な眺めさ。
ところが、あのばか正直な盗人についての
センチメンタルな宗教訓話はどうだい。
はじめその男は悪漢で
どんなに悪事をかさねたかわからないくらいなのに
今度はすっかり弱気になって
改心と懺悔のあわれっぽい祭典をあげるんだからね。
こんな懺悔が、墓場の2歩手前で
なんの意味があるんだろう、まったく。
これだってまた

涙っぽい味と、この上なくありがたい背景を持った

めそめそした、嘘っぱちの
本格的な坊主の話というほかはないよ。
もしも君が、今日このふたりの盗人のうちひとりを

友だちに選ばなけりゃならないとしたら
または、ふたりのうち、どっちの方が信頼できるかを
考えてみなけりゃならないとしたら
それはむろん言うまでもなく
あの哀れっぽい転向者じゃないね。
そうじゃない。もうひとりの方だ。
そいつは頼もしい男だし気骨がある。
転向なんぞてんで問題にしない。
そいつの立場からすれば転向なんてもう
ほんのけっこうなたわごとに決まってるんだからね。
そいつはわが道を最後まで歩いてゆく。
そして、それまでそいつに

加勢しないではいられなかった悪魔と

最後の瀬戸際まで縁を切らないんだ。
そいつはしっかり者さ。
そしてしっかりした連中は

聖書の物語の中じゃ、とかく貧乏くじをひくのさ。
ことによると、そいつもカインの子孫かもしれない。
きみ、そう思わないかい」

ぼくは肝をつぶしてしまった。
このキリスト磔刑(たっけい)の話には
すっかりなじんでいたつもりだったのだが
今はじめて、自分はなんと非個性的に
なんと貧しい想像力と空想しか働かせずに
この話を聞いたり読んだりしていたことかと悟った。


とはいうものの、デミアンの新しい考えは
ぼくには不吉な響きがあったし
ぼくの頭にあるいろいろな概念
いつまでも存続するようにと
ぼくが願わずにいられない気のする概念を
土台からゆすぶりそうにしたのである。
いや、まさか何から何まで一番神聖なものまでを
そんな風にぞんざいに扱うわけには行かない。

「つまりね、これがこの宗教の欠陥を
非常にはっきりあらわしている点のひとつなのさ。
問題はこうなんだ。
旧約と新約のあの完全な神というものは
なるほど優秀な人物は人物だが
しかし本来そうあって然るべきものにはなっていないね。
神は、よきもの、貴いもの、父に似たもの
美しいもの、そしてまた気高いもの、感性の豊かなものだ。
その通りさ。
しかし世界は、その他のものからも成り立っている。
そうしてそういうものは、すべて簡単に悪魔のせいにされてしまう。
しかも世界のこの大きな部分、世界の半分全体が
ひた隠しに隠されて、黙殺されている。
たとえば、みんなはあらゆる生命の父として
神を礼讃(らいさん) するくせに
生命の土台になっている性生活全体を
あっさり黙殺するし、悪くすると
それを悪魔の仕業で、罪深いものだと宣言する
というわけさ。
ぼくは、みんながエホバの神をあがめることに
反対はしない。決してしない。
しかしぼくは考えるんだが
ぼくらはいっさいのものを、あがめもし
尊重もしなければいけないんだ。
全世界をだよ。
この人工的に切り離された、公式の半分だけでなくね。
だからそうなれば、ぼくらは神の礼拝と並んで
悪魔の礼拝も行なわなけりゃならない。
それが正当だと、ぼくは思うんだがね。
それでなかったら、悪魔をさえ包んでしまうような神を
作り出すほかはあるまいね。
そしてこの世で一番自然なことが行なわれる時に
こっちに目をつぶらせないでくれるような神をね」

これらの言葉は、ぼくの少年期を通じての謎を
ぼくがたえず胸に抱いていながら
まだ誰にも一言も言わずにいた謎を
ずばりと指したのである。
デミアンが神と悪魔について
神聖な公認の世界と
黙認された悪魔的な世界について言ったこと
それはまさしくそのままぼく自身の考え
ぼく自身の神話なのだ。


つまり、両方の世界、もしくは世界の両片
明るい世界と暗い世界という考えにほかならないのだ。
ぼくの問題が、あらゆる人間の問題であり
すべての生命と思考の問題であるという悟りは

突然ある神聖な影のように、ぼくの上におおいかぶさった。
そしてどんなに深く、ぼくのもっとも固有の
個人的な生活と意見が大きな理念の

永遠の流れに関与しているかを見てとり
かつ突然そう感じた時、ぼくは不安と畏敬の念に襲われた。
その悟りは、なんとなく頼もしさと
幸福を感じさせるものではあったけれど
楽しくはなかった。
それは厳しいものだったし渋い味がした。
なぜなら、そこには責任と
もう子どもでいてはならぬという声と
孤独との響きがこもっていたからである。

「わかるよ。

きみは人に話しつくせないほど、いろいろ考えているんだね。
そこで、もしそうだとすると
しかし、きみは考えたことを
そのまま生活に生かしきったわけじゃない
ということも、自分で知ってるね。
ところが、それはいいことじゃないよ。
ぼくらが生活の上に生かす思想だけしか
値打ちはないんだぜ。
きみの言う「許された世界」は
世界の半分にすぎないのをきみは知っていたね。
そうしてあとの半分を、牧師や教師がするように
そっと隠してしまおうとしたんだね。
そんなことは、うまく行きゃしないぜ。
一度考えることを始めてしまった者には
そんなことだめなんだよ。」

「だって」

ぼくは、叫ぶような声を出した。


「なんと言ったって、世の中にはじっさい現実に
禁じられた、醜いことがいろいろあるじゃないか。
きみだって、まさかそうでないとは言えないだろう。
そしてそういうものは始めっから禁じられている。
だからぼくらは、そんなもの諦めるよりほかはないんだ。
殺人だとか、それこそいろんな悪事が
世の中にあるっていうことは、むろん知ってるさ。
だけど、そんなものがあるからというだけで
ぼくはそこへ出かけて行って
悪漢にならなけりゃいけないのかい。」

「きみはむろん、人をぶち殺したり
娘を強姦して殺したりしちゃいけない。
しかしね、きみはまだ、『許されている』とか

『禁じられている』とかいうのは
いったいどういう意味なのか

それが悟れる所までは行ってないんだぜ。
きみはやっと、真理の一部分をかぎつけただけだ。
あとはこれからやってくる。
間違いなくやってくるのだ。
たとえば、きみは今、まあ、1年ぐらい前から
ほかのどんな欲望よりも強い欲望を心に持っているね。
そうしてその欲望は

『禁じられた』ものと見なされている。
ギリシャ人やそのほか沢山の民族は
それとは逆に、この欲望を神に祭り上げて
盛大な儀式であがめたんだよ。
だから『禁じられている』ものは
決して永久不変じゃない。
いろいろ変わりかねないのさ。
今日だって、むろん誰でも女と一緒に寝ていいんだぜ。
その女を牧師の所へ連れて行って
結婚しさえすれば、すぐにね。
ほかの民族になると、それが違っている。
きょうでもまだね。
だからぼくたちはめいめい
許されていることと禁じられていること
自分にとって禁じられていることを
自分ひとりで見つけなくてはならないんだ。
禁じられたことを一度もしない人が
そのくせすごい悪人だということもある。
そしてその反対の場合もある。
要するに便宜の問題なのさ。
自分で考えたり
自分で自分をさばいたりすることを
めんどくさがる人は

誰でも昔から決まっている禁令に
黙って従ってしまうんだ。
そんな奴は楽なものさ。
そうでない連中は、自分で掟というものを心の中に感じている。
紳士という紳士が毎日やっているようなことが
その連中には禁じられているし
別のことでほかの場合には厳禁されているようなことが
その連中には許されているんだ。
どんな人間でも、独立独行でなければだめさ。」

ぼくは今、教会へではなく
何かまったく違ったものへ
思想と人格の教団へ、受け入れられる心構えをしていた。
そういう教団は、何かの形で地上に存在しているに違いないし
ぼくはこの友だちを、その教団の代表者

または使者だと感じていたのである。

「ぼくたちはしゃべりすぎるよ。
利口そうなおしゃべりなんて、全然価値がない
全然ないね。自分というものから離れてゆくばかりだ。
自分を離れてしまうというのは罪悪だよ。
ぼくたちは、自分の中へ、亀の子みたいに
すっかり潜り込むことができなけりゃだめだ」

P186

ぼくが風変りな音楽家ピストリウスから
アブラクサスについて聞き知った事は
簡単に取り次ぐには行かない。
しかし、ぼくが彼のもとで習った
もっとも重要な事は、ぼく自身にいたる道で
さらに一歩を進めたことである。

 


ぼくはこの頃、18歳ぐらいで異常な若者だった。
いろんな点で早熟な、ほかのいろんな点で
ひどく遅れた、頼りない人間だった。
時々、自分をほかの連中と比べてみるたびに
得意な、うぬぼれた気持ちになることがよくあったが
がっかりしてしょげてしまうことも
それに劣らず多かった。
時には自分を天才と、時には狂人と見なしたのである。
ぼくには、同年配の連中と楽しみや生活を共にするのが

不得手(ふえて)だった。
そして、まるで自分が、望みもなく彼らから
切り離されてでもいるように
人生が自分には閉ざされているように考えて
ぼくは度々、非難と憂慮(ゆうりょ)で
身も細るような思いをした。

彼自身立派な変わり者だった。
ピストリウスは、ぼくに
勇気と自己への尊敬を持ち続けることを教えてくれた。

「きみはぼくに話したっけね。

道徳でないという理由で、音楽が好きなんだとね。
それはそれでいいだろう。
しかしね、きみ自身もやはり道徳家になってはいけないんだぜ。
自分とほかの連中とを比べるのは、よくないな。
そして自然がきみを、コウモリとして造った場合
きみは自分をダチョウに仕立てようなぞと
思ってはならないんだ。
きみはよくきみ自身のことを風変りと思ったり
大多数の人間とは別の道を行くのを
きみ自身に向かって非難したりするね。
そんなくせは、やめなければだめだぜ。
火を見つめたまえ。雲を見つめたまえ。
そしていろんな予感がわいてきたり
魂の中の声が語りはじめたりしたらすぐに
そういうものに身を任せてしまってね
はたしてそれが先生がたやお父さんや
またはどこかの神様にもお気にめすかと
都合がいいかなぞと、わざわざ聞かないことさ。
そんな事をすれば、身を滅ぼすことになる。
そんな事をすれば、歩道を歩くようになって
化石になってしまうよ。
ぼくたちの神は、アブラクサスという名で
神でもあり、同時に悪魔でもある。
明るい世界と暗い世界を一身に宿しているのだ。
アブラクサスは、きみの思想のどれひとつにも
きみの夢のどれひとつにも文句なんかつけやしないぜ。
それを決して忘れないようにね。
しかしアブラクサスは、きみがいつか申し分のない

正常な人間になってしまったら、きみを見捨てるね。
そうなれば、きみを見捨てて
自分の思想を煮立たせるために、新しい鍋を探すね」

「きみは18だね。

きみは街の女のところへなぞ行かない。
恋の夢を、恋の願いを、きみはきっと持っていると思う。
おそらくそれは

きみを怖がらせるような、そういったタチのものだろう。
恐がってはだめだよ。
それはきみの持つ最高のものなんだからね。
本当にそうなんだぜ。
わたしは、きみぐらいの年配の時
恋の夢を無理に抑えつけてしまったので
ずいぶん損をしたよ。
そういうことは、するものじゃないね。
アブラクサスのことを知った以上
そんなことはもう許されないのさ。
何ものをも恐がってはならないし
魂が胸の中で願っていることならなんでも
禁じられているなぞと、思ってはならないんだ」

ぼくはびっくりして、抗弁した。
「しかしまさか、ちょっと思いついたことを
なんでもやっていいわけじゃないでしょう。
まさか、気に食わないからといって
ある人間を殺してもいいわけじゃないでしょう」

「事情次第では、それも許されるのさ。
ただし、たいていは思い違いなんでね。
それにぼくは何も、心に浮かんだことを
なんでも平気でやってしまえなんて言ってるんじゃないぜ。
そうじゃないさ。
しかしね、それはそれなりに、十分な意味を持っている
そうした思いつきをだね、追っ払ったり
道徳的にいじりまわしたりすることで
有害なものにしてはいけないんだ。
自分を、または誰か他人を十字架につける代わりに
おごそかな思想とともに、ぶどう酒の杯を傾けながら
生け贄の神秘を考えることができるのだ。
また、そんな行動をとらなくても
わたしたちは自分の本能や
いわゆる誘惑というものを
大切にやさしく取り扱うことができる。
そうすれば

そういうものは独自の意義を見せてくれるのだ。
みんなそれぞれ意義を持っているのだからね。
もしも今度また、何かひどくキチガイじみたことや
罪深いことを思いついたらね
もしも誰かを殺したくなったり
何かとてつもなくみだらなことをしてみたくなったりしたら
その時は、ちょっとのあいだ、こう考えるんだ。
オレの心の中で、こんな空想を描いているのは
アブラクサスなんだ、とね。
きみの殺したがっている人間は
むろん決してなんのなにがし氏というんじゃない。
変装人物にすぎないに決まっている。
ある人間を憎むとすると
その時わたしたちは

自分自身の中に巣くっている何かを
その人間の像の中で憎んでいるわけだ。
自分自身の中にないものなんか
わたしたちを興奮させはしないもの」

今までピストリウスの言った言葉の中で
これほど深くぼくの心のもっとも
ひそかな所に、ぶつかったものはなかった。
ぼくは返事ができなかった。
しかしぼくにもっとも強く
もっとも奇妙にふれたもの
それは、ぼくが何年も何年も胸にたたんでいた
あのデミアンの言葉と
この話しかけとの一致であった。
ふたりはたがいのことをなんにも知らない。
しかも同じことを、ぼくに言ったのである。

「わたしたちの見る事物はね
わたしたちが心の中に持っているのと
同じものなんだよ。
わたしたちが心の中に持っているのよりほかには
現実なんてありはしないのだ。
たいていの人間は
外部の映像を現実だと思って
心の中にある自分自身の世界には
ちっとも発言させないから
それだからあんなに非現実的に暮らしているわけだ。
そうやっていて幸福になることはできるさ。
しかし一度、あのもう一つのことを知ってしまうと
大多数の道を行くという自由はなくなる。
大多数の道は楽だが、わたしたちの道は辛いのだぞ」

P274

デミアンはぼくの腕を抑えつけながら
顔をぼくの方へ向けた。
暗い、あわれむような、異様なまなざしで。

「ほんとだぜ、きみ。
いよいよはじまったんだよ。

ロシアとの関係がとても緊迫していたのは

むろんきみも知っていたね」

「なんだって?戦争があるのかい。
そんなことは夢にも思わなかったなあ。」

「まだ宣戦布告というわけじゃない。
しかし戦争は行われている。ほんとうだぜ。
ぼくはあれ以来、きみをこの問題で悩ましたことは
一度もないけれど

あの時以来、3度も新しい兆候を見たんだ。
つまりね

世界の滅亡にも、地震にも、革命にもならないんだ。
戦争になるわけだね。
これがどんなことになるか、今にわかるぜ。
世間の人たちにとっては、大いに喜ばしいことだろうな。
もう今から、誰もかれも戦闘開始を楽しみにしてるよ。
それほどこの人生に退屈してしまったんだね。
しかしね、今にわかるだろうが
これは発端にすぎないんだぜ。
たぶん大きな戦争になるだろうな。
とても大きな戦争にね。
しかしそれだって、やっぱりほんの発端さ。
新しいものが始まる。
そして新しいものは

古いものにとりすがっている連中にとって
とても恐ろしいだろうね。
きみはどうするだろう」