昔から彼らの手口は
自分たちの原因をそらすため
ピンポイントで悪と騒ぎ出す
プラが地球環境に悪いと言って
地球環境のためにとレジ袋有料化
不織布マスクはプラ製品
それは1日使い捨て推奨で
567禍で政府はそれを推奨していた矛盾
ゴミが世界中で蔓延するので
プラの環境問題なんて詭弁な事が分かる
逆に、567禍ですべてがお金儲けと思い知らされた
そもそも商品はほとんどプラ、薬も石油でできている
米も長持ちさせるようにプラでコーティング
それは非表示で消費者には知らせない
一番環境破壊しているのは悪徳な企業群
↑より抜粋
汚染といえば放射能を考えるが
化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし
万象そのもの、生命の核そのものを変えようとしている。
20世紀というわずかの間に
人間という一族が、おそるべき力を手に入れて
自然を変えようとしている。
禍いのもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでいく。
もはや元へ戻せない。
今この地上に息吹いている生命がつくり出されるまで
何億年という長い時がすぎ去っている。
発展、進化、分化の長い段階を通って
生命はやっと環境に適合し
バランスを保てるようになった。
環境あってこそ生命は維持されるが
環境はまた恐ろしいものであった。
時こそ、欠くことのできない構成要素なのだ。
それなのに、私たちの生きる現代からは
時そのものが消えうせてしまった。
撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに
農園でも庭園でも森林でも
そして家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。
だが、益虫も害虫も、みな殺しだ。
地表の毒の集中砲火をあびせれば
結局、生命あるものすべての環境が破壊される
この明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。
殺虫剤と人は言うが、殺生剤と言ったほうがふさわしい。
殺虫剤をまくと、昆虫は逆にぶりかえして
前よりもおびただしく大発生してくるのだ。
化学薬品は、核兵器とならぶ現代の重大な問題
と言わなければならない。
植物、動物の組織の中に、有害な物質が蓄積されていき
やがては生殖細胞をつきやぶって
まさに遺伝をつかさどる部分を破壊し、変化させる。
未来の世界の姿はひとえにこの部分にかかっているというのに。
人間の生殖細胞を
人工的に変化させることの可能な時代がやってくると
未来の世界の建設者を自称する人たちは夢見ている。
このようなことは可能なばかりか
今すでに起こっているのだ。
なぜならば、放射線と同じように
化学薬品もまた突然変異をひき起こすことが多い。
虫退治にどんな殺虫剤を使うかというような
一見つまらないことで
自ら未来の運命を決めるとは
考えてみれば皮肉なことだ。
いったいなんのためにこんな危険を冒しているのか。
この時代の人はみんな気が狂ってしまったのではないかと
未来の歴史家は、現代をふりかえって
いぶかるかもしれない。
放射線といっても、岩石から出る放射線でもなければ
この地上に生命が芽生える前に存在していた
太陽の紫外線、宇宙線の砲撃でもなく
人間が原子をいじってつくり出す放射線なのだ。
今や人間は実験室の中で数々の合成物をつくり出す。
自然とは縁もゆかりもない、人工的な合成物に
生命は適合しなければならない。
時間をかければ、また適合できるようになるかもしれない。
だが、時の流れは、人の力で左右できない
自然の歩みそのものなのだ。
ひとりの人間の生涯の間にかたがつくものではない。
何世代も何世代もかかる。
何か奇跡が起こってうまくいっても
新しい化学物質があとをたつことなく
実験室から流れ出てくるとすればすべては虚しい。
害虫などたいしたことはない
昆虫防除も必要などないと言うつもりはない。
私がむしろ言いたいのは
コントロールは現実から遊離してはならないということ。
そして、昆虫と一緒に私たちも滅んでしまうような
そんな愚かなことはやめよ。
こう私は言いたいのだ。
わずか2,3種類の虫を退治するために
あたり一面をよごし
ほかならぬ自分自身の破滅をまねくとは
知性あるもののふるまいだろうか。
農作物の生産高を維持するためには
大量の殺虫剤をひろく使用しなければならない
と言われている。
だが、本当は農作物の生産過剰に困っている。
農地削減に対する補償などをして
生産を押さえようとしているが
作物はやたらとつくられ、1962年度には
余剰食糧貯蔵費総額10億ドル以上を
アメリカ人は税金として納めている。
一つの問題を片付けようとしては
次から次へと禍いをまねいてきた。
人類がまだ地球の歴史に登場する前
そのころ昆虫は地球に棲息していた。
いろんな種類がいて、豊かな適応力をそなえていた。
やがて人間があらわれると、昆虫は人間と衝突しだす。
昆虫が人間の安全をおびやかすのは
大きく2つにしぼられる。
1つは、食糧補給の面で昆虫が人間の敵となったこと
いま1つは、昆虫が疾病を媒介する点である。
だが、化学薬品を大量に使ってもその成果はごく限られ
逆に事態をいっそう悪化させるばかりである。
農業も原始的な段階では害虫などほとんど問題にならない。
だが、広大な農地に一種類だけの作物を植えるという
農業形態がとられるにつれて、面倒な事態が生じてきた。
まずこの農作方法は、ある種の昆虫が大発生する下地となった。
たとえば小麦ばかりがつくられるようになると
前にはいろんな作物があったために
十分発生できなかった小麦の害虫は、思い切り増えてくる。
合衆国の多くの街で、街路に立派なニレの木を植えた。
だが、片端から病気にかかって
夢みた美しい景観も、今では絶望的な状態にある。
病気は、コガネムシが運んできた。
ニレの木ばかりが植えられていなければ
コガネムシも、むやみと繁殖できなかったのに。
何千もの種類の生物が、元々棲息していた地域を離れて
新しいテリトリーへと侵入していくことが多い。
それは世界的な規模で行われる。
新しい国へきてみれば、今までの天敵もいず
植物であれ動物であれ侵入者は傍若無人に増えだす。
私たちが手を焼いている昆虫が大抵輸入品なのは
わけのないことではない。
今では分かっていることは少なくない。
それなのに、私たちはその知識を十分利用しようとしない。
大学では生態学者を養成し、政府関係にも生態学者はいる。
それなのに、滅多に彼らの言葉に耳を貸そうとしない。
化学薬品の死の雨が降る。
他にどうしようもないではないかと知らん顔をしている。
だが、他にもいろいろと方法はある。
何でも発明する私たちなのだから。機会さえあたえられれば
もっといろんな方法を発見できるのに。
みんな、催眠術にかけられているのか。
よくないものも、有害なものも、仕方ないと受け入れてしまう。
環境の破滅という海に溺れてしまうのに
やっと何とか頭だけ水の上に出して
その場をしのぐ生活がいいのだ。
今にも破滅しそうで滅びない世界に
住みたいなどと思う人がいるだろうか。
だが、まさにそのような世界が
私たちの頭上にのしかかっている。
化学薬品で消毒した、虫のいない世界をうち立てるのだ。
十字軍を起しかねまじき狂気の勢いである。
その薬品にどういう副作用や潜在的毒性があるのか
考えてもみなければ知りもしないまま化学薬品を使う。
土壌、水、野生生物、そしてさらには人間そのものに
こうした化学薬品がどういう影響を与えるのか
ほとんど調べもしないで化学薬品を使わせたいのだ。
どんな恐ろしいことになるのか
危険に目覚めている人の数は本当に少ない。
そして今は専門分化の時代だ。
みんな自分の狭い専門の枠ばかりに首をつっこんで
全体がどうなるのか気がつかない。
また今は産業の時代だ。
とにかく金をもうけることが
神聖な不文律になっている。
殺虫剤の被害が目に見えてあらわれて住民が騒ぎだしても
まやかしの鎮静剤を飲まされるのがオチである。
このような虚偽、口に合わない事実に
砂糖のオブラートをかけることなど
もうやめにしたらいい。
化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし
万象そのもの、生命の核そのものを変えようとしている。
20世紀というわずかの間に
人間という一族が、おそるべき力を手に入れて
自然を変えようとしている。
禍いのもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでいく。
もはや元へ戻せない。
今この地上に息吹いている生命がつくり出されるまで
何億年という長い時がすぎ去っている。
発展、進化、分化の長い段階を通って
生命はやっと環境に適合し
バランスを保てるようになった。
環境あってこそ生命は維持されるが
環境はまた恐ろしいものであった。
時こそ、欠くことのできない構成要素なのだ。
それなのに、私たちの生きる現代からは
時そのものが消えうせてしまった。
撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに
農園でも庭園でも森林でも
そして家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。
だが、益虫も害虫も、みな殺しだ。
地表の毒の集中砲火をあびせれば
結局、生命あるものすべての環境が破壊される
この明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。
殺虫剤と人は言うが、殺生剤と言ったほうがふさわしい。
殺虫剤をまくと、昆虫は逆にぶりかえして
前よりもおびただしく大発生してくるのだ。
化学薬品は、核兵器とならぶ現代の重大な問題
と言わなければならない。
植物、動物の組織の中に、有害な物質が蓄積されていき
やがては生殖細胞をつきやぶって
まさに遺伝をつかさどる部分を破壊し、変化させる。
未来の世界の姿はひとえにこの部分にかかっているというのに。
人間の生殖細胞を
人工的に変化させることの可能な時代がやってくると
未来の世界の建設者を自称する人たちは夢見ている。
このようなことは可能なばかりか
今すでに起こっているのだ。
なぜならば、放射線と同じように
化学薬品もまた突然変異をひき起こすことが多い。
虫退治にどんな殺虫剤を使うかというような
一見つまらないことで
自ら未来の運命を決めるとは
考えてみれば皮肉なことだ。
いったいなんのためにこんな危険を冒しているのか。
この時代の人はみんな気が狂ってしまったのではないかと
未来の歴史家は、現代をふりかえって
いぶかるかもしれない。
放射線といっても、岩石から出る放射線でもなければ
この地上に生命が芽生える前に存在していた
太陽の紫外線、宇宙線の砲撃でもなく
人間が原子をいじってつくり出す放射線なのだ。
今や人間は実験室の中で数々の合成物をつくり出す。
自然とは縁もゆかりもない、人工的な合成物に
生命は適合しなければならない。
時間をかければ、また適合できるようになるかもしれない。
だが、時の流れは、人の力で左右できない
自然の歩みそのものなのだ。
ひとりの人間の生涯の間にかたがつくものではない。
何世代も何世代もかかる。
何か奇跡が起こってうまくいっても
新しい化学物質があとをたつことなく
実験室から流れ出てくるとすればすべては虚しい。
害虫などたいしたことはない
昆虫防除も必要などないと言うつもりはない。
私がむしろ言いたいのは
コントロールは現実から遊離してはならないということ。
そして、昆虫と一緒に私たちも滅んでしまうような
そんな愚かなことはやめよ。
こう私は言いたいのだ。
わずか2,3種類の虫を退治するために
あたり一面をよごし
ほかならぬ自分自身の破滅をまねくとは
知性あるもののふるまいだろうか。
農作物の生産高を維持するためには
大量の殺虫剤をひろく使用しなければならない
と言われている。
だが、本当は農作物の生産過剰に困っている。
農地削減に対する補償などをして
生産を押さえようとしているが
作物はやたらとつくられ、1962年度には
余剰食糧貯蔵費総額10億ドル以上を
アメリカ人は税金として納めている。
一つの問題を片付けようとしては
次から次へと禍いをまねいてきた。
人類がまだ地球の歴史に登場する前
そのころ昆虫は地球に棲息していた。
いろんな種類がいて、豊かな適応力をそなえていた。
やがて人間があらわれると、昆虫は人間と衝突しだす。
昆虫が人間の安全をおびやかすのは
大きく2つにしぼられる。
1つは、食糧補給の面で昆虫が人間の敵となったこと
いま1つは、昆虫が疾病を媒介する点である。
だが、化学薬品を大量に使ってもその成果はごく限られ
逆に事態をいっそう悪化させるばかりである。
農業も原始的な段階では害虫などほとんど問題にならない。
だが、広大な農地に一種類だけの作物を植えるという
農業形態がとられるにつれて、面倒な事態が生じてきた。
まずこの農作方法は、ある種の昆虫が大発生する下地となった。
たとえば小麦ばかりがつくられるようになると
前にはいろんな作物があったために
十分発生できなかった小麦の害虫は、思い切り増えてくる。
合衆国の多くの街で、街路に立派なニレの木を植えた。
だが、片端から病気にかかって
夢みた美しい景観も、今では絶望的な状態にある。
病気は、コガネムシが運んできた。
ニレの木ばかりが植えられていなければ
コガネムシも、むやみと繁殖できなかったのに。
何千もの種類の生物が、元々棲息していた地域を離れて
新しいテリトリーへと侵入していくことが多い。
それは世界的な規模で行われる。
新しい国へきてみれば、今までの天敵もいず
植物であれ動物であれ侵入者は傍若無人に増えだす。
私たちが手を焼いている昆虫が大抵輸入品なのは
わけのないことではない。
今では分かっていることは少なくない。
それなのに、私たちはその知識を十分利用しようとしない。
大学では生態学者を養成し、政府関係にも生態学者はいる。
それなのに、滅多に彼らの言葉に耳を貸そうとしない。
化学薬品の死の雨が降る。
他にどうしようもないではないかと知らん顔をしている。
だが、他にもいろいろと方法はある。
何でも発明する私たちなのだから。機会さえあたえられれば
もっといろんな方法を発見できるのに。
みんな、催眠術にかけられているのか。
よくないものも、有害なものも、仕方ないと受け入れてしまう。
環境の破滅という海に溺れてしまうのに
やっと何とか頭だけ水の上に出して
その場をしのぐ生活がいいのだ。
今にも破滅しそうで滅びない世界に
住みたいなどと思う人がいるだろうか。
だが、まさにそのような世界が
私たちの頭上にのしかかっている。
化学薬品で消毒した、虫のいない世界をうち立てるのだ。
十字軍を起しかねまじき狂気の勢いである。
その薬品にどういう副作用や潜在的毒性があるのか
考えてもみなければ知りもしないまま化学薬品を使う。
土壌、水、野生生物、そしてさらには人間そのものに
こうした化学薬品がどういう影響を与えるのか
ほとんど調べもしないで化学薬品を使わせたいのだ。
どんな恐ろしいことになるのか
危険に目覚めている人の数は本当に少ない。
そして今は専門分化の時代だ。
みんな自分の狭い専門の枠ばかりに首をつっこんで
全体がどうなるのか気がつかない。
また今は産業の時代だ。
とにかく金をもうけることが
神聖な不文律になっている。
殺虫剤の被害が目に見えてあらわれて住民が騒ぎだしても
まやかしの鎮静剤を飲まされるのがオチである。
このような虚偽、口に合わない事実に
砂糖のオブラートをかけることなど
もうやめにしたらいい。
昆虫防除の専門家が引き起こす禍いを押しつけられるのは
結局私たちみんななのだ。
私たち自信のことだという意識に目覚めて
みんなが主導権を握らなければならない。
今のままでいいのか、このまま先へ進んで行っていいのか。
だが、正確な判断を下すには、事実を十分知らなければならない。
負担は耐えねばならぬとすれば、私たちには知る権利がある。
DDTは、1874年に
ドイツの化学者がはじめて合成したものだが
殺虫効果があるとわかったのは1937年のことである。
発見者パウル・ミュラー(スイス)はノーベル賞をもらった。
DDTが無害だという伝説が生まれたのは
はじめて使われたのが戦時中のシラミ退治で
大勢の人間がDDTに直接触れたのに何も害が無かったので
無害だということになってしまったのである。
事実、粉末状のDDTならば
普通の塩化炭化水素と違って皮膚から中へ入りにくい。
だが、油にとかしたDDTは、危険なことおびただしい。
そしてDDTは油にとかして普通に使われる。
DDTを飲み込めば、消化器官にゆっくりと浸透し
また肺に吸収されることもある。
一度体内に入ると、DDTは脂肪に溶解するため
脂肪の多い器官
たとえば副腎、睾丸、甲状腺にもっぱら蓄積する。
また、肝臓、腎臓、さらに腸をつつんで保護している
大きな腸間膜の脂肪にも、かなりの量が蓄積される。
口に入れた食物では、1ないし10分の1ppmだが
体内では10ないし15ppmにまで増大する。
100倍以上の増え方である。
DDTや、それに近い化学物質の恐ろしさは
食物やエサの連鎖によって
有機体から有機体へと移動していく事実にうかがわれる。
塩化炭化水素には、この他クロールデンがある。
DTTの好ましくない性質すべてを備えている上に
その残留物はいつまでも土壌に残る。
また食糧でも何でも一度その表面につくとなかなかとれない。
庭の芝生に平気でグロールデンをまいて
誰も病気にならないからといって安心するわけにはいかない。
なぜなら、毒素は長い間体の内部に潜伏し
何か月、何年も経ってから、表面にあらわれてくるのだ。
それもどうしてこんなに体の調子が悪いのか
原因がはっきりつきとめることのできないような症状だ。
今からかなり前1930年の中頃
塩化炭化水素類の中でも特殊なもの
塩化ナフタリンを吸っている人たちの間に
肝炎や、もっと恐ろしい
ほとんど生命が助からぬ肝臓の奇病が見られた。
それは電気工場のことで
工員たちがこの病気にかかって死亡したことがあり
またその後最近では
田舎で牛がわけのわからない疾病におそわれ死んだのも
これが原因ではないかと思われる。
エンドリン
塩化炭素水素系の殺虫剤の中でも一番の劇薬である。
エンドリンに比べれば、この系統の親であるDDTなど
ほとんど害がないといってもいいくらいだ。
ここ10年間実際に使ったあげく
おびただしい魚が死に、エンドリンを撒布した
果樹園に入った牛はひどい中毒を起こし
井戸水や湧水が汚染した。
エンドリン中毒の悲劇はいろいろある。
アメリカの夫婦が1歳になる子どもがいる家には
ゴキブリがいたので、エンドリンの入った殺虫剤をまいた。
劇薬ということを承知で、十分用心したつもりだった。
午前9時頃まきはじめたが
その前に赤ちゃんと小犬を家の外に出した。
スプレーが終ってから、床をよく洗った。
そして、昼頃、赤ちゃんと犬を家の中へ入れた。
それから1時間後、あるいはもう少し後だったかもしれない
犬が吐き出し、ひきつけ、死んでしまった。
その日の夜の10時頃、今度は赤ちゃんが吐き出し
ひきつけ、意識を失った。
死にこそしなかったが、それまで健康だった赤ちゃんは
耳も聞こえなければ、目も見えず、筋肉の痙攣に襲われ
外界から遮断された日を送ることになった。
何か月も治療を続けてみたが駄目だった。
悲しむべきことに土壌の生態学とも言うべき
きわめて大切な分野に目を向ける者は
化学者といえども数少なく
いわんや防除業者にいたっては言わずもがな
土などいくら毒をぶちこんでも
どうでもないなどと言っては化学薬品をばらまいている。
水、土、それを覆う植物の緑のマント
こうしたものがなければ、地上から動物の姿は消えてしまうだろう。
現代に生きる私たちはほとんど考えてみないが
植物がなければ人間も死滅してしまうのだ。
植物は太陽エネルギーを使って、私たちの食糧をつくっている。
そのくせ、人間は植物について勝手きわまる考えしかもっていない。
いたるところ、除草剤、殺草剤のブームだ。
除草化学薬品の生産高、使用量は、大きくのびるばかりである。
除草剤をいくらまいても
道ばたのやぶは根こぞぎなくなるわけではなく
スプレーは毎年繰り替えさなければならない。
さらに皮肉なのは、本当はこんなことをするまでもなく
他に選択性スプレーという完全な健全は方法があることが
わかっているくせに、今までのやり方にしがみついている。
選択性スプレーに切り替えれば、恒久的な植物防除もできるし
たいていの植物には繰り返し撒布することもなくなるというのに。
選択性スプレーとは
フランク・エグラ―博士がアメリカ自然博物館で
鉄道用地やぶ対策勧告委員会委員長をしていたころ
数年をかけて考え出したものだ。
自然そのものにそなわる力を利用する。
つまり
草地はすぐに木の実生(みしょう)に押されてしまうのに
低木の群落なら
たいてい樹木の侵入をくいとめる事実を巧みに応用するのだ。
道ばたや鉄道用地のやぶをコントロールする目的は何か。
やぶがしげりすぎて車を運転する人たちの視界の邪魔になったり
鉄道用地の電線の邪魔になってはいけない。
ということなのである。
言葉を変えれば、問題になるのは木で
やぶは、どんなにしげっても、それほど大きくなるはずはなく
まして、シダ類や野生の花は問題にならない。
この選択性スプレーは
道ばたや鉄道用地を草だけにするのではなく
ただ背の高い木だけをはらって
他の植物は保護しようとするものである。
一度スプレーすれば、特に抵抗力の強い木は別として
ほとんどの木は駆除されてしまう。
後は低木を植えておけばよい。
そうすれば木は自然にコントロールされて生えてこない。
最上でしかも一番安上がりの防除方法は
化学薬品ではなくて、他の種類の植物なのである。
この方法は、実際に合衆国東部の州各地で実験された。
その結果、一度きちんと処置をしさえすれば
少なくとも20年間はスプレーしなくてもいいという。
市民に多額の費用を払わせたあげく
自然の営みを破壊する。
こんなことをするのも事実を知らないからなのだ。
本当は薬品スプレーの費用を毎年払うことなどなく
20年に1度でいいということを皆が知ったら
そんなバカらしいことはもうやめて
他の方法に切り替えようとの声が上がるに違いない。
私たちが普段かまわずまったく無知のまま
引っこ抜いている雑草の中にも土壌を健康に保つのに
なくてはならないものがいろいろある。
またそれは、野生の生物たちのすみかでもある。
それがあればこそ、昆虫、その他の生物は
もとのままの正しい個体数を保って住んでいられるのだ。
昆虫は殺虫剤に耐性をみせるようになり
昆虫ばかりか、おそらく他の生物の遺伝因子が変わりつつある。
除草剤を果てしなく使っていたらどうなるだろう。
雑草に悩まされたら、植物を食べる昆虫の働きを
もっとよく注意してみるのだ。
牧草地を管理していく科学は
こうした可能性を今まであまりにも無視してきた。
草を食べる昆虫こそ、特に優れて選択的であって
ある決まりきったものしか食べないという事実をうまく利用すれば
私たち人間は労少なくしてどんなに得をするかわからない。
私たち現代の世界観では
スプレー・ガンを手にした人間は絶対なのだ。
邪魔することは許されない。
昆虫駆除大運動の巻き添えをくうものは
野生動物、ペット、家畜でも差別なく
雨あられと殺虫剤の毒は降り注ぐ。
一方、薬剤を撒布する側は
そんな損失などないと頭から否定し
たとえ少しぐらい自然が傷ついても大したことはないと言う。
一番手におえないのは
中央政府や州政府関係の防除専門家で
生物学者の報告する事実を頭から否定し
野生生物が傷めつけられている証拠などないと言い張る。
化学薬品製造会社にいたっては、言うまでもない。
聖書に出てくる司祭とレビ人と同じで
わざと反対側ばかり通って、何も見ようとしない。
そうだからと言って、彼らの言うことを正しいとして
そのまま鵜呑みにしていいはずはない。
ヒアリ
刺されると焼けつくように痛いため
英語ではfire ant(火蟻:ひあり)という名前がついている。
南アメリカから合衆国に入ってきたアリだ。
上陸したのは、第一次世界大戦直後のことだった。
どんどん侵入し続け
今では合衆国南部のほとんどの州に分布している。
合衆国に入ってからすでに40年あまりになるが
ほとんど騒がれるようなこともなかったと思う。
ただヒアリは、高さが1フィート以上もある
土まんじゅうのような巣をつくるので
たくさんいる州では邪魔者扱いされていたにすぎない。
広い範囲に死をもたらす力のある化学薬品がいろいろあらわれると
政府も農夫も、このアリが穀物や家畜をおびやかすとは
夢にも思ってなかったらしい。
政府関係者のヒアリに対する態度が急に変わった。
そして、1957年
合衆国農務省は、史上まれなPRに乗り出した。
パンフレットを出したり、映画をつくったりしては
集中攻撃を加えて、このアリは南部の農業の略奪者
鳥や家畜や人間の殺害者ということになった。
そして、大規模なヒアリ駆除計画が発表された。
南部の9つの州2千万エーカーに
徹底的に薬品を撒布しようというのである。
こうしてヒアリ駆除計画がはじまったのは
1958年のことである。
ある商業雑誌は、諸手をあげて歓迎した。
農務省の大規模な害虫駆除計画がふくらめばふくらむほど
合衆国の殺虫剤製造会社は大当たりする。
大当たりした連中を除けば、この防除計画ほど
みんなの非難をうけたものはない。
計画もずさんで、現場の実施も不手際で
昆虫大量防除としては最悪例以外の何ものでもない。
莫大な費用がかかったばかりではない。
多くの動物の生命を奪い
また農務省の信用を落とすという高価な犠牲を払った。
防除のために今後資金を集めようと思っても
理解する人などいないだろう。
ヒアリは合衆国南部の農業に深刻な脅威を与える。
作物を傷め、地表に巣をつくる鳥のヒナを襲うから
自然をも破壊する、人間でも刺されれば害になる。
こんな言葉を並べ立てて、議会の承認を得たが
誤りであることが後で分かった。
アラバマ州の専門家によれば
植物に及ぼす害は概してまれであるという。
また、アメリカ昆虫学会会長の博士は
わたくしの所では、過去5年間
植物がヒアリの害を受けたという報告は一度もない。
家畜の被害も別に見うけられない。
ヒアリは、いろんな昆虫、それも
人間に害を与えると思われる昆虫を主に食べる。
これが実際に野外や実験室で観察している人たちの意見なのである。
このアリが綿の木にいる
ワタミハナゾウムシをつまんでいるのも見られたし
土まんじゅうの巣は
土壌の通風、灌水(かんすい)にずいぶん役立つ。
ミシシッピ州立大学の調査を見れば
このアラバマの研究が間違っていないことがわかる。
農務省はおそらく
農民の口から聞いたことをただ寄せ集め
農民たちが他のアリと間違えたのは大いにありうる。
ヒアリが人体に害を及ぼすというのも
かなり尾ひれのついたものといえよう。
確かに刺されれば痛いしみんな注意しなければならない。
だが、それは、普通のハチに刺されないように用心するのと同じだ。
体質的に敏感な人によって、ひどく反応することもある。
このアリがアラバマ州に住みついてから
40年にもなり、またそこに一番密集しているのに
アラバマ州立保健所の言うところでは
ヒアリに刺されて命をおとした記録は一度もない。
そして、ヒアリに刺されて治療をうけた場合も
付随的に起きた症状だという。
土まんじゅうを見つけたら
めいめいが始末をすれば何も問題が起きるはずはない。
狩猟用の鳥も被害をうけるというが、証拠は別にない。
ベーカー博士の意見は、農務省の言うこととは正反対なのだ。
狩猟用の鳥の個体数は、着実に増えていた。
もしも外国から渡ってきたこのアリが
野生生物をおびやかすとすれば
こんなことにはならなかったろうと博士は言う。
アリを防除しようとして使った殺虫剤のために
野生生物がどんな目にあったか、これはまた別の問題である。
場所によっては、スプレーをあびて
野生生物が全滅してしまったことが明らかになり
家禽(かきん)も家畜も、犬や猫もみな死んだ。
ところが、農務省は、これらの損害はみんなが大げさで
人を惑わすものだと言ってもみ消したのである。
合衆国南部のハンターにショックだったのは
コリンウズラというウズラの一種が姿を消してしまったことだ。
地面の上に巣をつくり、餌を集めるこの鳥は
スプレーのあった地方ではほとんど絶滅したも同然だった。
ヒアリ駆除の対象となったのは、主に野原と農作地だが
野原の草を食べる牛は、いったいどうなるのか。
スプレーをうけた野原の草には
どうしても何らかの形で毒が残留する。
その残留物が牛の体に入れば、毒は乳にあらわれるだろう。
これは、ミルクの汚染という重大問題なのだ。
その上、スプレーが何の効果もなかったことが
誰の目にも明らかだったのだ。
殺虫スプレーのために、サトウキビの害虫が
大発生することがわかったからだ。
自分たちの満足のいくように勝手気ままに
自然を変えようといろいろ危ない橋を渡りながら
しかも身の破滅を招くとすれば
これほど皮肉なことはない。
人間が勝手に考えるほどたやすくは改造できない。
昆虫は昆虫で人間の化学薬品による攻撃を
出し抜く方法をあみ出しているのだ。
それまでにたいしたこともなかった昆虫が
数を増し猛威をふるいだしたのだ。
化学薬品による防除は、もともと自滅
天に向ってつばするたぐいだ。
昆虫防除に化学薬品を使い出してから
私たちは2つの極めて重大なことを見落としていた。
まず、人間ではなくて
自然そのものの行なうコントロールこそ
害虫防除に本当の効果があるということ。
害虫の個体群は
生態学者のいう環境抵抗によってチェックされているが
これこそ生命がこの地上に誕生してから
変わることなく行われてきた営みといえよう。
どのくらい食糧があるのか
気象条件はどうか、競争相手、また捕食者など
こうしたことがとても大事なのだ。
ある種の昆虫がのさばりだし
自然に氾濫するのを防いでいる最も効果的な
唯一の原因は、昆虫同士殺しあって
戦争をしていることなのである。
無視されてきた第2の点は
ひとたび環境抵抗が弱まるとある種の昆虫は
爆発的な増殖力を示すということ。
さまざまな姿をとって行われる生命の誕生は
人間には想像もつかない勢いで行われている。
愚かなことに
私たちは天敵を殺してみて
はじめてそのありがたさに気づく。
自然の中を歩いても、その美しさに気づく人が
ほとんどいないように、自然の不思議
私たちの周りで営まれている不思議な
時には恐ろしいばかりの力に溢れた自然を見る人はいない。
また世界のいくつかの地域では
殺虫剤スプレーは疫病といままでにない関係を持つようになる。
どういう理由からか、水棲(すいせい)カタツムリ(巻貝)
のような軟体動物には、殺虫剤がほとんどきかない。
息たえてころがっている魚や
まさに死にかけているカニの上を
うようよと這いまわっているのは水棲カタツムリ。
毒の死の雨の倒れた死者をむさぼり食っていたのだ。
水棲カタツムリといえば
たいてい危険な寄生虫を宿す宿主であって
危険な寄生虫は軟体動物の中ばかりか
時には人間の胎内で生活環の一部を過ごす虫なのだ。
そして、人間だけでなく
牛、羊、ヤギ、鹿、オオツノジカ
ウサギなどいろんな温血動物が肝臓病にかかる。
寄生虫のついた肝臓は
食用にならず捨てるより他はない。
そのために合衆国の牛飼いがうける損害は
年額350万ドルあまりになる。
水棲カタツムリの数が増えるようなことをすれば
事態が悪化するのは明瞭である。
どうしてまた、こんなことになっているのか。
化学工業の大会社が大学に金をつぎこむ。
殺虫剤研究の資金を出すからなのだ。
ドクターコースの学生たちにはたっぷり奨学金が与えられ
魅力のある就職口が彼らを待ち受けている。
だが、生物学的コントロールの研究に
そんなにお金が出ることは決してない。
それに援助すれば、化学工業は自ら
自分の首をしめることになるという簡単な理由からだ。
生物学的コントロールの研究は
州や中央政府所属の機関にまかせられている。
しかもそこに勤めている人たちに
払われている給料ははるかに低い。
またどうして著名な昆虫学者が
化学薬品を熱心に擁護するのだろう。
この不思議な事実も
こうしたことを考えてみれば
むしろ当たり前なのだ。
みんな化学工業関係の会社から援助を受けている。
餌をくれる飼い主の手をかむバカな犬などどこにいようか。
だから、殺虫剤はまったく無害です
と言い張れる彼らをどれほど信用できようか。
私たちが危険な道を進んでいることは
疑うまでもなく明らかだ。
私たちは他の防除方法を目指して
研究に励まなければならない。
化学的コントロールではなく
生物学的コントロールこそとるべき道であろう。
暴力を振るうのではなく、細心の注意を持って
自然の営みを望ましい方向に導くことこそ
私たちの目的になければならない。
私たちは心をもっと高い所に向けるとともに
深い洞察力を持たなければならない。
残念ながら、これをあわせ持つ研究者は数少ない。
生命とは、私たちの理解をこえる奇跡であり
それと格闘する羽目になっても
尊敬の念だけは失ってはならない。
生命をコントロールしようと
殺虫剤のような武器に訴えるのは
まだ自然をよく知らないためだと言いたい。
自然の力をうまく利用すれば、暴力などふるうまでもない。
必要なのは謙虚な心であり
科学者のうぬぼれの入る余地などはここにはないと言ってよい。
私たちの住んでいる地球は
自分たち人間だけのものではない。
この考えから出発する新しい、夢豊かな
創造的な努力には、自分たちの扱っている相手は
生命あるものなのだという認識が終始光り輝いている。
生きている集団
押したり押し戻されたりする力関係
波のうねりのような高まりと引き
このような世界を私たちは相手にしている。
昆虫と私たち人間の世界が納得しあい
和解するのを望むならば
さまざまな生命力を無視することなくうまく導いて
私たち人間に逆らわないようにする他ない。
人に遅れをとるものかと
やたらに、毒薬を振りまいたあげく
現代人は根源的なものに
思いをいたすことができなくなってしまった。
こん棒をやたらと振り回した
洞窟時代の人間に比べて少しも進歩せず
近代人は化学薬品を雨あられと生命あるものに浴びせかけた。
精密でもろい生命も
また奇跡的に少しのことではへこたれず
もりかえしてきて、思いもよらぬ逆襲を試みる。
生命にひそむ、この不思議な力など
化学薬品を振りまく人間は考えてもみない。
高きに心を向けることなく自己満足に陥り
巨大な自然の力にへりくだることなく
ただ自然をもてあそんでいる。
自然の征服
これは、人間が得意になって考え出した
勝手な文句にすぎない。
生物学、哲学のいわゆる
ネアンデルタール時代にできた言葉だ。
自然は、人間の生活に役立つために存在する
などと思い上がっていたのだ。
応用昆虫学者の
ものの考え方ややり方を見ると
まるで科学の石器時代を思わせる。
およそ学問とも呼べないような単純な科学の手中に
最新の武器があるとは、何とそら恐ろしい災難であろうか。
おそろしい武器を考え出しては
その鉾先を昆虫に向けていたが
それは、他ならぬ私たち人間の住む地球
そのものに向けられていたのだ。
この作品は
1964年「生と死の妙薬」として刊行され
1985年5月新装版「沈黙の春」として刊行された。
