下のずんだ動画の不思議な人物、羊
群 君の羊 君は天皇
羊はキリスト教徒の事
↑コメント欄より
掘れば遺跡ばかり出るので
なかなか建設地に建物が立たない事がしばしば
数年前も工場が建つ土地で、発掘作業員を募集してたけど
通勤途中にその地を毎日見て、炎天下での発掘は大変だなと思った
子供の頃、移転する新公民館も発掘作業で完成が数年延期
なんで埋まってるのか、火山灰だとしても
石碑や古墳とかは埋まらなかったのかと思う
↑より抜粋
そもそも大和朝廷は三国志の時代の負け組が日本に来たという説
明治維新も、関ケ原の戦いの負け組が外国勢力と手を組んだという説
日本書記→紀
古事記 →記
↓抜粋してないけど参考まで
アメ(大王の支配地域)
ヒナ(大王の支配が及ばない地域)
アヅマ(大王に従属する地域)
5世紀における上毛野(かみつけの)
地域に関する文献史料は皆無であり
考古学研究、とくに5世紀を中心とする古墳研究を参考に
後世の資料や地名研究も含めて考えていきたい。
上毛野地域の古墳研究では
4世紀から5世紀(古墳前期~中期)にかけて
旧利根川を境として、太田を中心とする東毛地域と
前橋・高崎を中心とする西毛地域に
それぞれ大型前方後円墳が築造されており
2つの勢力(首長集団)が存在していたとみる。
その造営の背景には、東海や畿内(京都に近い地)
からの人やモノ技術の移動が深く関わっている。
若狭徹 (群馬県育ちの考古学者) は
4世紀後半に築造された墳丘長172メートルで
2重の周濠をめぐらせた浅間山古墳の成立の動きに注目した。
図9のとおり、奈良県奈良市の佐紀古墳群中にある
佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳
(垂仁(すいにん)皇后日葉酢媛陵(ひばすひめりょう)と同じ
墳形規格である浅間山古墳の登場は
畿内(きない)における国際的活動を視野におく
佐紀勢力のシフトに対応したもので
とくに倭王権(ヤマト王権)が対外活動へ乗り出す中で
東国(あづまのくに)の諸首長と
連携する動きの中で築造されたと想定する。
そしてその後の渡来系文物がみられる
白石稲荷山(しろいしいなりやま)古墳も含めて
上毛野地域南西部の基幹河川である
鳥川・鏑(かぶら)川・鮎川の
合流点一体に立地している点から
利根川水系の河川交通上の重要な津が置かれ
そこを拠点に川の道を通じて東京湾へ
そこから房総を経て外洋に連なり
東海地方沿岸に寄港しつつ進み
伊勢から上陸してヤマトへ
さらに瀬戸内海交通を経て
東アジアにつながっていたとみる。
上毛野氏(かみつけのうじ)は
倭王国を構成する有力首長層との関係を
上手に堅持(けんじ)し、時代の変化に対応しながら
上毛野氏は東国政策において
重要な役割を果たしていったと考えられる。
群馬県は東国に位置し
倭王権から律令(りつりょう)国家の時代
上毛野(かみつけの)国、または
上野国(こうずけのくに)と呼ばれていたが
上毛野を本拠にした有力首長である
上毛野氏に関しては『紀』に多くの伝承記事があり
それらをもとに上毛野氏が政治的地位や役割について
多くの研究がなされ、東国の概念や範囲を考える上でも
大きな影響を与えてきた。
そこで、上毛野氏に関する伝承記事と
東国の概念を整理検討して
東国という視点で上毛野の位置づけを明らかにしていきたい。
奈良時代の東国(あづまのくに)の人々のイメージとして
天皇政治と一体となった武勇観が示されている。
東国は、本来倭王権の側によって名づけられた
地域呼称であり、その概念・成立時期・範囲
などについては多くの議論が行なわれてきた。
7世紀後半までに、上毛野は
令制東山(りょうせいとうせん)にあたる
陸奥(むつ)地域を統治するという
「支配者」としての特別な位置づけ・価値観をもち
中央政府がそれを認識・容認していたと考えられる。
毛人(えみし)とは
中国で東北の異民族を指す観念的な用語で
「東方の辺民」を意味しており
この時期以前に東方国には
大王に従属すべき地域が存在していたことがわかる。
これは律令国家における
華夷(かい)思想に引き継がれるような世界観が
すでに存在していたことを物語っている。
それを毛人(えみし)東は毛人55国
衆夷(しゅうい)西は衆夷66国
として表現しているのである。
【華夷思想】
漢民族が自国民を中華と称して尊び
異民族を夷狄(いてき)と称して卑しみしりぞけた思想。
中華思想。
東国の概念と密接な関わりのある
エミシについて検討してみよう。
おそらく6世紀後半までには
国造制にもとづく東方での支配が進展し
エミシの存在を認識していたことがうかがえる。
つまり、エミシを含む政治的領域を示す
東国が成立したことを具体的に
うかがわせる史料となろう。
『記』の伝承は6世紀にまとめられた
『帝紀(ていき)・旧辞(きゅうじ、くじ)』
によるもので、倭王権が5世紀後半までに
南関東を服属下に置いたことを反映し
『紀』の伝承は、6世紀以降に北関東が
倭王権との関係が同盟関係から従属の関係に入り
そこを拠点に陸奥地域への武力進出が実施されたことが
『帝紀・旧辞』の原ヤマトタケル伝承に
付加して成立したものと考えられている。
つまり東国の範囲が南関東を含めた
東北地方へと拡大したと捉えることができ
荒井が論じた「坂東アヅマ」もその領域に
時期的な変遷(へんせん)があったのではなかろうか。
ところで
ヤマトタケルの東征(とうせい)伝承に前後して
『紀』では上毛野氏祖による
東国支配に関する伝承記事が見える。
これらの史料は東山道方面における統治が
天皇の命を受けた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
の直系子孫によって行われることを正当化したもので
ヤマトタケルの東征伝承とは対照的に
上毛野を本拠として内陸ルートによるエミシを含む
東国に対する支配が進められたことを記している。
ヤマトタケルの東征伝承と
上毛野氏の東方支配に関する祖先伝承とは
そもそも系統を異にする伝承であることは明らかであるが
ヤマトタケルの東征伝承とは違って、東国
とくに東山道方面を支配する特別な存在として
上毛野氏が認識されていたことは間違いなく
倭王権はエミシを含む東国という地域を
ある一定の役割を担った重要な地域として
上毛野を位置づけ、毛野(けの)という
地域呼称を命名したものと考えられる。
毛人(えみし、もうじん)に関する
通説的解釈は次のとおりである。
7世紀初めまで東方の辺民はエミシと呼ばれ
その表記として中国古典(山海経:せんがいきょう)
などにおいて、東北の異民族を指す観念的な用語
であった毛人を使用していた。
7世紀中期になり、日本の東北経営が拡大し始めると
東方の辺民について新たに
具体的な知識が持たらされるようになり
毛人表記以来の多毛という観念を引き継ぎながら
それまでの辺民である毛人と区別するものとして
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)という
表記が成立したというものである。
つまり、5世紀より倭王権において
東方の辺民の観念的表記として毛人が使用され
7世紀以降の律令国家の形成とともに
東北北部に辺民の実体を示す表記である蝦夷が
使用されはじめても、なお観念的表記としての毛人は
使用され続けたのである。
このことは中央においても毛人が
征討(せいとう)対象であるという
強いイメージがあったと考えられる。
毛野(群馬県と栃木県南部を合わせた地域)が
歴史上アヅマの中で独自な地域的展開を見せており
倭王権からみて、内陸で地域隔絶(かくぜつ)性が
とくに意識され、エミシにつながる
地理的な特性から結びつけたものであろう。
肥人(こまひと)は西方の辺民の観念的表記である
クマソ(熊襲)と同一性を持つものと考えられる。
これらは肥後の球磨(くま)大隈の噌唹(そお)
の地名を熊襲の地域にみなしたものとしている。
『記』『紀』にはヤマトタケルの
西征(せいせい)伝承があり
クマソタケルの征討(せいとう)を記している。
東方のエミシ(毛人・蝦夷)とともに
西方のクマソ(熊襲)は辺民の観念的表記として使用され
征討の対象となっている。
おそらく
クマソ(熊襲)=クマビト(肥人)の征討を担う
フロンティア=「征肥人」として肥
または火、のちに肥前・肥後という
地域呼称が命名されたのであるまいか。
そして上毛野氏は
「東山道十五国都督(ととく)」という地位を
倭王権から承認され、エミシ征討も含めた
東国支配の役割を担う武官として大王に奉事(ぶじ)する
有力首長として位置づけられたと考える。
倭の5王に代表される5世紀の
倭王権の中枢(ちゅうすう)であった
仁徳(じんとく)系王統は
王位継承争いの中で多くの王族を失い
武烈(ぶれつ)天皇が崩御(ほうぎょ)
した後に皇子(みこ、おうじ)が絶えた。
そのため、応神(おうじん)天皇の5世の孫と伝える
継体(けいたい)が大王として迎えられ
近江(おうみ)から20年かけて大和入りした。
継体天皇の擁立(ようりつ)については
大伴金村(おおともかなむら)や
物部麁鹿火(もののべあらかい)が
深く関わったが、その橋渡しとなったのが
河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ)である。
河内馬飼首は、馬匹(ばひつ)生産のみならず
対外関係や軍事に従事する氏族としての性格を持ち
その地縁性から物部氏とも深いつながりがあった。
河内馬飼首の本貫は
河内北部から中部にかけての河内郡の周辺である。
その東に隣接する若江郡(大坂)渋川郡(大坂)
が物部氏の主要な勢力圏にあたる。
こうした継体天皇の即位を起点とする
倭王権の動きは外交上でも連動している。
それは
5世紀を通して行われてきた中国南朝との通交が
雄略(ゆうりゃく)天皇の死後途絶えることになり
その再開は推古(すいこ)天皇の
遣隋使(けんずいし)の派遣まで待たねばならなかった。
また、朝鮮半島の百済(くだら、ひゃくさい)や
加羅(から)諸国との通交は継続しており
とくに新羅(しらぎ、しんら)による
加羅諸国の併合という大きな変動の中で
百済との関係性を強め、大陸の思想や技術
文化が積極的に受容されていった。
そうした点で軍事的な拡張政策から
内政面を重視する政策へと転換していった時代と言える。
林陸朗(歴史学者)は
上(かみ)・下毛野氏(しもつけのうじ)の姓が
一般国造の直姓ではなく、君姓であることから
九州または出雲地域と並んで特殊地域を成していたとし
毛野地方は古くから一つの
隠然(いんぜん)たる勢力圏であったとする。
緑野屯倉(みどののみやけ)のある
令制下の多胡郡・緑野(みどの)郡の古墳の総数は
全国最大の古墳分布密度を誇る
群馬県下でも第一位を占めており
緑野屯倉の設置によって倭王権から
進んだ農耕技術や農具が投入され
生産力が高まり、群集墳の密度が高くあったものと分析し
屯倉(みやけ)の戦略的な生活つまり
政治的・軍事的な側面からの検討も必要であり
たとえば、倭王権に直属する特殊な軍事集団の存在なども
考慮する余地もあろうとしている。
上毛野地域全体にわたって物部氏の分布が濃密にみられる。
その中心は上毛野地域西部で
経津主命(ふつぬしのみこと)を祭神とする
貫前(ぬきさき)神社を中心として
勢力をもったと推定され、上毛野氏の
朝鮮遠征や蝦夷遠征などの対外遠征に際し
上毛野氏の軍事力の中核となったものと想定されている。
貫前神社は、東国政策における
宗教的拠点として成立したため
上野国一宮とされたのではなかろうか。
一宮(いちのみや)
ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のこと。
列島における馬匹(ばひつ)生産は
河内の渡来人たちによって開始された。
馬飼部(うまかいべ)を称するもののほとんどが
河内出身者であること。
河内に所在する古墳に馬具(ばぐ)
馬形埴輪(うまがたはにわ)など
考古学遺物がみられることなどが
それを端的(たんてき)に表している。
その後、馬文化センターは東国に移り
東国支配の推進にともなって
上毛野地域が馬の本場になったとする。
また、5世紀における
朝鮮半島政策への参加を背景に
渡来人と接触し優れた技術や文化を導入したことで
6世紀には東国に強力な勢力を築いたとする。
また、大化以後上毛野氏の多くが
東北経略事業に参加している点に注目し
これは上毛野氏が古くから独自に
蝦夷と戦ってきた経験をかわれたものとした。
馬生産の輸入時期は古墳時代中期以降
蒙古馬(もうこうま)系統である。
4世紀後半に始まった高句麗(こうくり)の
南下にともなう半島の軍事的緊張のもと
倭と朝鮮半島南部諸国との間に
互恵(ごけい)的な関係が形成され
本格的な馬匹(ばひつ)輸入開始の要因となった。
こうした状況について
東国における馬生産の普及とともに
新たな陸上交通網が成立したこと
そして、馬生産の開始には
倭王権の意向や一定の関与があったとみる。
馬文化のみならず先進的な文化
技術を含めた渡来系集団の移動が
背景にあったことは想定される。
東国に5世紀から6世紀にかけて
朝鮮半島系文物が出土することから
渡来人が幅広く社会に定着し
農業土木や治水(ちすい)技術のほかに
金属器生産や、馬生産、紡織(ぼうしょく)
技術などをもたらしたとする。
そして上毛野地域では
前方後円墳被葬者の配下である
中型円墳の被葬者のもとに
方形の積石塚(つみいしづか)を築く
伽耶(かや)系渡来人が編成されたとみる。
また出土品に日用品の韓国式軟質土器が多いことから
渡来第一世代としてこの地に至った者が多く
上毛野君祖田道が新羅の4つの邑(むら)の民を
連れ帰ったとする伝承を反映しているとしている。
5世紀半ばに馬生産が開始され
6世紀前半までには牧や調教施設が整備され
馬生産が本格化し
さらに6世紀後半から7世紀にかけて
全国最多数の実用馬具が上毛野地域から出土しており
上毛野地域が東国でも随一の馬生産地となったとしている。
上毛野地域で生産された馬は
在地で消費したと考えるより
一定数が倭王権に貢納(こうのう)されたとし
陸路の整備とともにその多くは駄馬(だば)
(辛くて大変な仕事を必死でこなす働き者)
として農耕・荷役・情報伝達ツールとして
倭王権の動力革命に貢献したとする。
令制(りょうせい)下の
上野国の郡領級氏族の特質としては
すべての氏族が朝臣(あそん、あそみ)
または君公(くんこう)姓を有しており
しかも勢多(せた)郡を除いて
部民を統轄(とうかつ)する存在であった。
部民制は、倭王権の全国支配方式の一つで
倭王権自体やそれを主導する大王家
中央首長・地方首長が支配する人民のことを
部民 (べみん)といい、支配された部民は
支配者に対して労役(ろうえき)や
諸物の貢納(こうのう)を行っていたと考えられる。
すなわち、上毛野における首長(しゅちょう)制は
上毛野氏を頂点として
上毛野氏と同族的結合を持った君姓氏族が
下位首長として各地域で優位性を保つ構造であったと指摘する。
王権の中枢(ちゅうすう)を支えたのは
大連(おおむらじ)の大伴氏(おおともうじ)
物部氏(もののべうじ)であった。
大連
古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ
6世紀末に蘇我馬子(そがのうまこ)が
物部守屋(もののべのもりや)を
討伐(とうばつ)したことにより大連が廃止され
蘇我氏は、葛城氏(かつらぎうじ)や
和珥氏(わにうじ)と同様に
大王家と婚姻関係を結び
継続的に子女を王妃に立てることで
外戚(がいせき)として政治的な地位を高めた。
また優れた先進文化・技術を持った
東漢氏 (やまとのあやうじ)・秦氏(はたうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)などの
渡来人を掌握(しょうあく)して
王権の諸官司を支配下に収めていった。
そして自ら擁立(ようりつ)した
崇峻(すしゅん)天皇を暗殺
女帝推古が即位し、厩戸王(聖徳太子)を摂政とした。
推古政治は30年以上に及び、その後半になると
厩戸と蘇我馬子との対立が顕在化し
厩戸政治に第一線から退(しりぞ)くことになる。
このように、推古即位により
政治体制がこれまで、大臣・大連体制から
皇太子と大臣による共同執政
(しっせい)という二重構造となった。
そして推古の崩御(ほうぎょ)後は
蘇我氏の本宗家(ほんそうけ)と
傍系諸氏(ぼうけい:直系ではない関係のこと)の
対立及び王位継承をめぐる紛糾(ふんきゅう)の中で
乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれるクーデターにより
蘇我本宗家は滅亡することとなる。
蝦夷に対する民族的活動は
大化以前までは地方首長に任せており
倭王権が深く関与することはなかったとしている。
つまり蝦夷に対する民族的活動は
東国首長が倭王権の保護を頼まず
自分の力で徐々に蝦夷を圧迫して
その生活の舞台を拡大していったとしている。
「エミシ」とは元来
「強く恐ろしくかつ畏敬(いけい)すべき人たち」
を意味し
『紀』神武(じんむ)天皇即位前紀の歌謡では
百人にも対するような屈強な敵を
「愛瀰詩(えみし)」と表記している。
「蝦夷」の実体としては
本州北東地域(北海道も含めた)に
居住する集団を指すようになったと考える。
その後「蝦夷」は「エビス(夷)」とも呼ばれ
中華思想による異民族観と軽蔑の意識を含むものとなり
平安時代末期に「エミシ」を「エゾ」と呼ぶようになった。
7世紀代には、陸奥地域においても評制の施行や
エミシに対する点的な支配が実施されたが
それにともなって、城柵(じょうさく)
(本州北東部を征服する事業の拠点として築いた施設)や
官衙(かんが:役所・官庁のこと)などの整備や
技術・資材・人の交流もさかんに行われていた。
そうした中で、国家による仏教政策にともない
陸奥地域へも仏教が広まり、寺院も建立されていったと考えられる。
東国を本貫とする中央官人化した上毛野氏と
地元との密接な関係での東北経営への参画(さんかく)を
推定するとともに、その地域では
中央政府が中心となり実施している
エミシ経営の最前線ではなく
古墳時代より東国が影響を持ち得た陸奥国の
南部周辺地域であり、その延長上での寺院
官衙整備に対する上野国の関与を想定している。
5世紀から6世紀に上毛野氏は陸奥地域北部の
胆沢(いさわ)地域にまで進出していったが
おそらくその地を支配するまでには至らず
その後、律令(りつりょう)国家による
エミシ政策に引き継がれ、平安時代前期まで
長期間にわたって軍事行動をともない
「城柵の建立→柵戸(さくこ)移配→建郡」を
くり返しながら領土を拡大していったものと考えられる。
上毛野氏は、7世紀以前からの東国政策という
政治的役割を引き継ぎ、8世紀以降も
エミシ政策に深く関わっていくのである。
しかし、8世紀以降は、律令国家による地方支配の中で
エミシ政策が強く求められるようになり
国家政策中心の動きとなっていく。
上毛野氏にとっても倭王権における大王や
畿内の有力首長との人的な結合ではなく
官人制という官僚機構の中での対応となり
やがて地方有力首長としての役割・立場は失われていく。
とはいえ『続紀』には8世紀前半に陸奥国守(こくしゅ)
または按察使 (あんさつし、あぜち)には
上毛野氏が連続して任命されている。
『紀』によれば、大化2年(646)に
改新の詔(かいしんのみことのり)が出され
中央集権国家を目指した改革が進められた。
その後、斉明(こうぎょく)8年(660)に
朝鮮半島で唐・新羅連合軍によって百済が滅亡した。
百済再興の要請を受けた倭は
百済の王子と軍隊を朝鮮半島に派遣し
天智(てんじ)2年(663)に
白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦った。
この白村江の戦いに敗れた倭は
唐との戦争状態から危機感が高まり
律令国家の形成が急務となった。
天智9年(670)に日本で最初の全国的な戸籍が作られ
次の戸籍は持統(じとう)4年(690)で
以後6年ごとに作成されるようになった。
大宝律令(たいほうりつりょう)の制定と施行は
改新の詔にはじまるも律令法典にもとづく
中央政権国家体制の完成を意味する。
そして天智8年(667)に遣唐使が派遣された。
大使は律令の選定に参加した一人栗田真人(あわたのまひと)
で大宝律令の完成によって新たに定まった「日本」
という国号を唐に承認してもらうことが目的であったと考えられる。
史料P・Qでは、唐・新羅連合軍と戦った
白村江の戦いに将軍として参加し
新羅の2つの城を取る活躍をした
上毛野稚子(かみつけののわかこ)がみえる。
おそらく、5世紀以来の朝鮮半島政策に
参画していた経験と、軍事力を買われて登用された
畿内または紀伊に移住した上毛野氏であろう。
8世紀前半の上毛野氏はすでに中央官人化している中で
当時のエミシ政策との関わりの中で一定の役割を果たした。
しかし、養老4年(720)に
按察使上毛野朝臣広人(あそんひとひと)が
蝦夷によって殺害された後、その役割は衰退していった。
上野三碑(こうずけさんぴ)は
朝鮮半島、とくに新羅との関係性が強いと考えられる。
石碑の源流は中国である。
殷(いん)代より刻石はみえるが
秦の始皇帝が中国を統一すると
その頌徳(しょうとく:功徳を賛美すること)のために
各地に巡幸(じゅんこう:天皇が各地をまわること)
して刻石を建てたが、それらは柱状(ちゅうじょう)の
特立(とくりつ)の刻石である碣(けつ)であったと考えられる。
『紀』推古天皇15年(607)条に
「諸国に屯倉(みやけ)を置く」との記載がある。
その際に上宮王家(じょうぐうおうけ)との
関係が深い人物が管掌(かんしょう)者として
派遣されたことが想定される。
おそらく高度な技術や教養をもつ渡来系氏族であろう。
「法隆寺観世音(かんぜおん)菩薩像造記」によれば
父母のために観世音菩薩像を造像した3人の法師は
百済からの渡来人である大原博士族である。
この中の徳聡(とくそう)法師は法隆寺に在籍していた。
このように
石碑からは当時の倭王権の仏教政策とともに
倭王権からの氏族派遣や
その首長との関係性を利用して
中央との結びつきを図った
在地首長のしたたかさもうかがうことができる。
まさに、当時から中央と地方との間では
こうしたさまざまな政策や支配機構の中で
多くの首長が交流・ネットワークを形成していたことがわかる。
渡来人をめぐっては、7世紀後半の
統一新羅の成立をめぐる動きの中で
多くの人々が朝鮮半島から渡来し
それを受け入れた倭王権によって全国各地へと安置された。
中でも東国には多くの渡来人が安置された。
記録に残っていないものもあるだろうし
さらには6世紀以前にも多くの渡来人が日本へ移り住んだことは
『紀』などの記録のみならず
発掘調査で確認される豊かな渡来系文物からもうかがうことができる。
上野国多胡郡に居住が確認される人々は
物部氏・大伴氏・安倍氏などの氏族名が確認できる。
いずれも中央における有力な氏族の部民(私有民)である。
とくに渡来人を示す資料はほとんど確認できない。
こうした点を踏まえると、多胡郡はおそらく
美濃国席田(みののくにむしろだ)郡
武蔵国高麗(むさしのくにこま)郡
新羅郡(しらぎ)郡のような
渡来人を主体とする郡ではなかろう。
もちろん、新羅人子午足のような渡来人が
多胡郡を中心に多数居住していたことは疑いがないが
多胡郡の新置の目的、さらには多胡碑が建てられた背景を
渡来人との関係性のみで捉えることはできまい。
上野三碑は、1300年の時を超えて
人々が守ってきた稀有(けう)な文化遺産であり
史料上の制約がある古代上毛野上野国地域の
歴史を考える上でも重要な史料的価値を持っている。
しかし、上毛野氏に関する直接的な史料ではなく
上毛野氏研究に援用(えんよう)するには
慎重でなければならないことは言うまでもない。
とはいえ、上野三碑に刻まれた文字は
埼玉稲荷山(いなりやま)古墳鉄剣銘と同様
当時の社会を生き抜いた人々の思いや考えを記した生の史料である。
現在の私たちができることは
そこに記された一文字一文字を丁寧に読み取り
その他の史・資料と比較検討し
想像力と論理的思考力を働かせて
当時の社会の復原を試みることである。




