日本を動かす人達が密航してまで外国に留学しているし
日本の本当の黒幕は欧米のロス茶で
支配層が悪魔儀式をやるのは
悪魔に生け贄を捧げてそれと引き換えに
知恵を授けてもらってるらしい
なので彼らが宗教儀式に拘るのはそういう事
宗教はすべて人間を飢餓状態にして操る道具
神は人間を生け贄にしないと思うので
神を名乗る悪魔をみんな拝んできた事になる
しかし、もうその悪魔がいない状態らしいので
あとはこの人間界だけの戦いらしい
というゲームの中に私たちは今いる
↑より抜粋
原敬(たかし)の「原敬日記」を通じて機密費のことが書かれている。
文中、元老とは伊藤博文
山県有朋(やまがたありとも)と井上馨(かおる)を指す。
伊藤が、明治31(1898)年2月9日に
10項目の意見書を明治天皇に奉呈した。
このことは「明治天皇紀」に明記されている。
要するに
「お前は天皇になったからとて、宮中に入ってくる金は
俺と山県と井上の3人の許可なく使うことはならぬ」
というものであった。明治天皇は了承した。
明治32(1899)年、田中光顕(みつあき)は
3人の元老からこのことを言い渡された。
明治天皇出費の厳禁、3人の元老以外の者の
(首相であろうとも)宮内省機密費の出費はまかりならぬ。
要するに、田中が3人の元老の“番犬”であったというわけである。
3人の元老以外は、田中宮相を通さずに明治天皇に会うことはできなかった。
桂太郎は長州出身の軍人。
彼を首相にし、自分の代理人に仕立てて
日露戦争を仕掛けさせたのは山県有朋であった。
また山県は、玄洋社の重鎮杉山茂丸を将棋の駒のように動かし
反戦争派(伊藤博文派)を脅迫し続けた。
伊藤暗殺の遠因は、この山県の権力欲にあったのである。
山県は西南戦争後の明治11(1878)年に
2万坪を超える敷地の東京・文京区の椿山荘を買って住む。
間違いなく国家の金を着服している。
このダーティな男に、田中は忠犬のごとき従順さを示していた。
私はまた、次の文章を読んで驚いたのである。
そうであったのかという、無知を恥じたのである。
明治42(1909)年11月18日の
「東京朝日新聞」によると
伊藤博文を暗殺した安重根(あん じゅうこん)は法廷で
15か条にわたる伊藤総督暗殺の理由を訴えている。
①王妃の殺害
②38年11月の韓国保護条約の5か条
③40年7月の日韓新協約7か条
④韓国皇帝の廃立
⑤陸軍の解散
⑥良民殺戮
⑦利権掠奪(りょうだつ)
⑧教科書焼棄(しょうき)
⑨新聞購買禁止
➉銀行券の発行
⑪300万円国債の募集
⑫東洋平和の攪乱(かくらん)
⑬保護政策の名実がともなわないこと
⑭日本先帝孝明天皇を殺害したこと
⑮日本および世界を瞞着(まんちゃく)したこと
この「罪状⑭」の「日本先帝孝明天皇を殺害したこと」を
日本人が読んで知っていたということである。
私は、伊藤が孝明天皇を拭殺したことを知り
幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は自分にも
睦仁(むつひと)を拭殺してもいい権利があると信じたと思うのである。
幸徳秋水(思想家)が、今の天皇を
「明治天皇は南朝の天子を殺して神器を奪った北朝天子の子孫ではないか
今の天皇は北朝の系統であるから、これを弑(しい)して差支えない」
と発言したことを確信した。
さて、明治43(1910)年6月1日
幸徳秋水は逮捕され携帯のカバンを差し押さえられた。
暗殺に関係するような所持品は何もなかったが
絵葉書が一枚入っていた。
それはあの安重根の写真だった。
サンフランシスコ平民社がつくった絵葉書で
「秋水題」という著名入りの漢詩が印刷してあった。
幸徳秋水は天皇暗殺を公言して未遂に終わったテロリストに
危険思想を吹き込んだという理由だけで処刑された。
「陛下の面を犯した」連中こそが明治維新を成し遂げた連中だった。
山県の子分、桂太郎と田中は維新前夜の秘密を
伊藤暗殺事件とともに暴かれることを恐れた。
まさに「大逆事件」はそのためにこそ演出されたのである。
略
この問題は要するに
水戸光圀(みつくに)の時代に水戸学が生まれ
「大日本史」ができ、この本が南朝を正統としたからであった。
よって、後醍醐天皇を南朝の正統とする。
この考えに吉田松陰が水戸学の影響を受けていたから事は複雑になった。
「南北朝議論をしないほうがよい。学者どもは何を言い出すかわからない」
と喜田貞吉(きたさだきち)は田中に忠告した。
それで田中はこの問題を封印した。
しかし、明治44(1911)年に再びこの問題に火がついた。
「原敬日記」も、たびたびこの問題に触れている。
原敬は西園寺公望(さいおんじきんもち)の
一番弟子で後の首相となる偉材である。
原敬は明治天皇の秘密を西園寺公望(睦仁親王の幼馴染)
と中井弘(田中と行動を共にした薩摩藩士)から聞いているにちがいない。
そのようなことを知った男の苦悩が彼の日記から読みとれる。
この南北朝問題の結論は、明治天皇が南朝を正統と認めるのである。
南北朝問題に介入すべきではないとした喜田貞吉は学会から追放され
部落問題に取り組んでいく。
こうして明治維新の化けの皮が剥がれていった。
大室寅之祐(おおむろとらのすけ)は
突然に南朝の出身者に仕立てあげられたのである。
明治天皇は、伊藤の死、この南北朝問題
そして大逆事件で神経をすり減らし
死途へまっしぐらに進んでいく。
竹内鉄五郎は「天皇」とは何者かを書いている。
その当時において最も残忍酷薄なる彼神武は
みずから主権者なり、統治者なりという名目のもとに
あらゆる罪悪汚行を専(もっぱ)らにし
その子また父にならえ、その子また父になろうてついに
122代の足下(そっか)に至れり。
ああ2500年間!この間、足下および足下の祖先を足下らの
権友を維持せんがために、足下らの虚栄心に満足を与えんがために
いかに多くの吾人(ごじん)を苦しめたるよ。
いかに多く吾人を屠(ほふ)ったるよ。
いかに多く吾人の富を奪たるよ。
吾人はこを思う時に当り、足下らの首を切り
足下らの肉を炙りて食うもなおあきたらざる心地す。
伊藤の死後、明治天皇は急に衰えていく。
大室寅之祐は本物の睦仁より2歳年上とはいえ
嘉永3(1850)年生まれであるから
伊藤が暗殺された時は59歳である。
彼は死神にとりつかれた。
伊藤が田施布(たぶせ)・麻郷(おごう)の里から
彼を特別扱いして睦仁にしてくれた事を終生彼は忘れなかった。
原敬に伊藤が、どうして明治天皇が
特別に自分を大事に扱うかを語る場面を思い出してほしい。
さて、死の場面を岩井忠熊(ただくま)の本から引用する。
明治45(1912)年7月15日
わずか50分ばかりの枢密院(すうみついん)会議に出席し
常になく姿勢を乱し、時々居眠りしたという。
さすがに侍医(じい)たちは診察し
脈拍不整、肝臓硬化、脚部疼痛(とうつう)
下腿浮腫(かたいふしゅ)を認めている。
天皇は恍惚(こうこつ)と仮睡(かすい)を繰り返しながら
19日には昏睡状態に入った。
侍医のほかに東京帝大医科の青山、三浦らも診察に加わり
尿毒症と診断された。
同30日、天皇はついに心臓麻痺をおこして
61(満59)歳の生涯を終った。
田中光顕は天保14(1843)年に生まれた。
官職を辞したのは大正8(1919)年。
死んだのは昭和14(1939)年。
幕末までを彼の人生の第一期とすれば
官職を辞するまでは第二期となる。
普通の人間ならば引退するだろう。
しかし、彼は残りの20年間を
無限のエネルギーをもって疾走する。
善悪の彼岸を越えて、世間から嫌われ、憎まれようとも
一向に気にしないのである。
田中の破天荒な人生は、人生50年といわれた時代に
70歳を過ぎてから花開く。
岩崎弥太郎の三菱財閥形成については少しは書いた。
しかし、一方の財閥の雄
三井については全くといっていいほどに書いていない。
昭和のテロリズムの時代、三井は犠牲者を出したが
三菱にはテロリストたちの犠牲者はいませんでした。
これは単なる偶然でしょうか。
それとも何か必然的なものがあるのでしょうか。
では、その必然的なものとは。
三井は前身は呉服商から発する。
それから金融業にも進出、いわゆる三井両替商の出現である。
江戸幕府が江戸に出来て一世紀をすぎたころには
江戸の他、京都、大阪にも支店を設けた。
要するに、金融ネットワークを作り上げていた。
三井は大坂で徴収した税金を江戸幕府に送金する為替システムを作った。
幕末、外国銀行との取引も三井を窓口として行なわれるようになった。
明治新政府が出来ると、300万両の金を新政府に渡す。
この金がもしなかったら、いくら岩倉具視や大久保利通が
薩長同盟で強力な政権をつくろうとも
たちまち瓦解(がかい)する運命にあった。
どうして三井は300万両の金を用意できたのか。
300万両の国債募集を行なったのである。
これが日本最初の国債であった。
この国債のために三井は大量の従業員を動員
300万両を超える380万両以上の金が集まった。
岩崎弥太郎はこの国債のことをいちはやく知った。
明治4(1871)年7月、岩崎は藩札を大量に買い入れた。
ただ同然の金額であった。
三井の国債の存在を人々は知らなかったのである。
藩札を太政官札(だじょうかんさつ)と引き換えて大儲けした。
(明治政府によって発行された政府紙幣)
その金で藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらう。
ここに競争相手が登場する。
三井を中心に東京、大阪の豪商たちが
資本金を出して郵便蒸気船会社を設立
この後、日本国郵便蒸気会社となる。
ここで三菱と三井がダンピング競争に入る。
三井に協力したミニ財閥が次々と去っていく。
そして最終的に三井と三菱だけが残る。
西南戦争で三菱は物資の輸送で儲け
三井は陸軍を支配していった。
また兵の糧食を独占した。
西南戦争後、三井はまた船会社に挑戦する。
それが共同運輸会社である。
三菱と三井による本格的なダンピング競争だった。
この競争は3年間続き、ついに政府が介入して日本郵船会社となった。
この会社は数々の三菱側の謀略を経て三菱系の船会社になっていく。
この会社を実質的に支配したのは、岩崎弥太郎の死後
2代目を引き継いだ岩崎弥之助であった。
三井は新政府設立の貢献者としての地位を維持し続けた。
三井を支持し続けたのは井上馨(かおる)であった。
明治4(1871)年、日本は新貨幣を発行する。
そのとき三井は政府特許代理人となっている。
藩札が太政官札となった年である。
三井は自己の手形を発行しようとした。
そこで銀行開設の認可申請を政府に行なった。
井上馨は協力したが伊藤博文は反対した。
伊藤は国家体制による銀行を創るべきだとした。
そこで他の財閥も入れて第一国立銀行が出来る。
この銀行を、国家財政の全収入が経由することになった。
明治維新を国家財政の面から見るならば
三井とその他の富豪たちが
国家という商品を売買する対象にしたということである。
三菱が船会社としてその富を巨大化していく一方で
三井は国家の財産そのものを支配していった。
この三井に井上馨が強力に支持を続け
第一国立銀行を三井の支配下に置く。
他の財閥は資本準備が不足して強制的に去らしめられる。
明治15(1882)年、日本銀行が出来る。
ここで三井は日本銀行の主要な株主となり
それまでにあった153の民間銀行の発券札は回収されていく。
日本銀行がどうして重要なのか。
松方正義と井上馨は日本銀行によって国策
すなわち国が決めた重要産業へ投資する。
それは重点主義を取り、選ばれた産業(企業)の
株や債券に低利の融資をすることであった。
この政策を取るにあたり、外債すなわち外国からの借金に頼らなかった。
鉄道、汽船、紡績(ぼうせき)、軍需産業などの
基幹産業が日本銀行の低利の融資を受けて躍進していく。
三井が明治維新政府と共同で行なった300万両の
国債発行システムが後の日本銀行の基本政策となった
といっても過言ではない。
日本銀行に金や銀があったのか。
当時の日本銀行の通貨流通額は約1・5億円。
政府が国庫に保管する金銀準備金は870万円。
すべてはバクチから始まった。
当時の大蔵卿大隈重信は松方正義に懸念を表明した。
松方は国民が日本銀行券を信用しているから問題がないとした。
しかし、外国貿易に支障をきたした場合を危惧し
横浜正金(しょうきん)銀行(東京銀行の前身)に
300万円を入れて、この資金で日本の輸出産業を育成した。
横浜正金銀行に金銀が蓄積されてくる。
この銀行が外国貿易の拠点となり
また為替業務の窓口として大きく成長する。
やがて、天皇が大株主となり「天皇の銀行」といわれるようになる。
要するに、信用創造によって大量の日本銀行券が印刷され
人々はこの紙幣を完全に信じきり、金融バブルが発生したのである。
松方、井上、大隈の3人が、明治維新後の金融政策の舵取り役であった。
ここで、見方を変えると、大隈の存在が大きい。
後藤象二郎が福沢諭吉と大隈に、高島炭坑で出来た借金を埋め合わせるため
岩崎弥之助への売却を依頼したことはすでに書いた。
岩崎弥之助は最初は拒否していたが、最終的に2人の仲介者の求めに応じた。
もし、この炭坑を岩崎弥太郎が手に入れていなければ
今日の三菱は存在していなかったかもしれない。
高島炭坑は後藤とトーマス・ブレイク・グラバーの共同経営であった。
この時以降、グラバーは三菱の重役となっている。
2代目岩崎弥之助は福沢諭吉に投資をする。
田中光顕への投資とは別のやり方でだ。
彼の出版事業と慶応義塾にである。
福沢諭吉は三菱に優秀な人材を提供する。
グラバーのル―トで造船技術者をイギリスから迎え入れ
明治33(1900)年には長崎造船所で軍艦を建造するまでになる。
私は三菱が巨大な財閥となったのは人的に見れば
田中光顕とその背後にいる山県有朋の力添えゆえだと考えている。
台湾出兵と西南戦争での利益が最初の基盤となった。
その次の人的な利益は、福沢諭吉であろうと思う。
彼が慶応義塾大学出の優秀な人材を三菱のもとへ送りこんだからである。
「企業は人なり」を、弥之助は知っていたのである。
弥之助が造船業と鉱山業の後、銀行業に乗り出すことができたのは
慶応義塾大学から優秀な人材を迎え入れたからである。
田中とは異なるギブ・アンド・テイク方式が
弥之助と福沢諭吉の間で出来ていたからである。
大正3(1914)年7月に勃発した
第一次世界大戦でも三菱は造船、製紙、鉱業で儲けた。
また、投機商品の分野でも拡大主義をとり
ロンドンとニューヨークに支店を出した。
三井物産と激しく競合するようになった。
私たちは高橋是清(これきよ)を
「日本のケインズ」として高く評価するが
第3代日銀総裁に川田小一郎(こいちろう)が
高橋是清を日銀総裁にしたのである。
川田が三菱系の人間であることを知れば
日露戦争時には、三菱の意向に添って
外資をユダヤ閥のロスチャイルドから獲得したことも理解できよう。
高橋は代理人として、三菱のために一生を捧げた男で
そうたいした才能の持ち主ではない。
日銀総裁のポストを三菱系が独占してきたことを知ると
日本政府がどこに、どのように金を流してきたのかが分かる。
第一次世界大戦は三菱にとって天の恵みとなった。
あっという間に、三菱を中心とした工業生産額は
農業生産額を上回った。
安価な人件費が日本の工業を支え続けた。
農村から流れた女工たちは1日16時間も働かされた。
多くの女工は病気に倒れるか、娼婦へと転落していった。
三菱は政府とグルになり、右翼を使い
工場改善を願う労働者をけちらかした。
玄洋社が絶えずその中心にいた。
間違いなく、田中光顕は、闇の勢力を動かしていた。
鉱山、船舶、貿易に多くの成金族を生んだ。
しかし、本当の成金は三菱であった。
三菱を中心に「飢餓輸出」が行なわれた。
大量輸出するためには、労働者を飢餓状態にしておく必要があった。
すなわち、労働階級を犠牲にして、花形輸出産業を育てることこそが
大正時代の政府のやり方であった。
西園寺内閣も原敬内閣も同じ政策を取った。
大正初期の工場労働者は官営工場を合わせて100万人。
その55%は女子労働者、うち20歳未満の女子が60%も占めていた。
女工の大半は生糸、織物、紡績といった花形輸出産業に雇用されていた。
女工のほとんどが寄宿舎生活で、寄宿舎は名目的には福祉施設だったが
その実態は彼らを厳重に監視し、自由を束縛するためのものだった。
女工の労働条件と労賃は、明治後期の状態と50歩100歩で
さして改善されていなかった。
繊維工業の女工の労働時間は12~16時間で
深夜労働禁止の規約も守られていなかった。
結核などの大病で死ぬ女工が増えて
その年間死亡者は優に一千名を超えた。
彼女らはいわば、「飢餓輸出」の犠牲者だった。
弥之助の息子久弥を3代目当主にすえ、自分は第4代日銀総裁となる。
三井がその金融資産を多くの会社に投資して利益を上げているとき
三菱は、造船、鉱山、そして銀行業に進出して、事業を巨大化するために
日銀を支配しようとしたのである。
岩崎一族は「日本のロスチャイルド」と呼ばれるようになる。
三菱は3代続けて日銀総裁を出して
金融界において三井と三菱は対等の立場となっていく。
松方正義が首相のとき、弥之助が日銀総裁であった。
2人はひそかに相談をした。
そして結論が出た。
日本を金本位制の国家にすると。
そして、イギリスと交渉を開始する。
日清戦争で清国から獲得した3千万両の賠償金は
イギリスの銀行に入れられ日本側に渡されることになっていたからである。
これが世にいう「下関条約」の巨額賠償金である。
この賠償金を支払うために、清は税収のほとんどを返済に回すことになる。
清は国家崩壊に追い込まれていく。
この金本位制採用について伊藤博文が反対の声を上げた。
「金(きん)のない国家がどうして金本位制を採用できるのか」と。
松方と弥之助は伊藤を説得した。
イギリスが、銀で支払われる清国の賠償金を
金に交換してくれると弥之助が伊藤に説明した。
金本位制が採用されてから日本の貿易、特に輸出が飛躍的に伸びた。
また、外債発行、外資導入が容易になった。
軍事公債もよく売れた。
国力はぐんぐんと強くなった。
だが、日本人は気づかなかった。
日清戦争後、清国はロシアに旅順大連港を奪われたことを。
イギリスに威海衛(いかいえい)を占領されたことを
フランスに広州湾を租借させたことを。
これはイギリスの奥の院が動いた結果だった。
やがて、日本はロシアと戦争するように仕掛けられるのである。
「ロシアと戦争する金(かね)がない」と
伊藤が言った時、浴衣姿の頭山満(とうやまみつる)が
伊藤に言った言葉を信じる人々がいる。
「あんたは天皇の次に偉いんでしょうが
あんたが戦争しないなんて言わせない」
今日でも日本人は、日清戦争を仕掛け
日露戦争へと導いたイギリスという国家のことを知らずにいる。
日露戦争に勝ったからいいのではない。
ユダヤ財閥から外債を買ってもらったために
日本は戦勝後も借金だけが残ったのである。
明治維新のとき、無一物の日本人が外債を発行せずに
国家らしい国家を形成していったのである。
三菱が金本位制国家にした。
このことがテロリスト国家となっていく日本の幕開けであった。
明治4年、山川捨松(すてまつ)は
岩倉使節団一行に同行して「アメリカ号」で横浜港を出発した。
捨松はキリスト教徒になって日本に帰ってくる。
ここで大山巌(いわお)との結婚となる。
大山夫人と在米11年間のキャリアによって
大山捨松は明治政府高官夫人となっていく。
明治18(1885)年12月
第一次伊藤内閣で大山巌は陸軍大臣となる。
この年から明治21年は「鹿鳴館(ろくめいかん)時代」である。
大山巌と捨松はこの時代の中心人物となる。
明治31年1月20日、大山巌は元帥となっている。
大山巌は同時に、皇太子妃選定の最高責任者になっている。
私は何を言わんとしているのか。
この大山巌元帥(げんすい)を大山捨松が動かして
会津魂をゆり動かし、会津藩に出自を持つ
しかもクエーカーの娘を九条節子(さだこ)に仕立て
秘かに皇太子妃選考の10名のメンバーに入れたのではないのか
ということである。
天皇閥をキリスト教化するにはキリスト教徒を皇太子妃に送り込めばよい。
その上に会津を敵として総攻撃し、会津を奈落の底に突き落とした
長州の連中に対して復讐しなくてはならない。
この結婚には、捨松の兄で帝大総長になる山川健次郎が協力している。
昭和天皇が長州閥の力を背景に行動するのに対して
貞明皇后(ていめいこうごう)は
薩州(さっしゅう)閥の力を背景に行動する。
この薩州閥の中心に大山巌と捨松がいた。
この大山巌と行動をともにしたのが同じ薩州出身の松方正義であった。
金融も支配した松方正義はユダヤ閥と深く結びついていく。
それに協力したのが大山巌と岩崎弥之助。
その3人の力学を知り尽くした捨松が
ひそかに九条節子を皇太子妃にせんがために動いた
というのが、貞明皇后誕生の物語りである。
この貞明皇后誕生物語にもう一人、重要な人物がいる。
津田梅子である。
捨松と一緒にアメリカに留学した仲間である。
梅子は明治33(1900)年、フィラデルフィアの
モーリス(クエーカー教徒)の援助を受けて
女子英学塾を設立し、捨松は顧問となる。
明治37(1904)年、大山巌は満州軍総司令官になる。
この年、捨松は女子英学塾(後の津田塾)の理事になっている。
このことからも、津田塾大学が捨松の力で大きく飛躍したことが分かる。
明治40(1907)年、大山巌は公爵となる。
位階(いかい)を極めた人物となった大正5(1916)年
大山巌死す。享年75。
大正8(1919)年、捨松死す。享年59。
捨松の名は明治を描いた本の中にほとんど登場しない。
ごく稀にキリスト教関係の本に脇役として登場するだけである。
山川咲子が故郷を捨てて東京に行くとき
彼女の母は咲子を捨松とした。
たぶん、母は
「お前は今までの咲子ではない。すべてを捨てて
会津の復讐をなせ。その日が来るのを私は待っている」
と言ったに違いないのである。
九条節子は九条家とは全く関係ない、両親不明の子供である。
その子供はキリスト教人脈から皇室に入れられた
クリスチャン(クエーカー教徒)である。
その計画は捨松と梅子が仕組、最終的に田中がこれに協力し
明治天皇、伊藤博文を巻き込んで成した一大芝居であった。
秘すべきスキャンダルを知るということは
私的利益のために大いに役立つことを彼は知り尽くしている。
「ならぬことはならぬ」のではなく
「ならぬことをなしとげる」
田中光顕は少女の決意を確かめて、明治天皇に報告した。
皇太子嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)には子種がなかった。
このことは東久邇宮(ひがしくにのみや)の証言で明らかになった。
つまり大正帝に子供ができなくて、貞明皇后に何人か男をあて
それで子供を生ませていったと「昭和の劇」に書かれている。
貞明皇后は明治34(1901)年4月29日
裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)
明治35(1902)年6月25日
雍仁(やすひと)親王(秩父宮)
明治38(1905)年1月3日
宣仁(のぶひと)親王(高松宮)を生み
11年後の大正4(1915)年12月2日
崇仁(たかひと)親王(三笠宮)を産んでいる。
4名の男子を産んだとされる。
ところが、皇室ジャーナリスト河原敏明が
三笠宮は双生児であり、その妹である糸子は
生後すぐに京都の山本子爵家に入籍させ
京都郊外の今井家に里子として出し
5歳半のとき上京区の尼門跡寺院である大聖寺に
1か月間滞在後、大正10(1921)年6月1日
奈良県下の尼門跡寺である円照寺に入り
昭和14(1939)年8月1日
第10世門跡に就任した山本静山尼であることを発表した。
平成7(1995)年4月12日死去。
詳しくは
「昭和天皇の妹君・謎につつまれた悲劇の皇女」を見てほしい。
秩父宮の父親は東久邇宮稔彦(なるひこ)だと思っている。
何よりも彼は、自ら告白しているようではないか。
「誰だかわかりませんけど秩父宮のお父さんが
貞明皇后のハートを射止めていて
それで秩父宮を溺愛したらしいんです」と。
東久邇宮はパリで愛人との生活に沈溺(ちんでき)していた。
明治天皇の第9皇女聡子内親王を捨てたままだった。
その彼は、たびたびの帰国命令を拒み続けていた。
結局、大正天皇の崩御(ほうぎょ)と
大葬(たいそう)を契機に、ロンドンに留学中だった
秩父宮がパリに乗り込んで直談判し、ようやく帰国する。
私はこの秩父宮の行動に、父親への愛情を見る。
西園寺公望(さいおんじきんもち)が秩父宮に
東久邇宮(ひがしくにのみや)は
危ない連中と付き合っているから忠告しろ
という場面が出てくる。
また、逆の場面も出てくる。
証拠となる文献はないが
私は、東久邇宮が秩父宮の父親であると確信している。
高松宮は、兄弟とはほとんど別の行動を取った。
海軍に入り、近衛文麿 (このえふみまろ)の家に出入りし続けた。
近衛家と有栖川家は血閥を形成する。
敗戦後、近衛文麿は昭和天皇に廃位を迫ったが
昭和天皇の逆襲に遭い、戦犯として罪に問われ自殺した。
昭和天皇は高松宮の期待を裏切り天皇であり続けた。
有栖川宮殿下とは、有栖川宮威仁(たけひと)王のことである。
威仁王は、明治維新の頃の征夷大将軍有栖川熾仁(たるひと)
の息子で大正天皇が皇太子のときの教育係であった。
その威仁王の息子がどうして皇室の第3皇太子になったのか。
ここに見え隠れするのは、貞明皇后となる節子皇太子妃の問題であろう。
要するに、公家が不穏な動きを見せはじめたとみる。
秩父宮誕生もまた謎に包まれているゆえ
明治天皇側を代表して宮内大臣田中が
朝廷と公家との間の調停に乗り出し
有栖川宮威仁王の息子を皇子として迎えたものと思えるのである。
有栖川家は高松宮をその祖とする。
その母は皇后に仕えていた女官の松下トヨノである。
三笠宮の父親は誰かである。
一つだけ言える。
貞明皇后が中絶したくないほど愛した人の子ではないかと。
「木戸幸一日記」(1969)の中に奇妙な記述がある。
「島津治子(はるこ)聴取書」とある。
治子は島津久光の長男と
島津斉彬(なりあきら)の4女の間に生まれる。
治子は18歳の時、島津長丸男爵(のち貴族院議員)と結婚する。
大正13(1923)年1月26日
皇太子裕仁と良子(ながこ)女王が結婚し
宮内省侍従職(じじゅうしょく)となる。
また東宮女官長となり、2男4女の母としても家庭を守る。
昭和2(1927)年2月1日、夫長丸が急死し、依頼免官となる。
治子はその後、角田つねという霊媒師の女性と会い
新宗教にのめり込んでいく。
「木戸幸一日記」には治子の記事が多数見られる。
ここでは全部省略する。
では、月日不詳、治子の聴取書のごく一部
最も重要であると私が判断したところを記す。
月日不明としたのは、重要書題として後世に残すためとみられる。
一、難波大助の死霊ー許嫁の処女を奪う云々
一、秩父宮の生霊
一、高松宮の生霊ー宮様の御生母である大正天皇様の女官の死霊
一、大正天皇の侍従の死霊ー皇后の御相手ー八郎氏
一、国体明徴維神の道を立つるには
高松宮殿下を擁立(ようりつ)しなければならぬ
文中「大正天皇の侍従の死霊ー皇后の御相手ー八郎氏」
とあるのは西園寺八郎である。
貞明皇后が最初に与えられたのが西園寺八郎であること
即ち、昭和天皇は大正天皇の子供でなく
西園寺八郎の子供であることを私は
「日本のいちばん醜い日」の中で、約10頁にわたって
詳述したのでここでは書かないことにする。
昭和20(1945)年、日本はまさしく敗れ去った。
アメリカが進めてきた「オレンジ計画」の通りとなった。
オレンジ計画とは、1920~30年代にアメリカ軍によって
立案された対日戦争計画の詳細プランである。
大東亜戦争はほぼこの通りに推移した。
オレンジ計画を推し進めてきたのは貞明皇后と彼女を支える薩州グループ
特に海軍とヨハンセン・グループ(吉田茂を中心とするグループ)であった。
島津治子たちは、オレンジ計画の内容を知っていることになる。
私は明治天皇は明治大帝といわれるほどの人格ではく
凡庸(ぼんよう)な人間にすぎなかったと書いた。
では、大正天皇はどうか。
彼は明治天皇や後の昭和天皇よりも英邁(えいまい)
な天皇であったと思っている。
大正天皇はこの外交に日本の危険きわまる未来を意識し
山県有朋を政治の中枢から遠ざけようとした。
大隈重信は山県有朋の辞任要求を受け
加藤高明を首相にし自分は引退すると、山県に言った。
日本人は知らなければならない。
伊藤が死んだ後、最終的な首相任命権は山県が持っていたことを。
明治大帝と言われた男は単なるマリオネットであったということを。
日本は、政党政治の国家ではなく、山県の独裁政治の国家であった。
山県は、元老松方正義、大山巌、西園寺公望の同意を得て
後継首相に寺内正毅(てらうちまさたけ)を任命する。
この時から日本は、中国という国家に深く関わっていくのである。
それはまた、玄洋社=黒龍会の右翼団体が
政治の中枢と複雑に絡み合って飛躍していくのであった。
大正天皇は、大日本帝国憲法が定める
「天皇主権=天皇親政」を目指し
「元老主権」に固執する山県を排除しようとしたのである。
間違いなく大正天皇は正常であった。
しかし、牧野伸顕(のぶあき)は
内閣総理大臣・子爵高橋是清(これきよ)とともに
大正天皇を追い込み、11月25日
「朕久しきに亘るの疾患により大政を親らすこと能わざるを以て
皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」
とするのである。
嗚呼、何たる発表ぞ。
昨日までは叡慮文武の聖上と其の御聖徳を頌しつつ
今日俄然此の発表あり。
「嗚呼、何たる発表ぞ」の中に、大正天皇はクーデターで
廃位に近い状態に追いやられたことが分かる。
牧野伸顕は明治4(1871)年11月
岩倉遣外使節団に同行して米国に行く。
11歳の時である。
そして9歳の津田梅子、一つ上の山川捨松がいた。
牧野は文部大臣の時
クエーカー教徒の新渡戸稲造を一高の校長に任命した。
南部藩出身の新渡戸はクエーカーを日本に広めた男である。
クエーカーとして牧野を知る時
貞明皇后との関係が新しい見方に変化する。
貞明皇后がクエーカー教徒として
その師としての牧野を尊敬していたのではないか。
そこから、大正天皇の権力を2人して奪おうとしたのではないだろうか。
大正天皇が崩御する大正15(1926)年の
牧野伸顕の同月23日の「日記」から引用する。
略
この牧野と貞明皇后は通常の仲でなく
それまでも頻繁に会った様子が見える。
文中「何ら御言葉なく御落涙遊ばさる」に注目したい。
貞明皇后は牧野に完全に心をゆるしている。
11月4日、原首相が東京駅頭で狙撃されたが
その翌日、牧野は貞明皇后に会っている。
ここでも「御落涙ながらの御言葉を拝聴したり」とある。
皇后が宮内大臣の前でみだりに涙を流すべきではないだろう。
この光景は異常である。
貞明皇后は涙を流したり
大正天皇への“ぐち”を、これでもかと牧野に伝えている。
牧野は当たり前のように貞明の私情を書きつらねている。
この2人に何があったのかは読者が判断すればいい。
ただ、私見を述べれば、貞明皇后の牧野への限りなき恋情が見える。
大正天皇は自らの意見に反して、牧野をはじめとする宮内官僚によって
強制的に「押し込め」られたというのが私見である。
皇太子の配偶者捜しが始まったのは
立太子の礼(りったいしのれい)の後からである。
貞明皇后は久邇宮邦彦(くにのみやくによし)の
第一王女良子(ながこ)女王を皇太子の妃にしようと考えた。
当時14歳
皇后が学習院女学部を参観されたのは中等科3年生であった。
授業参観から帰った後、裕仁親王に良子女王の名前を告げた。
この時裕仁は16歳、現代なら高校2年生である。
この内定に大正天皇は関わっていない。
すでに大正天皇の脳病は進行中であったからである。
邦彦王は陸軍士官学校へ進み
日露戦争では第一軍の参謀として出征し
大正13年には陸軍大将、そして軍事参議官となる。
母は俔子(ちかこ)
俔子妃の父は島津忠義公爵、その母は側室の寿麿(すま)
久邇宮と俔子夫婦には2男3女の子供がいた。
そのころ宮内省では、年々増大する皇室予算を削減するために
この2年後に大鉈(なた)を振るって財産処分をしてまで
経済の立て直しをすることになるのだが
その前兆が現れ始めた時期に、あえて御殿を造営するのである。
この「花御殿」の建築が始まった当初から
三菱が全資金を出していたことは広く世間に知られていた。
良子を妃にする計画は内定の数年まえから
島津家と貞明皇后との間で決定し
そのために三菱が「花御殿」の建築を始めたというわけである。
貞明皇后は薩州閥を最大限に利用した。
「宮中某重大事件」とは
良子女王に色盲因子の遺伝の可能性があることが分かり
山県有朋がこの婚約をご破算にせよと動いたことに始まる。
しかし、久邇宮邦彦王は応じず、杉浦重剛(じゅうごう)に相談した。
杉浦は久邇宮王に味方し、右翼の連中を総動員して
山県と原敬の2大政治家に「殺すぞ」と脅しをかけて
ついに、久邇宮邦彦王の娘が皇太子妃となった
ということである。
この事件によって日本という国家はほぼ死に果てた。
どうしてか?
日本はヤクザが支配する国家となり果てたからである。
反山県のためには
どのようにすればよいかを田中に相談したに違いない。
山県を最もよく知る男が田中であったからだ。
そこで、杉浦に莫大な金を与えるということになった。
その証拠があるのかという問いに、逆に反問しよう。
では、右翼の連中は何も喰わず、反山県の行動が出来るのかと。
巨額の金が秘かに杉浦のもとへ送られた。
彼を信じ行動をともにする同志はその金を受け取り行動に出た。
ついに官憲をしのぐほどの反国家組織が出来上がった。
それはまた、労働争議のスト破りにも役立った。
三菱は危険分子を手なずけることにより
彼らを利用し国家そのものとなっていくのである。
田中はそれらの危険分子たちを支配する王の代理人となるのである。
もちろん、王は岩崎小弥太である。
貞明皇太后は、4人の皇子を生んだ自信をもとに
天皇家に伝わる人格を無視した側室、局制を形骸化させ
天皇家の婚姻を一夫一婦制にしたことは特筆すべきことであった。
同時に病弱の夫大正天皇を支え
4人の皇子たちとの家庭的な語らいを大切にしている点も
それ以前の天皇家の歴史にはないことである。
近代天皇家の「表」の顔の確立者を明治天皇とするならば
明治天皇の息子の嫁、つまり貞明皇太后こそは
近代天皇家の「裏」の顔を確立した人
ということができるのではなかろうか。
天皇家に人間の息吹きを持ち込んだ人ともいえる。
大正天皇の死の枕頭に
実母の柳原愛子(やなぎわらなるこ)を呼び寄せたことや
摂政官、秩父宮の妃殿下選びに率先して口をはさみ
自らの主導で結婚を実らせたこともそのいい証左となるだろう。
大正天皇は死の直前まで脳病ではなかった。
「歯が痛い」と言っていた。
私は何者かに、歯が痛くなり、口がきけなくなるような薬を
少しずつ投与されたのではないかと思っている。
「アーアー」としか言えなくなったのはそのためであろう。
大正天皇は大正15(1925)年
12月24日に死の前兆があり
25日午前1時25分に死ぬ。
天皇の手を最後まで握りしめていたのは
天皇の幼少期以来久しぶりに接し
その変わり果てた姿を目にした柳原愛子であった。
私は明治天皇よりも大正天皇の方が幸せな死に方をしたと思う。
最後の最後で天皇は母なる人の手を握りしめることができたのだから。
奈良武次(侍従武官長)は「日記」の中で
死の床にいる大正天皇に裕仁や高松宮が
冷たい態度を取り続けている様子をそれとなく書いている。
大正天皇は英邁(えいまい)で心優しい天皇であった。
しかし、子種がなかった。
それでも貞明皇后が生んだ4人の皇子を可愛がった。
しかし、貞明皇后は天皇のその優しい心を理解せず
男狂いであった。それだけではない。
権謀術数に長け、反長州ゆえに、薩州閥に近づくのである。
自らクエーカー教徒となり、捨松と牧野とともにクエーカー人脈を作り
日本を敗戦へと導くのである。
今まで貞明皇后について書かれた本のすべては
貞明皇后礼讃(らいさん)の本ばかりであった。
彼女の出自に疑問を持つことなど決してなかったのである。
山川三千子は(山川健次郎の妻、捨松の議姉、女官)
貞明皇后は個性に強い方でございました。
また秩父宮を特に愛しておいでになったとも書いている。
これが、東久邇宮と田中光顕が秩父宮を天皇にしようとする
2・26事件の遠因となるのである。
私は大正天皇は脳病ではなく何者かに薬を飲まされて
喋れなくなっていったと思っている。
その背後に、貞明皇后と牧野がいるとみている。
皇太子裕仁はヨーロッパから帰ると
大正10(1921)年11月に摂政になる。
翌大正11年6月20日に
良子女王との正式婚約が発表される。
この年の2月1日に山県有朋が死んでいる。
私はここで頭山満について書く。
それは大正13年1月26日の皇太子と良子女王の結婚式に
頭山がモーニング姿で宮中に姿を現しているからである。
誰が頭山を結婚式に招待したのか。
その背後に岩崎小弥太と田中の影を見るのである。
軍人と右翼の連合が2人の結婚を成功裡に導いた。
右翼とはヤクザと浪人の混合体を指す。
怪文書を書いて
山県と官僚たちを脅迫し続けた北一輝は招待されなかった。
牧野は右翼の理論家の小尾晴敏と
安岡正篤(まさひろ)を宮中に入れて
皇居の旧本丸内に「社会問題研究所」をつくった。
労働争議対策を2人に研究させた。
この研究所は名を「大学寮」と改められた。
大川周明がこの大学寮に入り
主として大正デモクラシーを
いかにして潰すかの研究をした。
この大学寮に軍人たちが加わってきた。
この寮を維持、管理する金は三菱が出した。
またしても三菱である。
岩崎小弥太は島津家、久邇宮と血閥を形成し
ついに皇室とつながるようになったからである。
この大学寮に出入りする若手将校たちに
北一輝(きたいっき)とともに2・26事件で
処刑された西田税(みつぎ)がいて軍事学を教えた。
大アジア主義を若手軍人たちは学んだ。
「民間に在りて功労顕著なるもの」と
頭山満は最大のお誉めの言葉を天皇・裕仁から戴いて
「民間の元老」となった。
官にあっては、明治・大正時代の元老はことごとく死に
西園寺公望(さいおんじきんもち)だけが残った。
天皇裕仁(ひろひと)は、いかなることであれ
頭山満の館に国家権力が介入するのを禁じた。
皇居、西園寺公望の館と並び、頭山満の館が
日本という国の中の3つの治外法権の地となった。
裕仁は頭山をたびたび召すことにより
人々に頭山が裕仁のボディガードであることを明らかにした。
この時以降、頭山は「国父」と呼ばれるのである。
三菱の一員となったグラバーは
ジャーディン・マセソン商会という
麻薬や兵器を扱う英国の商社の派遣社員であった。
福岡を拠点としている麻生財閥は
マセソンの麻薬と兵器を日本に売り込むことで巨大化した。
そのマセソンの、日本における代理人が吉田健三であった。
吉田に子供がなかったため、土佐・宿毛(すくも)の
竹内綱(つな)という船問屋で衆議院議員が
長崎の女郎に産ませた子供を養子に迎えた。
(一説には女郎が他の男と交わり産んだ)
この子が大きくなり、牧野の娘雪子と結婚する。
吉田茂である。
三菱と麻生財閥は島原から石炭船を出して
マセソンのルートでイギリスの植民地
東南アジアとインドに運ぶ。
この麻生財閥と三笠宮が血閥を形成していく。
石炭だけではない。
多くの女性が売られて「カラユキさん」となる。
三菱と麻生の慰安婦輸出を奨励したのは福沢諭吉であった。
これも三菱の金で肥った男だ。
一方片山満は、玄洋社、黒龍会などの組織を持っていた。
三菱は片山を「民間の元老」とするよう
牧野を動かしたに違いないのである。
三菱は「政府の不正と誤りを是正する英雄」として
頭山を陣営の一員としたのである。
頭山とその一派の連中を管理するために田中が活躍するのは
昭和に入ってからである。
頭山と田中の仲が深まれば深まるほどに
三菱は巨大化し、それに比例して暗殺の件数が増えていく。
北一輝は三菱から捨てられた。
後に三井が彼と組むことになる。
ここで、難波大助について書く。
「貞明皇后の子供たち」の中で、木戸幸一の「日記」の中に
一、難波大助の死霊ー許嫁の処女を奪う云々
とあるのを書いた。
この難波大助が皇太子を撃った
「虎ノ門事件」について書くことにする。
難波大助が皇太子裕仁を虎ノ門で仕込み銃で狙い撃ち
未遂に終わった事件は、大正12(1923)年12月27日であった。
伊藤博文は若い日、難波家の下で足軽として働いていた。
難波大助は山口県熊毛郡出身である。
地方の旧家で大地主であり、父親の作之進は衆議院議員であった。
難波大助は明治天皇が大室寅之祐であることを
知っていた可能性が高いと私は見ている。
彼は中学生の頃までは皇室中心主義であったという。
言うまでもないが、難波大助も大審院で死刑を宣告された。
この判決を聞いた大助は、大声で
「革命万歳、国際共産党万歳」と叫んだらしい。
この虎ノ門事件は国内に大きな波紋を広げた。
第2次山本権兵衛(ごんべえ)内閣は即座に辞表を提出。
警視総監や警視庁警務部長は懲戒免職
山口県知事は2か月の減俸
大助が上京する際、立ち寄っただけの
京都府の知事でさえ譴責(けんせき)処分を受けた。
父親は衆議院議員を辞職、門に青竹を結び
以降、一歩も外へ出なかった。
大助の卒業した小学校の校長と教員も職を辞した。
いかにも日本らしい責任のとり方だ。
「暗殺の日本史」では難波大助について次のように書かれている。
私は田布施麻郷(おごう)に近い地に住む
松重揚江を訪ねた時
この難波大助の件について聞いてみた。
大室寅之祐を初めて世に問うた史家は私に次のように語った。
難波大助と良子(ながこ)女王が
恋仲であったことは間違いのない事実だ。
私が若い頃、難波大助の友人がたくさんいた。
私は彼らに会うたびにこの事を聞いた。
彼ら友人は皆、「裕仁に良子を奪われた」という
難波大助の言葉を私に伝えてくれたんだ。
間違いはない。
難波大助は友人たちに
「復讐してくる」と言って東京に出たんだ。
この「処女を奪われた」とする噂は全国津々浦々に出回る。
警察は噂を伝えたとして多くの人々を留置場に入れたり
刑罰を与えても、噂は一向に収まらず、むしろ増加していった。
どうしてこんな噂が拡大したのか。
多くの日本人が、明治、大正、昭和と続く3代の天皇に
何か知らぬが“胡散臭さ”を感じていたに違いないからである。
難波大助は単なるテロリストでも、社会主義者でもない。
恋に破れた青年であったのかもしれない。
難波大助の父作之進は、大助が処刑された直後から
絶食生活に入り、半年後の5月25日餓死した。
右翼とは何なのかを知ることによって
昭和時代を知ることができる。
日本の史家のほとんどは右翼を避けて昭和史を書く。
右翼とは、尊皇攘夷運動の落とし子であった。
その代表的な例が玄洋社であった。
はっきり書いて前に進もう。
皇室のヤクザ化が進んだのである。
久邇宮邦彦(くによし)王が昭和天皇の妃
良子(ながこ)皇后の父親として
頭山満一派と結びついたことである。
軍人たちが右翼の人間たちを尊敬しはじめ
急接近していくのも昭和に入ってからである。
昭和天皇は「現人神(あらひとがみ)」に
自ら喜んでなっていく。
明治、大正と続いた議会政治は消滅していく。
ということは、優秀な政治家たちは暗殺されるか、追放されていく。
その中心に天皇を中心とする皇室グループがいる。
政治の世界に軍人が増加していく。
右翼連合の時代となり、彼らが軍人首相と結びつくのである。
昭和天皇という新しい支配者をいかに位置づけるかを
皇室を中心とする連中は考え、今まで完全に無視され続けた
大正天皇が死ぬと、大袈裟な葬儀を挙行した。
一世一元を演出してきた連中は
天皇が死ぬと大赦(たいしゃ)を発動した。
そして、日本という国家の時間は
天皇が支配するということを人々に教えこんだ。
天皇の死は、古い時間が去り、新しい時間の始まりとなった。
「頭山精神」から頭山満の天皇観が書かれている。
略
「陛下の赤子として生を此の世に享けた無上の栄光」
この文章を読むと「現人神」がいかにして誕生したかを知ることができる。
そして、天皇のために死をもって尽くすことの意味をも理解できる。
神はいつも犠牲者を求める存在であることも知り得る。
日本の革命思想とは何なのか。
5・15事件にしろ2・26事件にしろ
その他の事件のパターンは同じである。
すべて「天皇陛下万歳」のもとに起きている。
「君側(くんそく)の奸(かん)」という表現がある。
悪いのは天皇の側にいる奸臣であるというのである。
奸臣(かんしん)の中に、財閥、政治家が含まれる。
だから、君側の奸臣を除いて、天皇親政にもっていけば
日本という国は、弥栄(いやさか)の国になるという思想である。
「君側の奸」ゆえなどではなかったのである。
それは「金」の問題だった。
「金」を渡し、財閥のガードを固めようとしたのである。
日本の史家たちにはこの視点が欠けている。
三菱は龍馬暗殺の後から危機管理機構を作り
田中光顕を最高代理人として秘密資金を出し
スパイ情報網をあたかも蜘蛛の巣のごとく張りめぐらせていたのである。
だから三菱財閥創立以来、一件の暗殺事件にも遭っていないのである。
これはまた、田中という人間のすごさを物語るものである。
君側の奸ゆえに数々の事件が起きたのではない。
数々の事件は、天皇親政を謀(はか)り
それによって利益を手にすることを知った連中
財閥、政治家、軍人、宮廷の人々
官僚たちによって仕組まれてきたのである。
そこで「金」がどこからともなく生まれてきて
右翼、ゴロツキ、軍人たちに渡され、ほとんどは遊興費に費われ
最後に残った「金」で犯行となっていくのである。
北一輝は天皇国家のもとで
共和政治と社会主義が合体したような
政治形態を追究した。
何よりもその美文調に当時の人々は酔ったのである。
北の代表作は「日本改造法案大綱」である。
その中で彼は、天皇を奉じた「クーデター」を断行し
国家権力を奪取し、憲法を停止し、戒厳令を実施する。
そして、社会主義的な国家へと改造する。
と説いた。
この考えを若者将校たちが熱狂的に歓迎した。
私が、北一輝の思想には重みも深みもないとするのは
日本という国をいかに改造するかの具体的な方法が
論じられていないところにある。
裕仁は本庄繁侍従武官長から
この2・26事件を前もって聞いていた。
多くの学者や研究者たち、そして皇道派の人々が
秩父宮を擁立せんとしたクーデターであったと説く。
しかし、最初から天皇側に情報が洩れていた点を考えると
これはあり得ない。
秩父宮の動きも鈍すぎる。
私はこのクーデター未遂事件の演出者は
牧野伸顕とその背後に田中光顕と三菱がいると見る。
三井にやらせた後に甘い汁を吸い取ろうとする三菱の思惑を見る。
このクーデターの後に外交官広田弘毅(こうき)が
首相になることで、このことが証明される。
生まれも育ちもという言葉があるが、彼は純粋の玄洋社社員である。
頭山満と杉山茂丸によって純粋培養された男は
ひたすらに玄洋社のため、そして天皇のために働くのである。
三菱と三井という財閥が
日本を実質的に支配していたことを知ると
ほとんどの謎が解けてくる。
大東亜戦争終結の直前、天皇は秘密財産をスイスの銀行に移す。
三井、三菱も同様のことをする。
あとの戦争とは、多くの国の財産を、日本という国民の財産を奪い
天皇と財閥の連中が、その財産をスイスの銀行に移すことであった。
田中はそのための三菱の代理人であったと
私たちは理解しなければならない。
私が知る限り、田中光顕の最後のメッセージである。
この時、93歳。没する2年前である。
近衛文麿(このえふみまろ)が首相に任命され
日本中の政界、官僚、そして一般人が
双手をあげて歓迎したときであった。
施政の根本方針を
「国内の相克(そうこく)と摩擦の緩和」
においた近衛文麿の就任演説を
ラジオ放送を通じて聞いた国民は熱狂し
さながら日本という国に救世主が現れたかのようであった。
ところがただ一人
近衛内閣は国家に不幸を招くと心配した者がいたのである。
それはほかならぬ五郎の家内の祖父田中光顕であった。
今度、近衛が内閣を組織したそうじゃな。
はい、そのとおりです。
今度の近衛内閣は大変評判が良くて
国民は皆喜んでおります。
そうか、しかしそれは国民が
公卿(くぎょう)というものの正体を何も知らんからじゃ。
大体公卿というものは、政治上の責任を
絶対に自分で負おうとはしない人種なんじゃ。
いざ責任を負うという段になると
常に何のかのと理屈をつけて
それから逃げようとする癖がある。
これが昔からの公卿のやり方で
だからこそ公卿の家は今日まで亡びずに続いてきた。
近衛の家が藤原鎌足以来千数百年も続いてきたのは
それは近衛家がいつの時代にも
政治上の責任を負おうとしなかったからなんじゃ。
しかし国の政治というのは
そんな無責任な根性でやれるわけはなかろう。
そんな根性で政治をやってもらっては国民が迷惑する。
国の政治には一国の安危と存亡とがかかっている。
じゃから国の政治にあたる者は己の一身や一家のことを顧みず
あくまでも責任を背負うという真剣な気持ちでなければならん。
歴史を見てみよ。
政治に真剣に取り組んだ者は常に滅亡している。
遠くは平家や源氏から、北条、足利、織田、豊臣
そして徳川に至るまで滅んだのは
すべて責任を負うたからなんじゃ。
こうした事実から考えてもわかるように
公卿のような無責任な態度こそが政治を混乱させてきた。
保元、平治の乱や源平が戦っていたときでも公卿たちは
自分の身がかわいくて、責任を負いたくないばかりに
敵方に内通したり味方の者を欺いたりしている。
現に明治維新のときもそうじゃった。
公卿どもが責任回避していたばかりに
勤皇の志士で死ななくてもよい者が
どれほど死んでいったか分からん。
そのように田中は歴史の細々とした事例を挙げて
最後に村田五郎に言って聞かせるように
まあ、今に見ておれ
公卿の近衛がどんなことをするか。
そのうち国民やお前らにもだんだんと分かってくるじゃろうから。
この話を聞いたとき
五郎は田中が官界を去ってからすでに数十年も経っており
それ以来蒲原(かんばら)のような田舎に引っ込んでいたので
少々田舎ボケがしたんだろうぐらいにしか思っていなかった。
しかしその後日中事変が起こり
さらに太平洋戦争が生じるに及んで
その間の近衛の煮え切らぬ態度を見ていると
どうやら田中の言ったことは
嘘ではなかったように思えてきたのである。
そして「公卿は国を滅ぼす」という
田中の言葉が当たったことを悟ったのは日本が敗戦し
連合国に占拠されたずっと後になってからのことであった。
だから、天皇と財閥の面々も全員
東京裁判にもかけられず無罪。
真面目だったがゆえに天皇と財閥の奸計(かんけい)にはまり
「天皇陛下万歳」を叫びすぎた軍人たちのみが有罪となった。
今日の日本の繁栄は、多くの国々の財産を奪ったこと
日本国民を数百万単位で殺戮したこと
天皇と財閥の面々が、それをなしたことを基にしている。
この歴史を学ぶことでしか、日本人の洗脳された頭脳は解けない。
しかし、巷間(こうかん)に溢れる本は
すべて、天皇陛下万歳を叫んでいる。
読者よ、そろそろ、天皇陛下漫才!と叫べ。
私は、天皇裕仁が自分の正体を知る政治家、軍人、右翼たちを
周辺から去らしめるために、敢えて戦争を仕掛けたと見る。
それで、幸か不幸か、戦争で敗けて「ほっ」としたのである。
今でもこの考えは変わらない。
田中光顕こそは、皇室のスキャンダルを最大限に利用した。
この男の死を見て、天皇裕仁は
大東亜戦争を仕掛けるチャンスがついに来た
と思ったに違いない。
本当の天皇、天皇陛下万歳といわれる
平和天皇に変身するためにこそ
日本は敗北しなければならなかったのである。
2013年7月15日発行
おわり



